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10-鮮血の玉座、潔白のアリス ――「記憶が戻った。」 はそれだけ告げるとふらふらと歩き出し、部屋を一周うろついて、結局もとの位置に――今度はこちらに背を向けて座り込んだ。どうやら動かずにいられなかっただけらしい。 それにしても、少々意外な反応だった。俺とたいして歳の変わらない、しかし俺と違い戦えないというより戦う必要がないのであろう種類の人間である彼女にしては結構な人生のようだから、思い出したら泣き叫ぶくらいのことはあっていいと思ったのだが。 すっかり小さく丸まってしまった背中を見下ろせば、何やらぶつぶつと忙しなく唱えるだけで不穏なオーラもない。ただ以前のようにオーラが拡散傾向にある。“怖いもの”だというのは読み通りなのだろう。 「」 「はっ、ハイィィィ!!」 パクが声をかけるとはすごい勢いで手を挙げて返事をして振り向いた。そしてバランスを崩して壁に頭をぶつけた。――やっぱり今までのは猫かぶってたんだなあ、となぜかしみじみ思う。その忙しないのの方が彼女には似合っているらしいので、変だとは思わなかった。大人しいのはきっと躾けか何かで、もとはそういう子なのだろう。 パクはフラフラしているに手を貸してそっと起こし、それとなく促して傍にあった椅子に座らせると、彼女のやや上気した頬に手を当てて尋ねた。 「もう一度聞くわ。あなたはどこから来たの?」 「・・・」 はその問いに言葉を詰まらせるでも、はぐらかそうとするでもなく、じっと考え込んでいた。何度か口を開こうとはしたようだが何かもたついている。それを見て、パクがふっと笑った。 「私ね、記憶を読む能力を持ってるのよ。・・・言葉にできないだけなら、私が代わりに説明するわよ。」 傍目に見ればどこまでも突拍子のない発言だが、パクが記憶を読めるのは事実である。がきょとんとした顔をしたので念について説明しようかと思ったが、次に彼女が発したのは俺の予想とは百八十度違う言葉だった。 「・・・お願いしていいですか?」 ――信じたらしい。 そういえばパクとマチにはすぐ心開いてるっぽいよな彼女。同性だから何か通じるものでもあるんだろうか。と考えながらも裏切られたような気分をぬぐえないでいると、パクがの横に立ってその肩に手を置き、視線で俺達を見回してから話し出した。 「簡潔に言うわ。はこの世界の人間ではない。」 「・・・は?」 「・・・おう?」 オレと四番が首をかしげる。他は知っていたかのような落ち着きぶりだ。しかし絶対に俺達の反応の方が正しい。四番と視線を合わせて首を竦めると、パクは一息おいてからゆっくりと話し始めた。 「世界教の言う“神の住まう世界”・・・だったかしら?あれって実在するのね。それが実際にどういうことなのかまでは彼女もわからないようだけど、とにかく、この世界と完全には同一視することのできないような場所よ。」 「・・・・言い切れる理由は?」 半信半疑というより十割疑心で訊ねると、パクは目を伏せて微笑した。 「愚問ね。この子共通言語を知らないどころか、目にしたこともなかったのよ。ジャポンと似たところで普通に生活して、普通に学校に通っていたのに。そんなことって有り得ると思う?」 「・・・まあ、それは確かに有り得ないけど・・・」 でもまさか、世界が違うとまで言われるとは思っていなかったのだ。流石に理解が追いつかない。俺がまだ首を捻っているとパクはまた一息つき、の髪を撫でて表情を窺うような仕草をした。はそれに頷く。真っ黒い双眸には一厘の迷いもないように見えた。少なくとも、世界教の理念を「電波系」と銘打った人間の表情ではない。まだ少し戸惑っているところはあるようだが、それがまた彼女の行動に真実味を与えていた。そもそもそんなものなくとも、この場に居る六人のうち四人は初めから派だったし、ふと横を見れば四番ももう既に信じる姿勢に移行している。 ――えぇぇ、俺だけ置いてけぼり? パクの証言は十分証拠と言えたし、言葉通りの解釈をしなければなんとか納得できる話だったのだが、やはり俺にはどうにも腑に落ちない。どうにかして反論しようと考えはじめたところで、またパクがにいくつかの質問をした。世界教についても説明をしたいらしい。 「・・・これも、私が話した方がよさそうね。」 「すみません・・・お願いします。」 が浅く頭を下げ、パクが顔を上げる。 「・・・これも簡潔に言うわ。世界教ってのはとんだキチガイ集団よ。の居たところと世界教の本拠地みたいなところを、念で繋いでこの子のこと引き摺りこんだみたいね。――でも、トンネルの内部はとても安全とは言えない状態。この子も虫の息になるくらい傷を負ってる。まあ、その傷の手当ても世界教の人間がやったみたいだけど・・・これ、面白い能力ね。対象の自己治癒力を極端に増強させてるのかしら。手足の治りがやけにいいのもそのせいね。」 言われてみれば確かに、はじめ腫れていたはずの指先は今朝の時点で既に正常なっていた。これには納得してクロロに目配せしていると、今度はが話しはじめた。 「・・・こっちに来た時も、全部忘れてたんです。あの時は外傷性の全健忘で、ほんとうに何もかもわからなかったんですけど、治療を受けてくうちに思い出して。・・・お世話になりすぎるのは悪いから、帰ります。って言ったら、“お見捨てなさるのですか!”なんて縋られて・・・」 真っ黒い瞳が融けたように潤んでいる。しかし涙声にはならず、むしろ気丈そうな声で彼女は続けた。 「私が通って来た穴、“ワームホール”っていうらしいんですけど、そこ、こっちから通ろうとすると体が裏がえるんです。」 「・・・裏がえる?」 マチが聞き返す。は一瞬顔を上げ、それからふっと目を窓にやって、答えた。 「・・・骨とか内臓が、外側に出ちゃうんです。しかも裂傷がおこって、ひどいとバラバラ、もっとひどいとミンチみたいに。」 ――どうりで。視線を切らすとマチと目が合った。彼女も同じことを考えているのだろう。 「世界教の人たちって皆狂信の気があるというか・・・かなりヒステリックで、私が“長居出来ない”って言ったら世界の終りみたいな顔で皆穴に飛び込んじゃって・・・幹部の人は残ったみたいですけどね。」 はあっけらかんとした声で締めくくり、息を吐いた。しかし相変わらず涙目だ。気にしていないわけではないはずだが、随分平気そうにするものだ。ちょっと首が飛んだ程度で呆けるくせに、と思っていると彼女がちょうど説明してくれた。 「私、昔から記憶いじる癖みたいなものがあって・・・と言っても全消去するんじゃなく、なるべく自分がダメージを受けないように改竄したり、情報と経験値だけ残して、気持ちは捨てちゃうみたいなんです。さっきの絵本みたいに」 『情報は情報として頭にある』 彼女の台詞が蘇り、そして俺が彼女にしたことを思い出した。――そういえば、あれだけ脅かしたのにあれ以降彼女が俺を怖がるような様子は見ていない。 ――なるほど、“気持ちを捨てる”か。確かに、普通に生きていくにしても、時々は必要になるスキルかもしれない。むしろ、平和に生きていて突然シビアな現実を目の当たりにした時の方が、受けるショックは大きいだろう。彼女は本来それに耐えられないタイプの人間なのかもしれない。 「ただ、あのときはもうどうしたらいいかわからなくて、もう何もわからなくていい、って・・・それで自分のことまで忘れてたんです。・・・思い出せてよかった。ありがとうございます。」 が、額が膝につくほど深々と頭を下げた。クロロをはじめ全員が沈黙する。 礼を言われる筋合いはなかった。彼女はべつに記憶を取り戻そうと躍起になっていたわけではないのだし、人生最大の不幸とも言うべき事件を思い出させてしまったのだから、状況的には恨まれても何の不思議もない立場に居るのが俺達のはずだ。しかしは顔を上げてもまだ有難そうに笑っている。オレは思わず尋ねた。 「なんで?」 「へ?」 「どうやら普通にやったんじゃ帰れないらしいこともわかっちゃったし、人が大量に、それも普通じゃない死に方で死んだ場面とか、思い出しちゃったわけでしょ?忘れてた方が幸せだったんじゃないの?」 「・・・。」 黒い目が軽く見開かれる。それからその小さい指が前髪の奥の額をなぞり、それにつれて目を伏す一瞬、ちらりと冷たい光を帯びた気がしたが、それはすぐ消えて、彼女はまた笑う。 「大丈夫ですよ、嫌なことは忘れられます。」 屈託のない笑みには一点の曇りもない。正しく心からの笑顔である。 俺は一瞬ぽかんとし、それからじわりと湧いた恐怖心にはっとした。――何を怖がる必要がある。彼女は決して強くない。恐ろしいものでもない。むしろ弱すぎるほどだ。忘れることで生を保つなど、強いと呼べるはずもない。――でも。 「不思議な奴だな。」 ふいにクロロが言った。はまた「へ?」と言って首を傾げる。 「弱いくせに弱いと思わせない。強い奴なら沢山知っているが、それでもお前が一番末恐ろしいような気がする。なぜだろうな。」 「・・・オレもクロロと同感。親はどんな育て方したんだろうね。」 「まったくだ。」 クロロとオレが小さく笑うと、はしばらくうろたえたあと、照れたような戸惑ったような笑みを溢した。 ――しばらくは退屈しなくて済みそうだ。 オレは一人笑みを深め、また騒がしくなってきた外に目をやった。 |