07-箪笥の中の頭蓋骨 II






「・・・・さむい」

目を開けるなり呟いて、毛布ごとずるずるとマットレスを這い降り、狭い部屋の隅に置かれたストーブに火を点ける。チチチ、とノッキングするような音をぼんやり聞きながら毛布に包まっていると、やがて炎は大きくなり、黄色く燃え始めた。染み入るような熱にほっとして目を細める。朝方の青白い光は黒ずんで罅割れた灰色の壁をぼかすように照らし、僅かな影は濡れたような色をしている。色のあるものはすべてストーブの光を受けているように見えた。
静かな気配に耳を澄ますように目を閉じて、私はぼうっと考える。

――覚えていないことがたくさんあるということに、私はこれといって違和感を感じなかった。まるで最初から何も知らなかったみたいに、記憶の全てが息を潜めている。思い出されないように、触られないように、小さく身を縮めて隠れている。
でも、記憶は逃げない。隠れているだけで、それ以上のことはしないのだ。
現に私は物の名前がわかるし、自分の名前も思い出した。いろいろな概念も、探すまでも無く持っている。このままでも十分生きていける。要りもしないのに思い出す必要はないのである。

そう結論付けて、私は首を傾げた。
どうやら私は比較的悩まない方らしい。記憶の無いのを嘆く気は見ての通り毛頭ないし、家がどこだかわからないのも大して不安には思わなかった。とても前向きな性質のように思える。
しかし、もしそうならそもそも記憶を失う理由がないのである。思い出の“良い・悪い・どうでもいい”の比率が、覚えていることが少ないとは言え、極端に悪い方へ偏っていたのも不思議だ。

「・・・そうだ」

枕はないが、位置的に枕もとであろう場所に置いたノートを、またずるずるとボロいマットレス・・・いや、ベッドまで這って行って腕だけ伸ばし、端を指先で摘んで引き寄せる。それからようやく起き上がり、ノートを開いて床に置くと、挟んでおいたペンのキャップを取ってあの文字を書き始めた。
――余談だが、私はたぶんこの文字をもとから知らない。あの四人の留守中に書きの練習をしたにも関わらず、あまりにもたどたどしいからだ。規則性があるのですぐ覚えられたし、不自由はしないので何でもいいのだが。

「・・・やっぱり。」

ゆっくりと書き上げた短文は、八つと四つと二つ。数の乏しさをさておけば、比率はほとんど正常だ。何もおかしなところはない。ノートに目を落とし、私はふっと苦笑した。
ただの記憶不足だ。悪いことの内容は前回と全く変わっていない。記憶喪失があんまり自然なせいで結果を急ぎ過ぎたのだ。
思い切り溜息を吐くと、白い煙が所在なさげにふらふらと立ち昇った。――どうしよう、なんかすごく恥ずかしい。あの本もう一回借りたい。というより、きちんと説明をしてしまいたい。きっと知りたがりの性分なのだろう、記憶の内容はどうでもいいと思えるのに、このわけのわからないのはどうにか解明したいと喉が疼いた。――ただ考えるだけじゃだめだ、何か。
うずうずするのを抑えきれずに毛布に包まったまま床を転げていると、突然「」と呼ぶ声がした。私は思わずぴきりと動きを停止する。

「・・・・何それ、蓑虫?」

マチさんお願い見なかったことにして!







「蓑虫「わあぁぁああああああ!!うわぁあああ!!!!!」・・・連れて来たよ。」

蓑虫?マチの言葉を遮ったの必死の形相からして彼女が部屋で何か妙な事をしていたのだろうと予想はできるが、何がどう蓑虫なんだろう。あまり羽目を外す子ではないと思ったが、読み違えたか。それとも今まで猫を被っていたか。―――後者だな。俺はなぜか確信した。
しかしそれはとりあえず置いておいて、あたふたとマチの周りをうろついているを「こっちおいで」と呼び寄せる。はマチに何事か念を押したあとで小走りにこちらへやってきた。そして俺が前にしているパソコンの画面に気付くと、俺を視界に入れつつディスプレイに視線を走らせ、中央に表示された顔写真にはっと目を見開いた。

「・・・あの、これって」
「そ、。名前は出てないけど、服も髪型も顔もそのままだからね。」
「・・・”ケンショウキン”いちじゅうひゃくせんまん・・・・い、1000万ジェニー!?」
の首に懸かってる金額だね。」
「くっ、くく、!?」
「何笑ってるの?」
「わ、笑ってないです、ち、ちょっと待って、なんでそんな大金!」

彼女は通貨も知らないようだったが、レストランの料金から考えたのか、八桁もあって大金でないと言うことはないと判断したのだろう。それだけに顔面蒼白、とまではいかないが、先ほどよりもさらにあたふたとし始めた。そういえば昨日帰って来た時も妙にあたふたしていたかもしれない。やっぱり借りてきた猫だ。本当はあまり静かな方ではないのだろう。(となると、クロロの予想は大方正しかったというわけか。)なんというか、まあ、感服だ。

「安心しなよ、条件に“一切傷を負わせないこと”ってあるから、もし捕まっても実際首取られたり腕もがれたりはしないと思うよ。邪推すると、傷がなければ死んでても良いってことになるけどね。」

は「ヒィ」とかなんとか悲鳴を上げ、両腕を押さえながら一瞬ひどく遠い眼をした。それから数秒もなく諦めたような息を吐くと、今度はじっと眉を歪めた。

「そうじゃなくて、何で私に・・・そんな、懸賞金なんてかかるんですか?」
「そ。そこなんだよね。」
「へ?」

力の抜けた表情を横目に、「連絡はこちらへ」という文に張られたリンクをクリックする。表示されたのはメールアドレスとホームコード、そして団体名。所在地までは流石に明かされていない。

ってさ、神様信じてる?」
「いや、信じてはないですけど・・・何か関係あるんですか?」
に懸賞かけてるの、宗教団体だよ。」
「・・・うん?」

画面の青白い光を鏡のように反射して青く色を変えた両目が歪む。「わけがわからない」とでも言いたげな顔である。
俺は別のページをめくり、目当てのページを開いて見せた。

「”世界教”。最近できたばっかりの新宗教だってさ。」
「世界教・・・」

は呟きながら画面に顔を近付け、説明らしき文をぶつぶつと読み下した。

「この世界に神はあらせられない。神は神の世界に住まわれ、水槽に魚を飼うように、私たちの世界を創造され、鑑賞なさる。神の世界には神の意志を知る神の子らも住まう。神の子らは私たち人間に神の意志を伝える。私たちには神の子を持て成し、その声を聞く義務がある。しかしそれを理解せず、ただこの神に与えられた地を貪る者は絶えない。このような暗黒時代に終止符を打ち、真に神と結びついた世界を造るための重大な任務を遂行すること、それこそが私たち人間の真なる役割なのである・・・?」

思い出したのか板についたのか、中々の音読である。教え甲斐のある子だ。
文は段落を変えて続いていたが、はそこで薄く息を吐いた。ため息とまではいかないようだが、疑問で充満したような空気がひしひしとこちらへ流れてくる。しばらくの間乾いた沈黙が続いたが、ドアの方にいるマチが欠伸をしたのとほぼ同時には口を開き、ためらいがちに呟いた。

「・・・電波系?」
「まあ、確かに所詮ぽっと出の新宗教、って感じだけど・・・問題なのはこの団体の構成員でさ。」

次のページを開き、表示された名前と仰々しいモノクロの顔写真のうちいくつかをカーソルでちょいちょいと指して見せる。はきょとんと名前を見つめ、ゆっくりと首を傾げていった。覚えはないらしい。

「この上の三人、教祖と幹部二人・・・こいつら、プロの懸賞金ハンターだ。」
「マネーハンター?・・・マネーハンター?」
「って、そっか、わかんないか。」
「す、すみません」

手持無沙汰に頬を掻くと向き合い、どこから話すべきなのだろうと考えた。
彼女のことだから、存在を忘れていると言うよりそもそも知らないという可能性の方が高い。少なくとも今の蜘蛛の中では最も情報収集能力に長けているはずの俺が全力で調べても出てきたのが懸賞サイトの一ページのみ、となると、彼女の存在はあまりに普通だったか、執拗なほどに隠されていたということになるが、前者は現状からして有り得ないので端から除外している。後者だとすると、それはつまり外界との接触を一切遮断されていたということだ。あの時逃げていたように見えたことから考えると、それほどいい扱いはされていなかったのかもしれない。
しかし、それにしては礼儀作法には敏いようだし、蓑虫の件でわかるように猫を借りてくるとかいう世渡りの技も会得している。そもそも人当たりが悪くないところからして、それほど一般人離れした環境で育ったようには思えないのだが。人格と言うのは覚えておけない程の過去の積み重ねだ。記憶喪失云々で変化するものではない。という話を誰かがしていた。
となると、可能性として浮かびあがるのは一つ。流星街である。あそこであれば、まあ、場所によればこんな風に育ってもおかしくはないだろう。ジャポンやその近くの国から、棄てられたわけではなく、文化意識を持った状態でふらふらと流れてきた人間やそれに準ずる者が集まっている場所もないわけではなかった。そこで匿うように育てられたとしたら――ああなんだ、こっちのほうがずっと説明がつくじゃないか。
ひととおり予想して、まあどの道彼女が一般常識を欠いていることは間違いないのだ。と結論付ける。俺は口を開いた。

「まずハンターっていうのは、平たく言うと世界中の価値あるものを探しまわってる人たちのこと。よくあるのが財宝、珍獣、秘境なんかのハンターかな。まあハンターなんてほとんどは自称だから、中には妙なのもいるけどね。
で、それとはやや一線を画して、賞金首になってる犯罪者を探して捕えたり殺したりする“ブラックリストハンター”ってのと、先に言ったようなハンターと賞金首ハンターの中間として、懸賞金のかかった品や人物を手広く狩る“マネーハンター”ってのがいる。
プロ、っていうのは資格を持っているか否かで判断するから、アマチュアのハンターがプロを凌ぐこともある。それでもプロは毎年頭にある超難関の試験に合格してるから、それなりの実力者ではあるかな。ちなみに倍率は志望者数百万人中で合格者は一桁ってくらい。
――どういう奴らか、わかった?」

はすべて消化したような顔でこくりと頷く。もとより難しい話ではないが、思い出したというわけではなさそうな割に何の疑問も示さずさっさと飲み込んだ辺り、やはり頭の作りは悪くないらしい。もしくはその少ない記憶故に吸収が早いのか、どちらにせよ悪くはない素材だ。何かしら面白いことをしでかしてくれそうな気もする。マチではないが、俺の勘はそう言っていた。
ちらりと見ると、まだ扉の横に立っているマチは否定と肯定が一対二といった風な視線をこちらに向けていた。顔に出ていたか。俺は苦笑し、真剣な、それでも疑いが消えきらないといった面持ちで画面を眺めるに声をかけた。

はどうしたい?」
「・・・そりゃあ、逃げたいですよ。追われてたら安心して暮らせそうにないじゃないですか、危害がないとはいえ・・・」

心成しか迷いのある瞳がちらりとこちらを窺う。黒い目を見慣れていないわけではないが、彼女の色は少々特殊に見えた。ある程度近くで見ても瞳孔と光彩の区別がつかないほど、ただひたすら黒いのだ。“暗い”と表現した方が近いような気さえする。

「ま、そう思うなら手伝ってあげてもいいけど・・・いいの?もしかしたらの知り合いとか肉親が教団内にいて探してるだけかもしれないのに。」
「・・・いいんです。たぶん、私と係わりがあるのはその通りでしょうけど・・・」

どうやら瞬きをしていなかったらしく、彼女のゆっくりとした瞬きに合わせて押し寄せたらしい涙で瞼の縁が濡れた。

「この顔」

小さい指が画面をなぞる。教祖の写真が隠れ、血色のよくなった指先の縁が透けている。は顔を顰めているらしかったが、眉根は髪の奥に隠れているためよく判断できない。ただ、オーラが何か物々しい雰囲気を漂わせ始めているのは確かだ。
はそっと言葉を繋げた。

「・・・胃がむかむかする、ような気が・・・しないでも、ない。」
「・・・。」

はっきり言おうよ。そんな意味を込めて苦笑してみたが、彼女の視線は既に画面に戻っていた。どうやら意思自体は真剣そのものらしい。ただ、口にするべきか否かを判断できない段階の自覚なのだろう。きっと、記憶ではなく本能からくる拒絶反応なのだ。それほどのものがこの男にはあるということか。
俺はあらためて教祖の顔写真を眺め、それからページを閉じてさらに別のサイトを探す。が視点を無くしてふらりと離れ、マチの方へ歩み寄った。しばらくはそのまま立ち止まっていたが、ドアの開く音のあと、再び足音が立つ。どうやらパクが来たらしい。の服を買いに行くようだ。はしばらく遠慮していたが、同じ服装、それも雪や泥がついたままの服でいつまで過ごす気だ、と指摘されると、遠慮しつつもすぐに態度を変えた。一応身なりは気になるらしい。――ということは、流星街と言うのもおかしいのか?いまいちよくわからない。

「シャル。」

とパクが出て行ってドアが閉まるのとほぼ同時に、マチが俺を呼んだ。
「何?」と返事をすると、彼女は数秒言葉をまとめるような間を取り、はっきりと言った。

「その宗教団体、潰した方がいいよ。」
「・・・なんで?」
「勘。」

――マチの勘はよく当たる。
昔から評判だ。もちろんパクの能力に比べれば確実性は薄く、漠然としているが、それでもかなりきわどいところまで読んでいることが殆どである。
俺はそっと眉を寄せ、読み込みが終わったページに目を移した。教祖の男はここ数年、懸賞金ハンターとしては活動していない。どうやら賞金首狩りに移行したらしいが、読み取る限り全件殺害。一説によれば殺害方法も宗教的かつ猟奇的なものだという。
そんな奴が神を信じていないを無傷で欲しがる理由は何なのだろう。もちろん宗教的理由に違いないが、それにしても何かが異常な気がしてならない。
考え込んでいると、マチが再び口を開いた。

「・・・からさ。」
「うん。」
「死体の臭いがした。」
「・・・死体?」
「そう。単なる血じゃない。相当えぐい死に方で相当な数死んでなきゃ、ああは臭わないよ。返り血もないしね。・・・まあ、だからが殺ったってわけじゃないんだろうけど、そういうことがあったなら記憶喪失も頷けるよね。」

興味はなさそうな目がゆっくりと部屋を見回し、達が歩いていった方向の壁で止まる。
マチといえば勘。ともなれば発言における憶測の割合は団内でも一二を争うほどで、しかもただの憶測よりはいくらか信じる価値がある。
の記憶喪失については本人もいろいろと推察していたが、現時点で最も腑に落ちるのは、やはりマチの推理だった。の曖昧で盲目的な仮説より随分冷静で現実的だし、何より「マチ」だ。
俺は静かに頷きながらパソコンの電源を落として席を立つ。マチは待っていたようにドアを開けた。

「・・・クロロ、まだ寝てるかな。」
「だろうね。」

期待など欠片もない声色で、マチは言いきった。




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