05-箪笥の中の頭蓋骨 I 「おはよう。」 ――またこのパターンか。 私は俯いたまま欠伸をして、まだ重い瞼を擦った。昨日の緊張が響いたのか身体は重いが、頭は水を被ったように冴えている。私は辺りをちらちらと確認しながら、少し離れたところに座っているクロロさんに訊ねた。 「・・・ここ、どこですか?」 「ホーム」 「ほーむ・・・」 Home、直訳で家。もしくは家庭。――え、ここが? ひとまずぽかんとして、それからまたおずおずと周囲を確認する。ボロボロのマットレスに日焼けした布を被せた簡易ベッドと毛布。砂埃や木片や粗大ゴミの一部のようなものが転がる床。日焼けや何かがこびりついた痕のある、今にもどこか崩れそうな壁。クモの巣、埃をかぶった電灯、錆びたサッシ、ヒビの入った窓硝子、日焼けして崩れそうなカーテン、テーブルに乱雑に置かれた分厚い本。その傍らで悠々と読書に勤しんでいるクロロさん。 ――まあ、ほとんど廃墟のような汚さを除けば確かに家かもしれないが、ふつう家とは明言できない代物である。しかし「ホーム」が隠れ家的意味なのだとすればなんとか納得できた。しかし問題はそれだけではないのだ。 「・・・いつのまに・・・移動したんでしょう・・・」 私が形容しがたい視線を向けるのも知らないような澄ました顔で、クロロさんは分厚い本のページを捲った。熱中しているらしく返事はなかなか帰ってこない。しかし答えを急いでいるわけではないし、記憶喪失をほとんど開き直ってしまった今になって「過程」を気にするのもおかしいので、べつにいいんですけどね、ともごもご呟いて問いをなかったことにしておいた。クロロさんは相変わらず黙って本を読み進めていたが、一瞬こちらを見たので、聞こえてはいるのだろう。そう思うことにして、マットレスと比べればずっときれいな毛布を足元に寄せ集めて顔を埋めた。 目を覚ましたのは違和感のせいだったが、目が覚めたのは寒さのせいだった。毛布の外にあった顔は昨日に引き続きぴりぴりとしている。しばらくそうして温まった後、優雅に足を組みかえてこちらから視線を外したクロロさんをちらりと見、もう一度横になった。目覚まし損、とは言わないが、彼がああなら問題無い。ひとりかもしれないと思って、不安になっただけだったのだ。 毛布を頭まで被って丸くなると、眠気はすぐに帰ってきた。冬の朝の布団ほど寝心地のいいものはない。 「」 本を閉じる音と、呼び声が重なった。しかし、返事をしようと毛布から顔を出して首を上げて口を開こうとしたときにはもう、クロロさんは目の前にいた。ありえない現象でもないのだが、私は少し首をかしげた。 視線を少しずらすと、彼の手に私が昨日シャルさんに渡されたノートとペンと、彼が今まで読んでいた本が握られているのが見えた。私が何か言う前に、彼は持っているものをすべて私に渡した。 「靴と上着は足元にある。外に出るのは構わないが、下手に歩き回ると迷うかもしれないからなるべくそれで暇をつぶしていろ。」 「え?あ、はあ。」 「半日したら戻ってくる。食料はそこの袋だ。トイレは同じ階にあるから、必要なら探せ。」 「わ、わかりました・・・」 彼が持つと軽そうに見えた本は下手な辞書より重く、ただでさえ負傷している腕では持っていられそうになかったのですぐ下ろした。それに目を落としている間にも彼は遠ざかっていく。 彼の背中が硬質なドアの向こうにすっかり消えたのを見て、私は小さく首をかしげて苦笑した。 「・・・野良猫?」 いても邪険にはしない、いなくも問題は全くない。適当な餌と寝床で釣ってはおくけど、逃げるなとは言わない。――もしかしたらそういう経験があるのかもしれない。やけに納得したような気持ちでひとり頷く。 私はしばらく考えた。半日と言わずここに置いていかれる可能性と、ここにいることのメリットを、慎重に天秤にかける。 どちらかというと、前者が重たかった。当然だ。見ず知らずで、軽傷とはいえ手負いの足手まといなのだから、このあたりで放棄するのが利巧と言えるだろう。私の希望が入った意見を言えば、しっかり恩返しさせてから放すのが一番いいのだが、ある程度金銭的に余裕があるのならばそうでなくても頷ける。 しかし、私は外には出ないことにした。古ぼけた窓の外はどう見ても寒そうだし、今までと同じ装備で外に出ればどうなるかは一目瞭然だ。毛布は与えられていたものの、持ち去るのはなんだし、そもそも重くて不便である。 私は分厚い本の表紙をじっと眺め、タイトルをのんびりと口に出した。 「“のうのしんぴ”」 “脳の神秘”。振り仮名のように書かれた“ハンター文字”の下には、銀の箔押しで、でかでかとそう書かれていた。こちらはすらすら読めるのだから笑ってしまう。シャルさん曰く、これは「ジャポン」という国の民族言語、つまり古い言葉らしい。違う表音文字を使っていること、表現に多少の差異があることを除けばほとんど同じ言語であるため、どちらのつもりで口にしても通じるが、民族言語の方で書かれた場合は読めない者が多いという。――と、いうことはつまり、私はジャポン人か、相当なジャポンオタクか、の二択ということになるだろう。もうちょっとくらい増やせそうなものだが、とりあえずは適当にしておく。 それにしてもクロロさんは随分と難しそうな本を出してきたものだ。私の状態を言えば選択は全く間違っていないが、ほとんど初期化されてしまった私の頭がこんな小難しそうな本についていけるかどうかはかなり怪しい。 私はまだ新しい本独特のにおいを嗅ぎながら、空白や目次をぱらぱらと捲った。はじめのページにたどり着いてからそこを手で押さえ、ノートのはじめに書いてもらった解読表を開く。先に言った通り表音文字なので、なんとか覚えていたアルファベットで読みを書いてもらえばだいたい意味が分かる。 一行目に指を置き、私は静かに文面に目を落とした。 当初の予定――正しくはその下準備を半日遅れで済ませてホームへ戻ると、わかってはいたが、誰かがいた。俺は半ば癖のようにその気配を辿る。――彼女はどうやら、まだあの場所にいるらしい。「律儀な奴だな」と誰に言うでもなく呟くと、シャルが喉で笑った。 「俺はこうなると思ってたよ。」 「俺は少し予想外だな。好奇心は旺盛そうだと思ったんだが。」 コートを脱ぎながら例の部屋に入る。案の定、彼女はほとんど朝見たままの姿勢で本を読んでいた。五十音表が書かれたノートが床に落ちているから、もう読みは問題ないのだろう。そう思いながら、何か声を掛けるべきか迷う。はどうやら俺達が帰ったことに気づいていないらしいのだ。 「・・・すごい熱中の仕方、クロロみたいだね」 マチの呟きはそう小さな声でもなかった。もとより大きな部屋ではないためこれは彼女も気づくだろうと思ったのだが、その気配はない。依然として青黒い表紙の本に目を奪われたままだ。 しばらくの間の後、シャルが小声で尋ねた。 「あれってクロロのでしょ?何の本?」 「脳科学。」 「・・・なんか難しそうなんだけど。表紙とか印字とかからして」 「まるっきり子供だったら飽きて寝るな。」 しかし彼女はページを一枚一枚しっかりとしたペースで捲っている。時々指を挟んだページに返るあたり、ただ捲っているわけでないことは明らかだ。 部屋の隅に置いた石油ストーブが小さな音を立てるのとほとんど同時に、彼女が洟を啜った。 「・・・放っとく?」 マチが尋ねる。ここには気にするべき他人の目もないので、そうしても何ら問題はないだろう。 俺がそっと頷こうとしたとき、は不意に本を閉じた。そして「あれっ何ページ開いてたっけ」と焦ったように小声で口走ってから毛布から飛び出し、こちらに向き直ると見たような正座の姿勢をとる。 「お、おかえりなさい、です!」 「・・・ああ。」 ――変な奴。 「あの本ってそんなに面白かったの?」 とりあえずお茶でもしようか、ということになったのはつい五分ほど前のことで、シャルさんがそう尋ねたのは、お茶を淹れてくれるパクノダさんを手伝い、マチさんとお茶菓子を運んでいた私にとっては席(という名の地べた)についた直後のことだった。あまりに唐突だったのでしばらく目を瞬かせ、「えーと」と無意味に間投詞を口にしながら言葉を整理した。 「・・・おもしろい、というか、夢中だったんです。」 「なんで?」 「私のコレの理由が、説明できそうだったので。」 「説明?・・・する必要あるかな?」 わりときついなこの人。あはは、という乾いた笑いでどこか殺伐とした雰囲気を誤魔化してから曖昧に頷く。 「なんとなくです。思い出す云々より現状の把握が先かなって。」 「ふーん・・・まあ一理あるか。」 なんだ、わりと肯定的だなこの人。今度はそう思い、ほっと胸を撫で下ろす。本当にマイペースな人だ。なんだか振り回されてしまう。 「受け身なタイプかと思ってたけど、案外考えてるんだ。」 不意を打ったマチさんの言葉に照れ笑いながら紅茶を少し飲む。熱かったが、マグカップから伝う温度は冷えた手に心地よかった。 「それで、何かわかったの?」 床に座る私の横でマットレスに腰かけているパクノダさんが、興味深げに私を見下ろして尋ねた。私はまた「ええと」と口ごもり、それから話す。 「状態としては、心因性の逆行性部分健忘、っていうのが今のところピンときてます。・・・前にパクノダさんが言ったように“自分で消した”としても、一番それっぽいので。」 「あら、なんで私の意見を?」 「な、なんといいますか・・・思い出してみるとやけに真実味があったので、脳障害の項目にさしかかったあたりから、頭の中で延々とリピートをですね・・・」 米神のあたりを人差し指でくるくるとなぞる。ふと視界に入ったクロロさんは、何を考えているのか全く分からない目で私を透かしてどこかを見ていた。なんだか何か見えていそうで怖いので見なかったことにする。 「“何かあった”っていうのも、かなり的を得てると思うんです。何もなくって突然雪道から記憶が始まってるわけはないですし・・・何かしら、衝撃みたいなものがあったと思うんです。心に対してか体に対してかはわからないですけど、体は知ってのとおり凍傷だけで・・・」 カップを置いて手をひらつかせると、シャルさんが小さく頷いた。 「それと、本の受け売りですけど、人間の記憶ってどんな状況でも良いことと悪いこととその他が6:3:1になってるとかで、・・・それで、試しに書き出してみたんですけど、私の記憶ってなぜか悪いことの比率が多いんですよ。」 えーっと、と呟きながら床に落ちているノートを拾い上げ、ひらがなの殴り書きのページを開いて、良いこと、悪いこと、その他、の順に数を読み上げる。 「・・・でも、“どんな状況でも”ってからには私もそうなわけで、でも結果がこれとなると、もしかして私って溜めこんで一気に忘れようとするものぐさなタイプなんじゃないか、などと、思いまして。」 言葉を探して黙ると、場の空気が完全にお茶会ムードからかけ離れていることに気がついてしまった。なんだか申し訳ないが、ここで話を切ってもたぶん結果は同じだろう。下唇を舐めて続ける。 「て、ことは、悪いことの比率があまりにも多かったりすると、いいことって何だっけ?みたいなことになりそうな気が・・・しませんかね?」 「まあ、そう言われるとそうだね。」 マチさんの相槌にほっとしながら続ける。羽目をはずさないよう、言葉はなるべく慎重に探した。 「だから、原因は私の性質の方にあるってことで、ある意味心因性。覚えてることもあるから、部分健忘。いまのところ記憶できてるから、逆行性。って結論、・・・・です。」 自分で頷いてなんとか結ぶ。先ほどのシャルさんに感じたような肯定的な雰囲気が場に充満していたので私はほっと息を吐き、紅茶を飲む。先ほどよりはやや冷めていた。 「なるほどな。人格的要素が多いから、あえて解離性障害とは言わないわけだ。」 「?は、はあ。」 “解離性障害”の項目を読み飛ばしていたため(漢字からして難しそうだった)クロロさんがどう解釈したのかはよくわからなかったが、私の説明に語弊が起こるような言葉はなかったはずだし、何よりこの場で一番抜けているであろう自分に理解させるのが第一だったのだから、きっと伝わってはいるのだと前向きに受け取って曖昧な返事をしておいた。相変わらず何か考えていそうだが何を考えているのかわからない目は、どこか遠いところを見ている。本当に何か見えてそうで怖い。びくびくとしていると、コントラストの強い黒い瞳が私を真っ直ぐに見た。 「中々の推理だ。貴重な証言を貰ったよ。」 「そ、そうですか?」 「ああ。」 彼は顔を少し逸らして紅茶を飲み、しばらくしてから私を見て、にやりと笑った。 顔がきれいだからか、その笑顔が凶悪だからか、私は強く身震いした。――逃げておいた方がよかったのかもしれない。 タイトルは諺「Skeleton in the closet」から。直訳して勝手に語呂よくしました。 意味するところは「家庭内だけの、外聞を許さない秘密」。ヒロインが騒いだ「ホーム」とかけて。 (101001)推敲 |