03-泡沫
―――逃げたい。 私はほとんど祈るようにそう念じ続けていた。 青年の問題発言も、シャルさんの物騒な行動のことも、時間が経つにつれ余計に鮮明になる。どこか冗談めいて見えていた刃物も今や本物としか思えず、想像はいくらしても悪い方にしか転ばなかった。 逃げたい。逃げないにしてもこの場を切り抜けたい。しかし文字通り足を引っ張る私の足はそれを可能にはしてくれない。 結局動くに動けず、私にできることと言ったらこうしてベッドの中で丸くなって息を潜めるくらいだ。視線を慎重に動かすと、窓の外はもう紺色に変っていた。 レストランで見たお姉さんはまだ帰ってこないのか、青年とシャルさんが立ち去ってから、部屋には読書に耽るパクノダさんと私だけが残されていた。寂しいような気もしたが、彼女もあの二人の仲間なのだと考えると、優しそうに見えた雰囲気は幻のように思えてくる。 ちらりとベッドサイドに備え付けられたデジタル時計を見ると、時刻は六時を回るところだった。まだそれほど遅くはなかったようだ。まして彼女が眠りにつくなど、夢のように遠い話である。 緊張のせいか空腹感はそれほど感じないが、神経はひどく磨り減っていた。この鋭く尖るような緊張を何時間も保っているのだから、当たり前と言えば当たり前の結果だった。 緊張の解き方はなんとなくわかる。解いてしまえば楽だろうなとも思うのだが、そうなると今度は悪い想像ばかりが容赦なく頭を駆け巡ってしまいそうで、どちらにしても気が滅入りそうだった。それならお腹が空かない方を選ぼう、と改めて意思を固め、じっと意識を尖らせる。 鈍い鈍いと言われたが、こうして息を潜めれば、音や気配でパクノダさんが今部屋のどのあたりで何をしているのか、何となくわかる。あのときはきっと油断しきっていたから何もわからなかったのだろう。助けてもらったことで気を許していたのだ。しかしその油断はきっと、多少なりと命に関わる。 ほとんどのことを思い出せない今、死んでも未練がどうとか、誰かが悲しむという気持ちは湧かない。けれど殺されることに何の感情も持たないわけはない。死ぬのはいやだ。死ぬのは怖い。痛いのだっていやだ。だから逃げられるよう、警戒して、警戒して、追い詰められても噛み付かなければならないのだ。いち生物として。 目を閉じて余計な映像を消し、さらに神経を研ぎ澄ますよう努める。こうしていると、不思議と不安はほとんどなかった。ただ漠然と、事実が事実として頭の中で巡って行くだけだ。 しばらくそうしていると、足元の方で本を閉じる音がした。手足がぴくりと強張る。彼女が立ち上がるのは何もこれが初めてではなかったが、その時よりも格段に神経質になっているせいだろう。小さな音一つ一つがやけに気になる。一段と息を潜めると、彼女はしばらくしてから立ち上がって、ゆっくりとした歩調で部屋を出て行った。 ――そういえば、彼女も朝からずっとここにいた。途中トイレに立ったりはしたが、部屋から出たり、食事を取った気配はない。 「・・・」 少し考えてから閉じていた目を開ける。この部屋に誰もいなくなったとしても、近くの部屋には青年やシャルさんがいるだろう。それ以前に、パクノダさんはすぐここに戻ってくるはずだ。警戒態勢を崩すのは気が引ける。なけなしの警備をやめて、完全な無防備に戻ってしまうことになるのだ。危険、というより、ただ怖い。 私の命に奪うほどの価値はないが、殺しや暴力は本来価値ではない。気持ちの問題である。という文章を、考えたというよりは取り出してきたように脳裏を走らせ、シーツを握りしめて奥歯を食いしばる。手足の痛みは引きはじめていたが、物を握ればそれはそれなりに痛む。しかし、そのくらいのことをしなければいつ気がふれるかわからなかった。気を抜けばこの怖いのに呑まれるんだ、と自分に言い聞かせて、じっと目を見開く。 不意にドアが開いた。パクノダさんが帰ってきたのかと思ったが、なんとなく、何かが違うような気もして、さらに神経を磨ぐ。心臓のあたりが嫌なリズムを刻んでいた。精神もそうだが、そろそろ身体の方も限界なのかもしれない、と漠然と考える。布団に遮られた視界に影が差した。 「やめろ。」 青年の静かな声がした。なんのことだろう、と考えているうちに、額に人肌が触れる。かと思うと見開いていた目が強引に閉じられた。抵抗しようかとも思ったが、してどうなるものでもないのはわかったし、する気力も残っていない。されるがままにじっとしていると、青年はまた話し出した。 「お前に危害を加えるつもりはない。シャルは少し用心深いだけだ。あまりにも無警戒だから、逆に疑ったんだろう。」 言葉の意味を順に飲み込んでいく。彼の言いたいことはすぐにわかったが、触れられている部分が無意識的な抵抗と不安でぴりぴりするのは抑えられない。そうすぐに恐怖心が拭えるわけはなかった。 答えかねて黙っていると、青年は何か考えるような間のあと、困ったような声で言った。 「お前の殺気は毒気が強いんだ。・・・警戒を解いてくれないか?」 ―――殺気? その言葉が単に殺意を示すのでないことは、知識として頭に入っている。しかし毒気と言われてもあまり頷けない。そんな表現をされるほど、私の警戒心は凶悪だというのだろうか。なんだか不満だ。私は、そんなんじゃない。 少し考えてから息を吐き出し、力を抜く。感覚がどんどん鈍って行くような感じがして、入れ替わりにまともな情緒が戻ってくる。心臓がきりきり痛むような不安がずしりと落ちてきて、私は思わず眉を寄せたが、それでも何かほっとした。強張り続けていた肩が落ちると、待っていたように目隠しが外れ、青年の顔が覗く。 「・・・ごめんなさい」 「構わない。一般人の殺気に耐えられない俺達が悪い。一体どこで生活してきたんだ?」 「・・・きっと、毒気の強いところで生まれ育ったんですよ。」 「なるほど。」 適当に言ったことだったが青年は本気で納得したと見え、口元を手で覆って頷いた。私は力の入り難い腕を突っ張ってどうにかベッドから這い出し、正座して青年と向き合う。寝起き姿だが、こういう場面で相手の顔を見ないことの方が失礼だと反射的に判断していた。 私が起き上がったのを見ると、青年は一瞬観察するような目でちらりと見回してから満足げに微笑み、何か呟いた。小声な上早口だったので聞き取ることはできなかったし別段気にかかったわけでもないが、思わず「え?」と聞き返すと、彼はきょとんとしたような顔をしてから微笑む。――実はずっと思っていたのだが、彼のこういう笑顔はどうもうそくさい。 「いや、こっちの話だ。・・・それより、腹は減ってないのか?朝から飲まず食わずだろ。」 ずっと意識はしていたからか、その問いにはお腹の方が素直に返事をした。身を固めてどうにか押さえようとはしたものの、青年にはしっかりばれたらしい。心底楽しそうに歪められた目元が彼の心情まで物語っている。私の顔が赤いのは、隠そうとした手に触れた肌がやけに熱いのですぐわかった。 「一時間したら迎えに来る。それまでに準備しろ。」 「は、はい」 有無を言わさない命令口調に驚きながらも、ぎこちなくベッドを下りて服を確認する。ぱっと見て汚いと思うほどの汚れはないが、皺が少し気になった。それにシャワーくらいは浴びたいし、寝癖もついているだろう。 足元を眺めて考えていると、視界の隅を青年が横切った。――そういえば、彼の名前をずっと聞いていない。私は慌てて顔を上げた。 「あ、あの。」 「何だ?」 「お兄さんのお名前、・・・聞いてもいいですか?」 「クロロだ。クロロ=ルシルフル。」 「クロロ、さん、ですね。・・・えっと、=、です。」 「ああ、よろしく。」 よろしくお願いします、と返すべきだったのだろうが、妙なところではにかんでしまって、何も言わずに笑うだけで済ませてしまった。クロロさんは不思議そうに私を眺め、それから踵を返すと何事もなかったように去って行った。 部屋に戻ってから俺はちらりと時計を見、特に意味のない溜息を吐いた。――ほぼ十二時間。が堅をしていた時間である。 堅と言っても、攻撃を防御するためのものと比べてしまえば紛い物でしかない。薄い広がりを見せるあたりは円にも近く、しかし探査や感知というよりは単なるオーラの拡散で、それ自体に敵意こそあれ悪意がないことはわかるのに、どうしてか息の詰まるオーラだった。パクノダはあの至近距離でこんなに長時間、よく耐えたものだと思う。 俺は単に毒気と表現したが、あれはそんな生易しいものではないし、そんなに回りくどくもない。あれは紛れもなく「感情」だ。は恐らく、不安や恐怖といった負の感情を全て放出することで平静を保とうとしたのだろう。 しかしそれでは解せないのが、その感情の信じられないほどの密度だった。 彼女は自身を「毒気の強いところで生まれ育った」と言った。無論記憶のない彼女の言葉を鵜呑みにすることはできないが、その言葉には一理ある。自ら記憶を消したというパクノダの推理とも辻妻が合うし、吹雪の中を逃げ惑うようにも見えたあの姿にも納得がいく。彼女が覚えていないならば確認のしようはないが。 「・・・やっと治まったんだね。」 「ああ、素直ないい奴だよ。怖がってただけだ。」 「そう・・・殺気の質以外は見た目通りだね。・・・パク、大丈夫?」 マチはソファでぐったりとしているパクノダを気遣いながら、複雑そうな顔をしていた。 彼女は朝のうちに下見を終えて戻っていたのだが、の気の毒気に勘付いてずっと俺達の部屋にいた。ここでも影響がないとは言えなかったが、パクノダの状態を見れば程度の軽さは一目瞭然だ。 「平気・・・悪意がないのが救いね、ひどい車酔いみたいなものよ。すぐ治るわ。」 「ならいいけど・・・クロロ、あの子どうするの?」 「しばらく様子を見るつもりだ。興味が湧いたしな。」 「・・・ま、そんな気はしてたよ。」 呆れ半分、といった仕草で首を傾げて溜息をつくマチだったが、彼女もには少なからず興味があるだろう。人一倍勘の鋭い彼女のことだから俺とは理由が違うのだろうが、興味には変わりないはずだ。小言を挟まれないのが証拠である。パクにとっても彼女はある意味研究材料だろうし、シャルも戸籍や過去の痕跡が全く無いという彼女に何らかの意識は割いているだろう。予想と言うより、俺は確信していた。 「予定変更だ。明日、一旦ホームに戻る。」 「ちょっと待って団長、まさかを連れてくつもり?」 シャルの問いに、俺はあっさりと頷いた。 |