02-クモノイト 気づくと私は眠っていたようで、次に見たのは見覚えのない広い天井だった。 「おはよう。」 知らない声がしたが、寝起きの頭では驚くことも状況を把握することもできず、ただぼんやりと声の主を探す。左の端からくるりと見回し、視線がちょうど半周したところで、私はそれらしき人物を見つけた。――ナイスバディのお姉様だった。 「お、おはようございます・・・ここは?」 「ホテルよ。レストランで倒れたのは覚えてるかしら。」 「・・・はい。」 あそこがレストランだったかはよく覚えていないが、スープを出してもらったのだからきっとそうなのだろう。青年に凍傷だと指摘された手と、死ぬよ、という、呆れていたが親切そうなお姉さんの声と、強烈な眠気と、痛みだけ残して動かなくなった四肢の不思議な感覚は、よく覚えている。 「そのときの二人、覚えてる?」 「はい。」 「その女の子の方と私の部屋。あのまま店に居座るわけにもいかないから連れてきたんですって。」 「・・・すみません、ご迷惑おかけしてしまって。」 「いいのよ、こっちが勝手にしたことなんだから。」 「・・・ありがとうございます。」 口にしながら両手を握ったり開いたりしてみる。痛みは相変わらずだがちゃんと動くし、痺れもないので不快感はなかった。何度かグーとパーを行き来してなるべく痛まない角度を見つけ、手をその姿勢にしたままでベッドに肘をついて体を起こす。手古摺っているとお姉さんが手を貸してくれて、すぐに起き上がることができた。 改めて見回して、ようやく部屋の全貌を把握した。ありがちだが洗練された、品のある部屋だ。安くはないホテルなのだろう。 「ねえ、あなたの名前は?」 「え?」 はた、と時間が止まったような沈黙が流れた。背中を支えてくれているお姉さんの手が少しだけ動いたのではっとする。 「あ、ああ、えっと、です。、。」 「・・・どっちが名前かしら?」 「“”の方です。・・・お姉さんのお名前は?」 「私はパクノダよ。・・・はどこから来たの?」 また空洞のような沈黙が私の意識を返答から隔てる。――雪道、しか思い出せない。でもこれではきっと答えにならないだろう。しばらく考え込んでみたが、十秒ほどでやめておいた。――なんだか、頭の奥がちくちくする。 「・・・ごめんなさい、わかりません。」 「それは・・・記憶喪失、ってこと?」 「そう・・・なんでしょうか。なったことないのでわかりませんが・・・」 「まあ、普通はあんまりならないことだけどね。」 「で、ですよねー」 無理矢理笑ってみたが頬がぴしぴし言うのですぐやめた。 それにしても、「記憶喪失」。確かに雪道を歩いていたこと以外は、今問われて名前を思い出した以外具体的な記憶としては蘇ってこない。けれど、そうして症状を確立されてしまうと、何だか思い出せないのは仕方のないことで、思い出さなくてもいいような気がしてきてしまう。 「他に思い出せることは?」 「たぶん、ない・・・です。・・・話せるんですから、情報は情報として頭にあるとは思うんですが・・・」 「思い出そうとして浮かぶような記憶ではないのね。」 「そんな感じ、みたいです。」 そう曖昧に答えると、パクノダさんは何やら考え込み、どこかへ視線を走らせたかと思うと、また私を見つめた。背中にあった手はいつの間にか離れ、その代わり、やはりいつの間にか両頬を包まれていた。記憶喪失というよりも記憶障害なんじゃないか、という考えがふと過り、それからはっとする。すぐ横で、何かが当たったような軽い音がした。 「・・・ん?」 手、というよりも腕を持ち上げて、手首で側頭部を探る。特に何もないが、パクノダさんの視線は私が手を上げている方向に向いている。何かあるのかな、とちらりと目をやると、ベッドのふちのあたりにあの青年が立っていた。――どうやら私は記憶と一緒に勘も置いてきてしまったらしい。この至近距離でなぜ気付かないのだろう。 「・・・さ、さきほどはどうも、ありがとうございました。」 「いや、礼を言われるほどのことじゃないよ。それより、体はどう?」 「あ、えっと、手足は流石に。でも他は十分回復したみたいです。」 「そう、よかった。」 彼はにっこりと笑ってベッドを離れ、もうひとつのベッドに腰掛けると一瞬だけ笑顔を消し、それから微笑を浮かべなおして尋ねた。 「、って言ったっけ。歳は幾つ?」 「あ、う、えーと・・・」 ちらちらと辺りを見回して首をのばし、ベッドサイド近くに置かれている花瓶に少しだけ顔を映した。横に伸びてはいるが、判別できないでもない。 「た・・・たぶん十五、六・・・かなー、と」 「わからないの?」 「ぜんぜん・・・」 「それは生まれたのがいつかわからないってこと?」 「違う、と思います。思い出せないだけで・・・」 「ふーん・・・」 彼は口元を左手で覆い、宙を眺めて何やら思案しているらしかった。間ができたので私も考え事をする。 何か違うなと思ったのは、恐らく彼の服装がさっきと違うからだろう。前に見たときは黒いシンプルなコートのようなものを着ていたが、今は白いワイシャツにグレーのセーターになっている。長めの前髪と見ようによれば甘ったるい目じりもあいまってか、いいとこ育ちのお坊ちゃんのようだ。言動もそれらしいかもしれない。 勝手な想像を広げていると、不意に彼と目が合った。深い黒い目がついでのように私を捉えている。彼の視界の中心が私でないことは本能的にわかるのに、なぜだか逸らすことができない。 「君さ、鈍いって言われない?」 「え?・・・ど、どうでしょう?」 「じゃあ俺が言うよ、鈍すぎ。」 「・・・ばっちり真正面切っておっしゃいますね。」 「シャル、もういい。」 「へ?」 何の事だかわからず、パクノダさんの手が離れたのをきっかけに振り向いてみた。そして、たぶん絵にしたら瞳孔が思いきり広がるのだろう。そのくらい目を見開いた。 「・・・へっ?」 間抜けに口をついた台詞とは裏腹に、空気が張り詰める。――まさに目と鼻の先。目が痛いほど近くに、ぬらりと冷たく光る物があった。 はじめはついて来れなかった心臓も次第に騒ぎ出し、冷や汗がどこからか流れていく。その刃物の持ち主に一番近い場所にある腕はちりちりと神経を逆立たせ、痺れはじめた。これはまずいんじゃ、と腕に意識を割いた時にはもう、私はバランスを崩して布団に埋もれていた。「あぶ」と赤ん坊のような声を上げると、呆れ返った風な青年の声が聞こえてくる。 「訂正、トロい。」 「・・・おっしゃるとおりですが・・・」 ――ちょっと待って、そうじゃなくて、この凶器は一体なんなんですか。 「シャル」と呼ばれた少年はしれっとした顔で切っ先を誰もいない方へ向け、それからベッドサイドに放り投げた。危な、と喉まで出かけた言葉はつまってどこかへ消える。肝が冷えるとはまさにこれを言うのに違いない。雪の中を何時間も歩くより、今この瞬間に凍死しそうだった。 私がおどおどしているのは目に見えていたろう、シャルさんが言う。 「ずっと後ろにいるのに気付かないんだもんなー、殺しても気づかないんじゃない?」 「ころっ・・・!?いいいいいや、あああの、わ、わたし普通の人間なもので・・・」 「普通以下でしょ?あー、殺気当てられてしれっとしてるんだからある意味普通以上かな?」 殺され慣れでもしてるの?そう言いながら彼は私の足元に座った。そんな世界一嫌な慣れを私がするだろうかいやするはずがない、という台詞はすっかり縮み上がってしまった私の喉からは当然出ていかない。それならまずは起き上がろう、と使いづらい両手をもぞもぞさせていると、救いの女神パクノダさんが手を貸してくれた。そっちのバイオレンスとは大違いだ。しかしそのバイオレンスに対して制止のかけらも見せないのだから、もしかすると彼女も心の中では私を三回くらい殺しているのかもしれない。 視線を布団に落として感傷に浸っていると、パクノダさんが他の二人に向けて言った。 「この子自体は恐らく無害よ。クロロが見たのはきっとこの子の念。」 何の話だ。念って、私はいつホラー映画のお化け役になったのだろうか。 「明らかに質が違っていたが・・・そうか、変化もするからな。」 「こんな状態ならありえない話じゃないわ。何かあって、自分で記憶を消したんでしょうね。」 何の話だろう、と首を捻る。私が話の核なのは確かだろうが、だからこそよくわからないのが不安で身じろぐと、肩にあったパクノダさんの手がするりと背中に下りる。 「で、どうするの?」 彼女の睫毛の長い目が青年に鋭く走った。私が睨まれたわけでもないのに、すでに嫌な汗をかいていた背中を冷たいものがちりちりと駆け上っていく。背中が、彼女が触れているあたりが、ぞわぞわと落ち着かなかった。 青年は怯えの体勢に入った私を実験動物でも見るようにじっと観察すると、思っていたより早く答えを出した。私は恐怖に惑わされまいとその唇の動きを必死で追う。 彼は微笑みながら、こう言った。 「使えるものは使うさ。」 私は物じゃない!――とはもちろん、言えるはずもない。 |