01-終わりから始まる





「さむい・・・寒い寒い寒いさむ、い!」

無意識に漏れる呟きは、深々と降り積もる雪に飲まれて消えた。

温かく足を包むはずのブーツは凍り付いて久しく、手袋などない両手の指は悴み、刺すような痛みを伴い始めていた。足をやわらかく飲み込む雪を爪先で蹴って顔を上げれば、空からもその白の欠片がほろほろと無害そうに落ちてくる。その向こうで動かない雪雲は、不安な灰白色で空を一色に塗り上げていた。私の口元からは魂のような白い息がふわふわと逃げ、その小さな雲が視界に入るたびに、私は改めて寒さを思い知らされるのだ。

――もう駄目、歩けない。
何度目かも忘れた溜息を吐き、ぼうっと立ち尽くす。体は冷え切って、いたるところの感覚がぼやけていた。視界は相変わらず悪く、むしろ吹雪き始めて、息がかかって濡れた前髪や睫毛はいつの間にか凍りついている。汗を拭うように額を撫でると冷え切ったはずの手が暖かく、顔は本当に凍ってしまったようだった。
――本当に、もう駄目かもしれない。
重たくなる瞼をそのままにしたい気持ちを振り払うように頭を左右に揺らす。髪は重く揺れながら、立ち止まっている間に積もった雪の粒をはらはらと散らした。

大きく息を吸って、ほとんど猫のように丸めていた背中を起こして首を伸ばすと、眼下にその街は広がっていた。街灯やビルの人工的な白や黄色の光が、雪で遮られてちらちらと点滅している。

私は何か底知れないざわつきに、僅かに戦慄いていた。しかし歩かなければその方が恐ろしいことになるだろうことは、生物としての本能が教えてくれる。
喉が震えるのを無視して更に大きく息を吸い込み、噛み砕くようにまっさらな雪道に新たな足跡をつける。やわらかいブーツを積もった雪に持って行かれないようにするためには背を丸めてしっかりと歩かなければならず、灰色の空に白くぼんやりと光る灯りはすぐに瞼の残像になった。


――不安だった。私はこれからどうすればいいのだろうと、そればかりが真っ白になった頭の中を駆け巡って、そのたび色々な負の感情が渦を巻いては吐息や身震いになって逃げて行く。無数の氷の粒が貼り付いた身体はまさに凍るようで、今にもその場にくずおれてしまいそうだった。
しかしそれでも、何もわからなくても、何も掴めなくても、今は歩くしかないのだ。

私はもう一度立ち止まり、また背筋を伸ばして振り向いた。つけてきたはずの足跡は、ほんの数メートル先で降り続く雪に霞んでいる。――まるで私の痕を掻き消すみたいに。

外気に触れる部分では唯一温かい首筋に、冷えた粒がぽつぽつと当たって溶けた。はっとして声ともつかない声で悲鳴を上げながら弾かれたように前を向くと、相変わらずのブラインドの向こうで、白や黄色は変わらず光っている。頭の芯がかっと熱くなって、心臓がとくとくと高鳴った。

「―――・・・さむい。」

それだけ呟くと、私は雪をかき分けるように歩を進めた。背は丸めず、街灯りを目に映したまま、半ば息を止めるようにして。――これならきっと無事に辿り着けるだろうと、根拠もなく自信を持って。










「・・・クロロってさ、けっこうだらしないよね。」
「そうか?」

しれっとした顔で口元だけ笑んでいる男――クロロに溜息を吐きつつ、私は今さっき女が出て行ったばかりの扉をちらりと見た。全く以て傍迷惑な話である。
とはいえ彼女は一般人だったし、スローモーションの平手を甘んじて食らうことくらいどうということでもない。それがたとえ元凶であるクロロの指示だったとしても、これといって腹が立つというわけではなかった。
しかし反面、その彼女が私を殴った理由もまたこの男なのだと思うとなんだか腹立たしいところもあった。普段従って、ある程度尊敬もしている人物の生臭いプライベートを予期せず目の当たりにしてしまったことへの、怒りと言うか、なんというか。こういう事情自体は予想するまでもなく有り得る話だったので、驚いたとか失望したとかでないことは言えるが、こういう形で被害を被ることになれば、あまり良い感想を抱かないのは当然のことである。
――だけど、クロロだ。仕方ない。無理矢理文句を押し込めると、見計らったようなタイミングでクロロが訊いた。

「それで、パクとシャルはいつ来るって?」
「さあ?そこまで聞いてないけど・・・ま、正午過ぎには来るんじゃない?」
「あと二時間か・・・」

そう呟くと、クロロはどこからか本を取り出して読み始めた。相変わらずマイペースな男だ。私はもう一度溜息を吐いて彼から視線を外し、深々と雪が降る窓の外の景色を眺めた。往来は雪に関わらず人の波でざわざわとしているが、少し奥へ行くと白く霞んで見えるからだろうか、どこか現実離れして見えた。はじめはなかなか面白く感じたが、それも数分も経てば飽きる。私は徐に立ち上がった。

「ちょっと歩いてくる。昼前には戻ってくるよ。」
「そうか。」
「じゃ」

軽く手を挙げて席を離れ、ガラス窓とは対照的にぶ厚そうな木でできた扉に手を掛ける。少し重いような気がしたが、窓の向こうで吹雪き始めているようだったので特に気に止めず、そのまま押し開ける。
すると冷たい雪の粒に混じって、灰色に霞んだような塊が私の方へ弱々しい悲鳴と共に倒れこんできた。死体のような重さが肩にずしりと圧し掛かり、それから何かつぶやきながらゆらりと離れて床に崩れ、もぞもぞと動くと静かになる。聞き取れなかったが、「すみません」と言ったつもりなのだろう。私は溜め息を吐きながら屈み、雪まみれの少女の肩を揺すった。

「ちょっとアンタ、そんなとこで寝たら凍え死ぬよ。」

少女は意識こそあるものの体力は限界に近いらしく、私の言葉に瞼や口元で反応を示すだけで、手足が動くことはなかった。体温のぶり返しで顔が赤いことはもちろん、よく見れば小さな手は蒼白を通り越して黒ずみ、凍傷の初期症状だろう、痛々しく腫れて、まるで遭難者のようだ。そんなに長い時間外にいたのだろうか。とにかく衰弱している。
しかし、だからといって私に何をしろというのだろう。足音に振り向くとクロロが立っていて、彼は屈みながら私に耳打ちした。

「凝だ。よく見ろ」
「え?ああ。」

言われたとおりにそうする。しかし、私にはどう見ても衰弱した一般人だった。隠を使って何か隠しているようにも見えないし、かといって微弱に流れ出るオーラだけなら、別に凝をしなくとも目の精孔を閉じなければ見える。
訝しみの意を込めてクロロを見上げると、彼は扉を閉めながら彼女を店内に引き摺り込んで仰向けにし、外気で凍った前髪を払って額を指差した。そこで私も合点が行く。その部分だけ、オーラの質が明らかに違ったのだ。凝を解いて見比べると、肉眼ではその違いが見分けづらいことが分かる。
それにしてもこんなに微かなものに気づくとは。敬う心は持ち続けていいらしい。

「外傷がないところを見ると、操作系か。」
「・・・アタシらに向けて?」
「さあな。どちらにしろこいつは瀕死だ。心配するほどのことじゃない。」
「ほっとくの?」
「・・・そうすると、目立つな。」

街の外れにある人の少ない店を選んではいたが、それでもそれなりの人目はある。もともとさっきの女の件で悪目立ちしている上、この状況でこの少女を外に放りだしたりここに捨てたりすれば、私たちはもちろん、これからここにやってくるであろう二人にも何らかの訝しみの目が向くのは当然だ。一つ疑われただけで芋蔓式にばれて行くこともある。この町にハンターがいないとは限らないし、ただでさえ手間の掛かる仕事を邪魔されたら面倒だ。
私が考えている間に、クロロは少女を抱えあげて店主に声をかけていた。私も立ちあがって後に続く。

「タオルか毛布を貸してもらえますか?ああそれと、コーンスープ一人前追加で。」
「あ、ああ、ちょっと待っててくれ。」

店主は慌てた様子で奥へ走っていく。クロロはそれを見届けると少女を席に寝かせ、凍りついた上着とブーツを脱がせると椅子に置いた。――この男は本当に、なんというか。半ば呆れながら眺めていると、少女が薄く目を開いた。目敏く気づいたクロロが声をかける。

「大丈夫かい?どこか痛むところは?」

彼女が視線を動かしたのを見て、ようやくその目が驚くほど黒いことに気がついた。いや、ノブナガの目も似たようなものだし、クロロの目も深い黒だが、それとは明らかに違う、「黒」であることに意味すら感じるような黒さ。そして同時に、彼女が何者にもその意識を操られていないことを悟った。

「手?ああ、凍傷になりかけてる。大丈夫だ、じき治る。」
「お客さん、これでいいかい!?」
「ああ、ありがとう。」

クロロが店主が寄越した毛布で少女を包み、別の店員がスープを運んでくるのを横目に、私はじっと彼女を見つめていた。彼女は勘が悪いのか気付かないふりをしているのか、私を気にする気配はない。私はそっと彼女に近寄り、スープ皿をとってスプーンで掬うと、クロロが抱き起した彼女の口元に運んだ。

「食べれる?」

なるだけやさしく問うと、彼女は静かに頷いて口を開けた。熱かったのだろう、はじめは眉を顰めて難しい顔をしていたが、次第にほっとしたような顔になり、かとおもうとぱっと下を向いた。
私はあえて何も問わず、クロロに目くばせするとスプーンを置いた。――今日は女難の相でも出てるんだろうなあと、密かに考えながら。






(100918)何度目だこの推敲