飛行船に乗っている二次試験合格者の顔ぶれを確かめながら、船室の隅に座り込んで脱力する。
――おそろしく長い一日だった。
誰かがそう言っているのが聞こえる。私も心からそう思う。だが安堵も束の間、私達にはこれから“無数の罠と凶悪犯が待つ石の塔の中にまる三日カンヅメにされる”という未来が待っているのだ。まったく、笑えない冗談のような世界である。
ひっそりとため息をついていると、キルアの様子を見ていたらしいギタラクルが隣に戻ってきた。
「そういえば、さっき試験官と何話してたの?」
「叱られました。手抜きすんなって」
「抜いてた?」
「まあ。全力出したからってすぐ仕上がるわけでもないですし」
私は基本的にレシピ通りの料理しか作らない。誰でも思い付くような簡単なアレンジならともかく、自分で新しいものを作り出すことには向いていないからだ。“知っていた”とはいえ「食べたこともない謎の淡水魚でスシ」は少々手に余るし、技術を模倣したとしても真贋のわかる相手を騙せるレベルに仕上げるにはそれなりの時間がかかる。合格しようとしなかったのはわざとだが、相手が悪かったのも本当のことだ。
「やればできるだろ」
「まともにアドバイス受けられる状況だったら考えましたけど」
「.....もしかして、わかっててやってる?」
怪訝そうに見下ろす彼の目を見て曖昧に微笑みながら、私は軽く首を傾げた。答えはイエスでもノーでもない。
私がいくら“知って”いても、それが私にとっての現実とは限らない。私は私の未来を知らないし、私が関与した人間にどういう影響を及ぼすかわからない。結果が予測できないのなら何も知らないのと同じだ。だからこうして、息を潜めて待っている。
「ちゃんと見て決めてますよ」
――ゴトン。
鈍い音と衝撃にはっとして目を開くと、私は冷たい床に頭を打ちながら転がっていた。記憶が不自然に途切れている。どうやら話の途中でオーラ切れを起こしたようだ。
頭をさすりながら起き上がり、まだ陽の差し始めたばかりの船内を見回す。受験生のほとんどはまだ眠っていた。ギタラクルの姿は見えないが、きっとどこか人目につかない場所で休んでいるのだろう。
手持ち無沙汰に近くの壁に貼られた船内図を眺めていると、早朝の見回りをしているらしいマーメンと目が合った。私はふと思い立ち、軽く会釈して通りすぎようとした彼を呼び止める。
「あの、すみません」
「はい?」
「シャワー室って使えますか?」
汗をかかないように注意はしていたものの、丸一日も経てばさすがに化粧が崩れてくる。オーラによる保護もある程度までなら有効らしいが、それでも手直しは必須だ。世の女性の苦労は計り知れない。
真っ黒になった目元に化粧落としのクリームを塗り、シャワーを頭からかぶって洗い流す。
髪まで洗って乾かすのは正直面倒だが、ブリーチと過酷な野外活動で手ひどく扱われたおかげで年季の入った着せかえ人形のような有様だ。整えなければ“私”の体裁が保てない。本音を言えば今すぐ髪を切りたいところだが、迂闊に動けばギタラクルが嬉々として針を刺しに来る可能性もある。今は余計なことを考えるのは止そう。
どうにか髪を梳き終えたころには、周囲に人の動く気配がしはじめていた。備え付けのタオルを被ってシャワーブースの外に置いた携帯を見ると、すでに30分以上経過している。到着予定時刻はまだ先だが、日の出はとっくに過ぎているのでいい加減みんな起き出すだろう。ため息を吐きながら手早く服を着て、鏡を覗き込む。
――瞬間、誰かと目が合った。
全身が急激に稼働する。早鐘を打つ心音の裏で、情報処理に不備はなかったかと私は冷静に自問した。
気配はしなかった。いや、人の気配は外にいくらかあったが、ここには誰もいなかった。少なくとも私と、私のプログラムはそう判断した。もちろん、自分にとって害のないものと十分判断できる材料があれば除外することもある。だがそうでないなら、それは少なくとも“絶”を使うことのできる人間――さらに言えば、自分よりも数段は格上の、念能力者だ。
「ひさしぶり」
弓形に細められた鋭い眼差しを鏡越しに受けながら、私はゆっくりと振り向いた。奇抜な装いのその男は私の顔をまじまじと見下ろして、面白いものでも見たように笑っている。
「……覚えてたんですね」
「忘れてたよ」
「だって、まさか首を切られて生きてる人間がいるとは思わないじゃないか」
大袈裟な言い方をする男だ、と私は思った。しかし彼はたぶん、本心から驚いたのだ。そうでなければ私を構う理由にならない。
「どんな手品使ったんだい?即死だと思って全然気にしてなかった」
「別に何も。私は黙ってただけですよ」
それは事実だったが、ヒソカは信じていない様子だった。真意を探ろうとするようなじっとりとした視線を浴びながら、私はわざと大きなため息をつく。
「ボクらが初対面じゃないことを知らないってことは、彼にも言ってないんだろ?あのときのこと」
「報告する必要がないので」
「報告できないんじゃなく?」
その問いの意図が掴めず首をかしげると、彼は悪巧みの滲んだ笑みを浮かべて私の顔を覗き込んだ。
「彼に知られるとマズいことがある……とかさ」
――なるほど、そういうことか。
「知られたらマズいことがあったほうが嬉しいって顔ですね」
「そうかも」
「残念ですけど、私は彼を騙すようなマネはしません」
「じゃあボクを無視した理由は?」
「あなたに絡むとろくなことがないから」
そう言い切るとヒソカは傷ついたようなリアクションをしてみせたが、まさか本気ではないだろう。この男は基本、私の答えを真剣に聞いていない。面白がっているだけだ。
「ついでにもうひとつ教えてくれるかい?」
「……?」
「ここでもう一度首を刎ねたらどうなるか」
――殺気。
耳元で何かが空を切る音がして、首筋に鈍い痛みが走る。私は飛んできたそれに弾かれてあさっての方向を向いたまま、ひとつ大きな息を吐いた。
「これで答えになりましたか?」
シャワールームの濡れたタイルにダイヤの4のカードが貼り付いている。おそらく背後に立たれたとき、すでに布石を打たれていたのだ。私が振り向いて彼を見上げるのを待って、廊下側に貼り付けてあったカードを飛ばした。――これだけ仕込まれていたのに、食らう直前まで殺気に気づかなかった。これが力の差ということなのだろう。彼が私の防御の速度を甘く見積もってくれていたことが唯一の救いだ。
「……そういうことにしておくよ」
ヒソカの気が緩んだのを見逃さず、タオルと荷物を掴んでシャワー室を足早に抜け出す。シャワーが空くのを待っていたらしい男が私の顔を見て不思議そうに首をひねった。私はフードを目深に被ってその視線を遮り、人の往来を避けながら手近な個室に逃げ込んで、ゆっくりと5秒数えてから、盛大に脱力した。
覚悟はしていた。計算もしていた。いや、あの手のタイプは計算しても無駄なので、計算外のことが起きるという想定だけはしていたつもりだった。
内臓ごと震えているような激しい動悸を感じながら、もたれた壁に頭突きをする。ヒソカだから、という贔屓目もあるのかもしれないが、自分の手に負えないものと対峙するのはいい気分ではない。
自己操作という能力を上手く扱う上で重要なのは、情報の入出力の最適化だ。赤い花を見て赤い絵の具で絵を描くだけなら簡単だが、写真のように精確に描き出すならそう単純にはいかない。できる限り詳細に認識し、それを狂いなく表現しなければならない。
怪我で身動きがとれなくなってからの数ヶ月、私がしてきたのはそういう感覚の調整だった。
だから、以前よりもよくわかってしまう。相手が遊びのつもりであることも、相手と自分にトラとネズミほどの力量差があることも、それが容易には覆らないものであることも、だ。
「災難だったね」
背後に気配があることに気づいたのは、音が聞こえてからだった。よく知った顔の男がドアを開け、振り向いた私を見るなり茶化すようにそう言う。
「見てたんですか……」
「助けたほうがよかった?」
「いいです別に……」
もちろん可能ならそうしてほしいところだが、彼が私に助け舟を出すためだけにわざわざギタラクルに戻って出てくるとは思えない。期待するだけ無駄だ。
私が壁から離れて簡易的な作りのベッドに腰を下ろすと、イルミさんもすぐそばのスツールに座ってこちらを見た。
――『彼に知られたらマズいことがあるとか』。
ヒソカのあのセリフはきっと、私に向けてというよりも、近くに潜んでいた彼に聞かせるためのものだったのだろう。揺さぶりをかけて、熟れた果物が落ちてくるのを期待するように。
「オレはが一方的にヒソカを知ってるだけだと思ってたんだけど」
「最初はそうです。そのあと接触されました」
「それを報告しなかった理由は?」
「彼からあなたに対する害意を感じたから」
私が断言すると、彼はやや意外そうに相槌を打った。尋問するような重い空気を押しやるように、私は咳払いをする。
以前私がヒソカに訊かれたことは、要約すれば「お前はイルミの何なんだ?」だ。彼にとって私そのものにたいした価値はない。興味を持ったのは彼にであって、私はそのための口実になるかもしれない原材料の一部に過ぎなかった。
そして、私がヒソカと出くわしたのは、あの卵頭と髭面の二人組に拘束される直前のことだ。タイミングからして、その誘拐の一部始終を見たうえであのロッジに来たと考えるのが妥当だろう。もしかすると、私が気づいていなかっただけで、最初からあの二人組が私を追っていることに気づいていて、どう動くかを観察していたのかもしれない。
いずれにせよ、彼にとってあの状況は、どう転んでも損のないミニゲームのようなものだったのだ。
「“
だから彼は私に話しかけた。そして連れ去られた私を追った。しかし本命と繋がる可能性がどの程度あるかはわからない。――それなら、むしろ。
「“まずは手頃なオモチャで遊ぼうか”」
――と、思っているうちに私が“致命傷”を負って動かなくなった。
私が死んだと思った彼は私から完全に興味を失った。そして目先の遊びに夢中になるうち、私の存在自体を忘れた。
もちろん、実際には私は死んでなどいない。
単純な話だ。私の能力は「自己操作」。強化系能力者のように肉体の性能そのものを向上させることは容易ではないが、動作の最適化や自動化ならコストはほとんどかからない。試しの門が開けられない程度の貧弱な肉体でも、心拍や血流や筋肉の操作による延命措置程度は容易いということだ。加えて、防御の反応速度もあの時点でほぼベストに達していた。
よって、本来なら首をはねられていたのだろう不意の一撃に対し、私の損傷は深さ3センチ幅10センチの痕も残らない美しい傷ひとつだけ。派手に出血したのは操作がうまく入るまでの数秒だけ。急激な失血で意識を失いはしたが、電源を切らなければオーラ切れの瞬間まで操作は続行される。
自分が余計な外敵を寄せ付けやすい立場であることを、私は十分に理解している。臨機応変な対応が得意なほうではないことも、肉体そのものは決して頑強でないことも自覚している。
だから私は予め、自己操作の優先順位を定めた。最優先は「生命維持」。次に「外敵の排除」。それ以外の目的はそれらが済んでから順次実行される。
もちろん、状況次第で操作に割り込むこともできるようにはしている。だが今はまだ黙って待っていたほうが生存確率が高い。
あのときもそう。ヒソカという排除不可能な外敵が去るのを待っていたからこそ、それ以外を確実に仕留めることができたのだから。
「そういえば、その現場からを運んできた武器屋の爺さん、満身創痍だったけど」
ふと思い出したように、彼はそう言った。
「って、ニュートラルのスイッチ条件満たしたあとも意識残してるだろ?なんで殺そうとしたの?」
「なんでって……」
「てっきり頑張りすぎて壊れたのかと思ってたんだけど、いまの話聞く限りけっこう余裕あったみたいだし」
「……」
私が沈黙すると、彼は顎に手を当てながら吟味するように私の顔をじっと見つめた。
「武器屋、留守だったって本当?」
「……それ、どういう意図で聞いてます?」
「ただの好奇心さ」