エレベーターの電光板にそう示されたのを見上げながら、私は大きく深呼吸をする。
“知っている”と言っても、私がルーキーであることに変わりはない。定食屋の奥の部屋が一室まるごとエレベーターになっていることも、そのまま地下深くまでノンストップで運ばれることも、行き先が長い長い地下道であることも、わかっていることなのに胸が騒いでしまう。
ドアが開く。淡々と先へ進んでいくギタラクルの背中を追うようにして地下道へと踏み込むと、薄暗い空洞の中に数百名の受験生たちがひしめいていた。平均の錬度は私がいた闘技場の中階層クラスよりも遥かに高い。武道の手練、本職の狩人――見てわかる範囲だけでも、「本物」がゴロゴロいる。
「はい、こちら番号札です」
「どうも……」
入り口で待ち構えていた豆のような頭の人から丸いプレートを受け取る。“予想”通り、私の受験番号は302番。どうやら大きなズレはないようだ。
「よう。あんた新顔だね」
プレートを胸に付け終えて顔を上げると、気さくそうに片手を上げて歩み寄ってくる四角い鼻の小男がいた。私は目を合わせないように距離を取りながら人混みの外へ逃げる。彼は会釈もしない私に構わず話し続けた。
「俺はトンパ、ハンター試験はこれで35回目のベテランさ。初めての受験じゃ緊張するだろ。よかったら他の常連たちの情報、聞いていくかい?」
私はなぜか得意げなトンパの顔をまじまじと見つめ、感慨深いような面倒くさいような微妙な気持ちで「はあ」と生返事をする。こういう流れになることは知っていたが、いざ自分が声を掛けられるといまいちどう対応すべきかわからないし、そもそもまだ心の準備中だ。恨みがましい視線を送りつつ溜息を吐く。
「誰か気になる奴でも……」
「いらない」
沈黙をいいように解釈される前に、私ははっきりとそう告げた。彼は3次試験でキルアと同行する。あまり長く会話して情報を与えても私にとって得はない。
「そ、そうか……ああ、そうだ」
多少怯んだ様子だったが、流石歴戦の新人潰しと言うべきか、トンパもそれだけで退きはしない。彼は何か思い出したようにぽんと手を打つと、カバンからジュースの缶を取り出した。
「よかったらコレだけでも受け取ってくれ。お近づきの印だ」
そう言って差し出された缶には一瞥だけくれてやり、じっとトンパの顔を観察する。――瞬きの回数が多い。それなのに私から視線を外そうとはしない。お粗末なものだ。
「うそつき」
小声でそう呟くと、トンパはぎくりと肩を竦めた。私はそれを嘲笑するような動作で見やりながら、さっさと踵を返す。私に言えたことではないが、本職ならもう少し気合いを見せて欲しいところだ。
背伸びして周囲を探すと、人混みから頭一つ抜けたところに針山が見えた。受験生たちの間をすり抜けて側へ寄ると、壁際で暇そうに立っていたギタラクルがどうでもよさそうに尋ねる。
「何アレ」
「新人潰し。有名ですよ」
私が答えると、彼は相づち代わりにカタカタ揺れた。同時に周囲にいた受験生がそっと視線を逸らして一歩ずつ離れていく。まあ、気持ちはわからないでもない。彼の顔面は人間と呼ぶにはあまりにも妖怪だ。おかげで私の存在が霞むわけだが。
「……なんか失礼なこと考えてない?」
「そんなまさかー」
顔に出ていたようだ。棒読みで答えながら私も距離をとる。ギタラクルは呆れたような目でこちらを見ていたが、すぐに視線をそらして周囲の様子を窺いはじめた。
99番はもう来ている。294番とも番号が近いから、たぶんそこの後頭部がそうだろう。あとはボドロ、ポックル、3兄弟、スパー、ポンズ――そして44番。
「久しぶり」
派手な髪色に特徴的なメイクと道化師のような服。横目でちらりと見て、私はすぐに視線を外した。彼はこちらに意識を向ける様子もなく、真っ直ぐギタラクルに歩み寄る。
「久しぶり。元気そうだね」
「まあね。……そっちはキミの連れかい?」
「俺の弟子」
「……弟子とか取るんだ」
奇異の視線を浴びながらようやく視線を動かし、軽く会釈する。ヒソカは私を値踏みするように眺め下ろし、それから何か思案するように口元に指先を当てた。
私が彼と接触していることをギタラクルは知らない。そしてヒソカはきっと私のことを忘れている。
私にとってはその方が都合がいい。私の“予測”は私が存在しないという前提の上に成り立つものであって、“登場人物”と私が無関係でなければ意味がないからだ。
ギタラクルは本筋に絡まないからまだいい。しかしヒソカは違う。もちろん“予定”が狂った場合のプランも用意しているが、リスクは3割増だ。
「どっかで会ったことある?」
「……それだと下手なナンパみたいですよ」
貼り付けたような笑みでベタな台詞を吐く彼を無表情のままちらりと見上げ、すぐに逸らす。
「いやあ、誰かに似てる気がしてさ」
「よく言われます」
そう答えると、ヒソカはそれ以上追及しなかった。覚えているかどうか以前に興味がないのだろう。それならそれが一番いい。
会話を始めた二人の側をそっと離れ、入り口が見える少し高い場所に登って座り込む。
――あともう一つ、確かめておかなければならないことがある。
私が“知っている”今期のハンター試験の受験者は405名。しかし実際には私が加わるので406名になり、302番以降の番号が1つずれてしまうことになる。
もし本当にそうなるなら、先にきちんと記憶を整理しておかないと思わぬところで齟齬が生じてしまう。ゲレタやケンミはともかくとして、400番台――“主人公組”の番号だけは正確に把握しておきたい。
座り込んでからおおよそ2時間。知らない顔を数えるのにもいい加減飽き飽きしてきた頃合いで、彼らはようやく現れた。
何か話しながら入ってきた若い3人組を見ながら、私は静かに息を呑む。胸のプレートがよく見えない。トンパが3人に話しかけている。声までは聞こえないが、私と似たような高い位置に座っている彼の唇の動きだけならわかる。
――「君達で405人目だよ」。
不気味だ。
何かが隙間に入り込んでいるのに、誰も気付かない。いないはずの人間がいるのに、誰もそれがおかしいと思わない。
もしかしたらカルトくんはこんな気持ちだったのかもしれない。
得体の知れない何かが入り込んでいるのに、誰もそれを指摘しない。部屋の中に虫がいるのに、顔の上を這っているのに、誰もそれを殺さない。自分だけが何かがおかしいと気付いている。それはとても怖いし、気持ちが悪いことだろう。
地下空洞に鳴り響くベルの音を聞きながら、私は大きく息を吐いた。
「では、これよりハンター試験を開始いたします」
一次試験の課題は『二次試験会場まで試験官についていくこと』。
目的地も時間も知らされず、受験生はただ遅れないよう前にならうしかない。その果ての知れないマラソンによって、持久力だけでなく精神力も試されることになる。
「あ、もうちょっと壁際寄ってね」
「……」
操作の糸を引き締めながら茶髪の大男の肩に肘をつく。自重の半分はあるだろう荷物を背負ってもびくともせずに走り続ける美しい背筋はまさに圧巻だ。ちょっと背後がお留守だったばかりにあえなく私のカモになってしまったが、彼もきっと素晴らしい使い手になるのだろう。
「お前って手段選ばないよね」
「選べる立場じゃないですからね」
淡々と感想を述べるようにギタラクルが言うので、私も淡々と答えた。
精神力とオーラ量には余裕があるが、筋力や持久力では私は間違いなく最低クラスだ。普通に走ったら187番よりも先に限界が来る。できない勝負の土俵に乗るのがどれほど馬鹿馬鹿しいことかは、誰よりもよく知っている。
だから私はあくまでも、自分にできる手段で勝負をする。
単純な自己操作の心肺機能向上で保たせる手もないではないが、体力を温存するならチャンネル3の能力を使った方が効率が良い。オーラ消費は多くなるが、それも冷房の設定温度を28度にするか23度にするかくらいの差だ。汗をかかずに済むというメリットも含めて考えれば誤差の範疇と言っていい。人形にされる受験生には悪いが、後方集団で日和見に徹した結果湿原でヒソカに虐殺される羽目になるよりはいくらか幸せだろう。
2時間ほど走らせたところで、いよいよ最初の人形の息が荒くなりはじめた。もっと早く駄目になるかと思っていたが、試験官達が言うように今年は中々いい素材が集まっているらしい。この分なら適当に選んでも階段前までは連れて行ってもらえるだろう。
首を伸ばしてなるべく体力が余っていそうな奴を探していると、同じく標的を探しているらしい16番と目が合った。しかし私が乗っている男の虚ろな表情を見るなり彼は目を逸らし、そそくさと逃げていく。
こうして見ると三下以外の何者でもないように思えてしまうが、ハンター試験を35回も受けて死なずにここまで来ているということは、彼もそれなりの実力者ではあるのだ。戦闘能力が高くないのは見てわかったが、この一次試験を平然と切り抜けるスタミナがあり、どうすれば危険を冒さず試験を掻い潜っていけるか判断できる観察力も知識もある。まともに使えばレンジャーとして重宝されるだろう。
だというのに、目的はただの新人つぶし。彼もかつては志ある若者だったに違いないのに、勿体ない話だ。
批評しつつカモの目星をつけ終えると、私は人形の背中から飛び降りて操作の糸を切る。茶髪の大男はしばらくこちらを何か言いたげに見下ろしていたが、すぐにその場に崩れ落ちた。
2人目、3人目はいずれも1時間半の健闘を見せたが、4人目ともなると同じようにはいかない。しばらくは平然と走っていたが、30分ほどで限界が来た。現時点で一次試験開始からおおよそ5時間半、これだけ走り続けていれば仕方のないことだ。
私が4人目を乗り捨てたのと同時に、前方集団の空気が変わる。「階段だ」と誰かが呟いた。
――いよいよ正念場だ。
ここまでに脱落したのは187番の他に私のカモにされた4人だけ。使えそうな人間はまだ残っているが、ここまで来ると自分で走った方が話が早い。
最後方から追い上げ、レオリオやクラピカのいる後方集団とともに階段に差し掛かる。中程ではもうかなりの人数が脱落しているようだ。この分だとトップ集団はそろそろ地上に出た頃だろう。ギタラクルの姿も見えないから、彼も大分先に行っているはずだ。
両足と体幹を操作するオーラをやや多めに割り振り、2段飛ばしで階段を駆け上っていく。私の場合、単純に凝をするよりも厳密に肉体を操作したほうが効率がいいことも既に検証済みだ。
バッテリー温存のために電源を切っていた携帯を鞄から取り出し、ミルキに頼んで入れてもらった地図アプリでギタラクルの居場所を確認する。しばらくはサーチ中の文字だけがぐるぐる回っていたが、少し登っていくと画面上に赤いポインターが点滅した。見上げると暗い階段の先にぼんやりと光が見える。ようやく地上に出られるようだ。
携帯を鞄に仕舞い直して一気に駆け上り、久しぶりの自然光に目を細めながら周囲を見回す。
ほぼ最後尾に居たのもあってか、受験生はもうほとんど登り終えているようだ。試験官のサトツさんがヌメーレ湿原――通称“詐欺師の塒”について説明をしているのが聞こえる。その近くにゴンとキルアが立っているのが見えたので、私は人混みの中に紛れるようにして距離を取った。ギタラクルがなぜかキルアの背後に立っているが努めて無視する。滅茶苦茶に視線を送られているが絶対に目を合わせてはならない。
「この湿原の生き物はありとあらゆる方法で獲物をあざむき捕食しようとします。標的をだまして食い物にする生物達の生態系……詐欺師の塒とよばれるゆえんです」
話を聞き流しながら、横目でそっとヒソカの様子を探る。いつもの微笑んだような表情ではあるが、長時間のマラソンで大分飽きているのだろう。早く戦いたくてウズウズしている――そういう顔だ。
「騙されることのないよう注意深く、しっかりと私のあとをついて来て下さい」
そう締めくくった試験官の声を聞いたのとほぼ同時に、後ろで不自然な物音が聞こえた。
「ウソだ!!そいつはウソをついている!!」
手酷いキズを負った短髪の男が私のすぐ後ろの物陰から姿を現した。私はそっとそいつから離れる。
「そいつはニセ者だ!!試験官じゃない!オレが本当の試験官だ!!」
叫ぶように言いながら試験官を指差す男に、受験生の一部はわずかに動揺を見せた。
私はそいつの正体を知っている。そうでなくとも状況から考えればおかしな話だとすぐわかりそうなものだが、こうして間近で見ると中々馬鹿にできない演技力だ。
その男が死んだ(ふりをしている)人面猿を引きずり出し、その習性を語りだしたのと同時に、ヒソカが動いた。
トランプが空を切り、男の顔面に突き刺さる。仰向けに倒れた“それ”とは対象的に、試験官はヒソカの投げつけたトランプをしっかりと受け止めていた。
笑みを浮かべるヒソカの足元で、死んだふりをしていた人面猿が動き出す。彼はその後頭部にも正確にトランプを投げた。
「これで決定。そっちが本物だね」
心なし満足げな表情で彼は言う。
「試験官というのは審査委員会から依頼されたハンターが無償で任務につくもの。我々が目指すハンターの端くれともあろう者が、あの程度の攻撃を防げないわけがないからね」
ヒソカの言葉を聞きながら、試験官は軽い牽制のような鋭い表情を浮かべる。
「ほめ言葉と受け取っておきましょう。しかし、次からはいかなる理由でも私への攻撃は試験官への反逆行為とみなして即失格とします。よろしいですね」
穏やかだが有無を言わさないその口調に、ただ聞いているだけのこちらの方が気圧される。ヒソカは飄々とした様子で肯くと、大人しく踵を返した。
そうしてその場の空気が緩むと、今度は空から夥しい数の肉食鳥が舞い降りてくる。無残に突き回される死体をゆっくり眺める間もなく、集団はふたたび走り出した。
霧の濃い湿原の中をしばらく行き、ヒソカを警戒したキルアがゴンを連れて先へ行ったのを見届けてから、そっとギタラクルの横に入る。私は恨み言のひとつでも言う勢いで居たのだが、彼はあっけらかんとした表情でこちらを振り向くと「ひさしぶり」と手を挙げた。
「さっきの顔面白かったよ。すごい苦塩っぱい顔してた」
「面白がらないでください、ていうかどんな顔ですかそれ」
顔に出る私が悪いのだが、この状況で遊ばれるとさすがに腹が立つ。濃霧に乗じて憚らず膨れっ面をしていると、隣から頬をぷすりと指された。
「もうちょっとポーカーフェイスできないの?」
「失礼な、私だってやろうと思えばできますよ」
指を押し返しながら文句を垂れていると、背後から覚えのある気配がゆっくりと近づいてきた。振り向かずにギタラクルとの間に距離を開けると、霧の中からヒソカがぬっと姿を現す。
「ボクちょっと後ろで遊んでくるからさ、はぐれちゃったら道案内よろしく」
「オーケー」
彼が完全に霧の向こうに消えてしばらくしてから、ギタラクルは思い出したようにこちらを見た。
「ってヒソカのこと知ってるんだろ?やけによそよそしくない?」
「知ってるからですよ。あと名前」
「なんだっけ?モロ?」
「サンです……」
確かに出掛けに偽名を3秒で決めろと言われたとき一瞬ミケの顔が浮かんだが、山犬のほうではない。というか、敢えてそれを言うあたり元ネタまで把握したうえでわざと間違えている気がする。
姿を変えろ、名前を変えろ、接触するな、バレたら殺すと言う割にバレない努力に水を差してくる意図は一体何なのか。どうでもいいが、自分が楽勝だからといって現状にいっぱいいっぱいのいたいけな一般人で暇をつぶすのだけはやめてほしいところだ。
ぬかるむ足元に体力を奪われながらも、どうにか先頭集団に食らいついていく。
後方から物音や悲鳴が聞こえるたび、集団の人数はどんどん減っていった。ゴンがいつの間にか居なくなり、しばらくしてヒソカがレオリオを抱えて戻ってくる。キルアはそれを見ながら複雑そうな顔をしていた。
「みなさんお疲れ様です。無事湿原を抜けました」
前方から試験官の声が聞こえた。失速する集団から転がり出さないよう足を緩めて脇へ逸れる。森の中の大きくひらけた場所に、見覚えのある形の急造の建物がずっしりと構えていた。
「ここ、ビスカ森林公園が二次試験会場となります」
建物の中から響いてくる獣の唸り声のような音を聞きながら、私はひとつ息を吐いた。
―― 一次試験、突破。