見極めようと目を細めたとき、突然背後で物音がした。――いや、そう聞こえただけだ。
通気口から音が響いてくる。堅い木の棒で石を軽く叩くような、幽かな乾いた音だ。またさっきのトンツーかと耳を澄ましてみたが、すぐに違うと気づく。違いがわかったところで何を意味しているかはわからないのであまり関係がないのだが。
もう一度隙間を覗くと、やはりと言うべきか、隣の人影が手元を細かく動かしているのがわかった。反響による音ズレはあるものの、その動きは今聞こえているモールス信号と一致している。つまり、この部屋の通気口は隣の部屋と繋がっている。あちらの立てた音が聞こえるということは、逆もまた然りだ。
私はひとつ深呼吸をしてから、通気口側の暗闇に向かって声を上げた。
「私の声、聞こえますか?……イエスなら2回」
試しにそう付け加えてみる。隣の人影は一瞬思案するように動きを止めたようだったが、私が次の台詞を考え終わる前に答えが返ってきた。
――カツ、カツ。
今までよりも心持ち大きな音で、はっきりと、2回。私はそれを聞き届け、拳だけで小さくガッツポーズをつくった。
やはり「答えがない」のではない。隣人はおそらく、こちらの呼びかけにもモールス信号で答えていたのだ。
「私がいまどこから話しかけているか、わかりますか?イエスなら2回、ノーなら1回」
続けてそう問いかけると、今度はすぐに答えが返ってきた。
――カツ、カツ。
「隣の部屋にいますか?」
――カツ、カツ。
「この部屋に出口はありますか?」
――カツ。
「……この部屋に入り口はありますか?」
――カツ、カツ。
「……私が、ひとりで、ここから出る方法はありますか?」
――カツ。
『入ることはできるが出ることはできない』
ドアに刻まれていた言葉を思い出しながら、私は深い溜息を吐いた。
どうやらこれは単純な謎解きの試練ではない。隣人が敵ではなく、嘘を吐いていないという前提での推測ではあるが、本来はこうして隣とコンタクトを取り、暗号や問答を駆使して情報を集め、何らかの手段で扉を"開けてもらう"のが正規ルートなのだろう。
そして私のハンター試験に対する認識が正しければ、これは決して脱出不可能な密室ではない。
曲がりなりにもハンターを志望するのなら、モールス信号は言ってしまえば常識レベルの暗号だ。それを学習していなかったのは完全に私の落ち度だし、それさえわかればより多くのヒントが得られたはずだ。しかしモールス信号がわからなかったとしても、こちらが答えを用意した問答であれば隣人は答えてくれている。そして問答にすらたどり着かなかったとしても、外に出る道は残されている。おそらく別の試練を受けているのであろう同行者の存在が、文字通り鍵となるのだ。
しかしだ。問答による情報獲得の可能性を掴んだとはいえ、質問をするにも頭が必要だ。最低限年齢相応の教養を身につける努力はしてきたが、そんな型にはまったお勉強だけで機転や閃きが育つはずもない。
そして残念なことに、私の相方はすすんで協力プレーをするタイプではない。ヒントは伝わっているはずだが、そもそもがマイペースな上に喧嘩腰になっている彼がまともな方法で来るとは限らないし、それが試練にどういう影響を与えるか、私の視点からは全くの未知数だ。
まあ、幸い試験会場の場所も合言葉も把握しているので、最悪ダメ出しを受けても無理矢理乗り込んでしまえばいい。ただその場合、私は全力の力技で無理矢理この部屋から脱出する必要がある。
「すみません、ちょっと作戦タイム」
そう言うと軽快にツータップの返事が返ってきた。なんとなくだが、隣人はやはり敵ではないのだろう。さっきの急なモールス信号の変更といい、どことなく会話に飢えている感じがする。
しかしどう質問したものか。もういっそ潔く「このハンター文字に対応する信号は?」を延々繰り返して表を作って地道に解読したほうが早い気がする。マッチは1本残っているし、つけるのに失敗しなければ蝋燭は少なくともあと1時間は持つだろう。先客の遺品を借りて50音の対応表を30分以内に作成できれば、残り30分は相手の話を聞くことができる。それだけあれば脱出の糸口くらいは掴めるはずだ。
それまでにギタラクルが正規ルートでこちらに来れば重畳。この場所の規模はわからないが、私が引きずり込まれてから現在まででせいぜい30分くらいしか経っていないはずだ。彼がもし「真っ直ぐに」来るなら、あと1時間もあれば流石に合流できるだろう。
逆に言えば、1時間経った時点で進展がなければ、その時こそ私は手段を選んでいられる立場ではなくなる。
ようやく結論を出し、既に拝借していたマッチの箱をポケットから取り出す。そして火をつけようとまさに構えた瞬間、石の小部屋に乾いた音が鳴り響いた。
長い木の棒を床に転がしたような音。そして足を引きずるような音。――追って、べったりと肌に纏わりつくような嫌な気配。誰のものかは最早言うまでもない。
私はマッチをポケットに戻し、ナイフを畳んでブーツの中に仕舞い直した。思っていたよりも早い到着だが、状況は想定していたよりもいくらか悪い。
通気口を伝って幽かに聞こえてくるか細く荒い呼吸だけで、隣人の状態は手に取るようにわかる。――恐怖。驚き。困惑。焦り。唐突に押し寄せてきた正体不明の殺気に当てられて、既に過呼吸を起こしかけている。
「そっちの部屋って外に繋がってるんですか?」
震えるようなツータップ。近付いてくる気配はあまりにも重く、暗く、冷たい。馴染み深い私でさえそう感じるのだ。隣人が生身ならとても正気を保っていられる気配ではない。
「逃げられるなら逃げて、無理なら部屋の隅に寄って」
叫ぶようにそう伝え、練り上げたオーラを右腕へと集中させる。この状況ならば防御を捨てても構わない。右腕以外のオーラを閉じ、大きく吸い込んだ息を鋭く噴き付けるように勢いづけて、がむしゃらに右拳を叩き込んだ。
分厚い石の壁が音を立てて崩れ落ちる。私が破片を掻い潜って隣の部屋へ転がり込んだのとほぼ同時に、左で鉄の扉が静かに開いた。
「なんだ、ここにいたの」
なんだ、じゃない。私がジト目で見上げるのも気にせず、ギタラクルはそのままスタスタと部屋に入ってきた。私は背後を庇いながら彼を制して言う。
「あの、殺気出すのやめてくれません?」
「え?」
この天然ぶりである。私が呆れて物も言えないでいるのをさらに小首を傾げて見てくるので、私はつい「自覚してくださいよ」と吐き捨てた。私だけならともかく、身を護る術を持たない人間を悪意あるオーラに曝すのはいくらなんでも酷だ。
寄り添ってくる気配に後ろを見ると、私の背中には西洋人形のような整った容姿の小さな女の子が怯えきった様子で縋り付いていた。私はその華奢な背中をそっと撫で、なだめるように囁く。
「大丈夫だよ。怖い人じゃ……わざとカタカタしないでください怖いから」
小刻みに揺れながら薄ら笑いを浮かべているギタラクルの顔を軽く睨み、纏を拡げてその不気味なオーラから少女を守る。そのまま彼女の震えが治まるのをじっと待っていると、彼もやがて毒気を抜かれたようにオーラを収めた。
「ていうか、その子何?」
「私にヒントくれてた子ですよ。敵じゃないです」
念押しするようにそう答えたところで、私のちょうど目の前の壁が不自然に凹んだのが見えた。
壁――だったものはそのまま10センチほど沈み込むと、地響きのような音を立てながら真上へスライドしていく。
私があっけにとられて眺めている横で、少女はそれを知っていたように落ち着いた表情のまま振り返った。
「あらあらあらあら、真面目そうな顔してずいぶん派手にやってくれちゃって」
明かりの灯った通路の向こうから、大きな黒い影がゆらりと姿を現す。先程「占いの館」で会った、あの巨顔の占い師だ。
彼女は天井いっぱいまである大きな体を屈めながら部屋に入ると、少女にスケッチブックとクレヨンを手渡した。少女はそれを受け取り、こちらに背を向けたまま床に広げて何か書きはじめる。私とギタラクルが顔を見合わせるのに一瞥もくれないまま、占い師は穏やかに微笑みながらそれを眺めていた。
しばらくして、少女は顔を上げた。そして私とギタラクルに向けてスケッチブックを大きく広げ、顔の前に掲げて見せる。
『ごうかくです しけんかいじょう あんないします』
「私の名前はコッコ。ナビゲーターです」
少女が手話を使う横で、巨体の占い師はそう通訳した。
「我々の目的はハンター志望者であるあなた方が試験を受けるに足る器を持つかどうか見極めること。この地下迷宮はそのために用意されたものではありますが、100年ほど前まで実際に使われていた本物のカタコンベの遺跡でもあります」
「遺跡……?」
私が呟くと、少女は愛らしくえくぼを見せながら頷く。そして目を爛々と輝かせながら、両手をぱたぱたと忙しなく動かし始めた。占い師は苦笑しながらも通訳を続ける。
「この上に街が発展したことで、10年ほど前にはここを単純な地下通路として活用する計画がなされたこともあります。電灯などはそのときに持ち込まれました。しかし計画は結局頓挫し、ほとんどのエリアは改修されないまま、ここがカタコンベとして使用されていた当時の状態を維持しています」
「カタコンベとは地下墓所という意味ですが、地下通路として使おうという案が罷り通るくらいですから、ここに埋葬された遺体はほとんどありませんでした。単なる礼拝のための空間だったと考えられます。迷宮のあちこちに礼拝室が設けられ、歴史的価値のある偶像や貴金属製の呪具が保管されていました。そしてそのすべてが50年ほど前にここを拓いたハンターの手で運び出され、博物館に寄贈されています。驚くべきことは、使われなくなってからハンターの手が入るまでの50年間、このカタコンベの遺産が盗難の被害を受けなかった、ということです」
「この迷宮には信仰をを守るため、悪意ある侵入者を退けるための仕掛けが施されています。隠し通路や音で惑わし、間違った出口にたどり着けば永久に閉じこめられてしまう。ですから通路として使うなど不可能なのです。秘密を知る者か、それを探り出すことのできる能力を持つ者でなければ決して歩くことのできない特別な場所なのです。不相応な者はみな、あの男のように時を失います」
「ただ・・・彼はおそらく盗賊ではありません。死体を調べましたが、死んだのは20年くらい前です。手記から推測するに、近隣諸国を数人連れで旅していて、近くを通った際にタチの悪い追い剥ぎにでも遭ったのでしょう。数年前に私の恩師が彼を見つけたのですが、身元がわかるまではここに預けたほうが状態が維持できるからと……まあ、そもそもここは
隣室の暗闇を見つめながら、私は頷いた。占い師は少女に小声で「あんたよくそんなに喋ること出てくるわね」と零している。少女ははっとした様子で口に手をあてる。
「いやあんたそこ使わないじゃない」
確かに。私がつい吹き出すと、少女は恥ずかしそうに目をそらしながら白金の髪を指先で弄んだ。
「この子、こう見えて学者でね。自分の専門分野のことになるとうるさいのなんの」
「学者・・・お若いですね」
「そりゃあもう。11歳で博士号とった大物よ」
私は思わず少女を見た。どう飛び級するとそうなるのかわからないが、11歳でプロハンターになる少年がいるくらいだからありえない話ではないのだろう。つくづく広い世界だ。
「そしてアタシはこの子の通訳で同じくナビゲーターのサマンサ。本業は占い師よ、見ての通りね」
そう言って彼女は巨大なウインクを投げた。私は気圧されながらもそれを受け止め、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「死体安置所の代わりだったなら、私をそこに放り込んだのはまずかったのでは……」
「それはアタシの計らいよ。ビックリした?してないわねその顔は」
曖昧に微笑んでいたのに即バレしてしまった。少女は困ったように笑い、また手を動かしだす。
「本来は逆隣の小部屋を使う手はずだったんですがサマンサが勝手に……何よ、分断しようとか言い出したのはアンタじゃない。……まあそれは理解できるけどね。悪いわねふたりとも、こっちの話よ」
「いや、というかその……大事な遺跡とはつゆ知らず破壊して……すみませんでした」
私が流れるように土下座の体勢をとると、少女はぎょっとした様子でおろおろと床の上を回った。顔を上げると彼女は頭をぶんぶん振って何かを訴えている。細くて白っぽい髪が泡立てられた卵白のようにまんべんなく空気を含んですっかりふわふわだ。マルチーズに似ている。
そんなことを考えている間にも、彼女の手話は絶え間なく続いていた。占い師は笑いながら私に言う。
「かっこよかったってさ」
「はい?」
「試練の仕組みを即座に理解し冷静に正攻法を選んだにも関わらず、状況変化に対応し迷わず強行突破に切り替えられる思い切りのよさ、そして試練よりも弱者を守ることを優先する姿勢。文句なしの器量です」
最後にくっついていたガッツポーズは手話ではないだろう。呆気にとられている私にマルチーズがじゃれついてくる。台詞と行動に盛大なギャップがあるのは占い師の翻訳のせいだろうか。
「そっちのお兄さんは……ま、コメントは控えとくわ。もちろん実力は申し分ないわよ」
ギタラクルには一切視線を向けないまま、占い師は彼女自身の言葉でそう告げた。ギタラクルは我関せずといった調子でカタカタ揺れている。一体何をしたのか――まあ大方予想はつくが。
「これから私達があなた方を試験会場まで案内します。といっても私ではある条件を満たすことが出来ません。サマンサを連れて行ってもらっても構いませんが、おそらくあなた方には必要ないでしょう」
少女がスケッチブックを開く。緻密に書き込まれた幾何学模様のような手書きの地図の上に、小さな手に握られたクレヨンの線が赤く走っていく。
「試験会場はここ。合い言葉は――」
――メシどころ「ごはん」。
相変わらず雑なネーミングだが、誰もそれに突っ込みを入れないところを見るに、やはりこの世界ではこういう捻りのない名付けはわりとふつうのことなのだろう。
でかでかと「ごはん」と書かれた暖簾をくぐって店内に入ると、厨房から顔を出した愛想のいい女性店員が元気よく挨拶してくれた。
「お客さん、何名さま?」
「2人です」
「ご注文はー?」
「ステーキ定食」
そう言うと、中華鍋をふるっていた店主らしき中年の男がちらりとこちらを見た。
「焼き方は?」
「弱火でじっくり」
――スタートラインに立つ。
たったそれだけのことに、総毛立つほどの戦慄きを覚える。
やっと始まる。ついに交わる。足りないと嘆いてきた準備の時間が永久ほど長かったような気さえする。
これから私が往く道こそが、この世で最も困難な王道だ。