カンタニレ空港はザバン地区の北東にあるごく小さな民営施設だ。早朝から発着する便はほとんどないはずだが、土地柄と言うべきか、今はハンター志望者が山ほど集まっている。
狭い空港なので、飛行場からターミナルまでは徒歩で移動するらしい。そこでチケットのチェックをしたあと、いよいよ会場を目指すことになる。
タラップを降りながら周囲の様子を窺っていると、見送り役として先に降りていた船長が下で私を手招きしているのが見えた。ギタラクルに先に行ってもらうよう目配せをしてから近寄ると、彼は私の目の高さまで腰を屈め、そっと耳打ちした。
「バスやタクシーを使うのはおすすめしない。行くなら真っ直ぐに歩いていけ。いいか?真っ直ぐにだ」
「まっすぐに……?」
私が繰り返すと、彼はゆっくりと頷いた。
「あとは、自分の連れに気をつけることだな。能力は認めざるを得ないが、ハンターとしては……いや、これは私が口を出すことではないか」
「何かすみません……」
結局私の危惧したとおり、死者は40名よりも多かったらしい。途中の空港に停泊したとき、自分の足で降りていったのはたった6名だった。
ああいう試練を選んだからには、船長自身死人が出る心積もりはしていたに違いない。しかし一方的な虐殺になる想像はあまりしていなかったはずだ。あんなのは能力云々ではない。マラソンのコースにトラックで乱入してランナーを轢き潰すようなものだ。
思わず縮こまって頭を下げていると、頭上でクスリと笑う声が聞こえた。見上げると、船長はやはり鷹揚に構えて穏やかに微笑んでいる。
「私は君のような若者にこそハンターとして世に羽ばたいて欲しいと思っている」
「はあ」
つまり一体どんな若者だろう。首をひねっていると、縮めていた肩に船長の大きな手がぽんと乗せられた。
「幸運を祈る」
船長の助言通りに「真っ直ぐ」進んでいくと、すぐに他の受験生の姿は見えなくなった。彼らのほとんどは市街へ向かう乗り物を探すつもりらしく、空港からほど近いバス停には早朝にも関わらず長い列ができていた。横を通り過ぎるときに聞こえた話から察するに、まだそれが罠であるという情報は出回っていないようだ。“原作”の時間軸はもう少しあとなのだろう。
空港で貰った周辺地図と照らし合わせながら、大通りを渡り、高架下を抜け、静かな朝の市街を進む。市街地の中心までは残り10キロ。このまま徒歩で“ザバン市ツバシ町2−5−10”を目指すとすれば、かかる時間はおおよそ2時間ほどだ。遠回りさせられているわけでもないし、素直に考えるなら「思ったよりも早くつきそうだ」といったところだが、そう簡単にいくとは思っていない。
3つめの大通りを越えると、今度は歓楽街に差し掛かった。私は息を飲みながら、心持ち歩幅を狭めてギタラクルの後ろに下がる。
歓楽街――とは言ったが、空気が明らかに異常だった。まだ朝の7時前だというのに、酒場や賭博場の前には客引きでもするように人が立ち、酒瓶を持った男がふらふらと歩いている。
しかし、本来なら絡んでくる予定なのであろう美人局らしいお姉さんはこちらを見ながら呆然と立ち尽くしているし、その後ろに控えているガラの悪いお兄さんたちも一切目を合わせようとしない。明らかに非合法の何かを吸っていたおじさんは、私達が目の前を通り過ぎようとした瞬間尋常ではない震えを起こしたかと思うと、そのままばたりと倒れた。
なぜか?そんなのは決まっている。さっきから微妙に殺気が漏れている、この顔面針山の妖怪のせいだ。
「イ……ギタラクル、なんか機嫌悪くないですか?」
「隠れて見てるヤツが何人かいるんだけど、なかなか尻尾出さなくて」
「ああ、そういう……」
「気付かなかったの?」
こっちはあなたの殺気でお腹いっぱいなんですよ、とは言わず、「ハハハ」と乾いた笑いで答えておく。
ベッカーに狙撃されたことがあるからか、もとからそうなのか、どうも彼は遠くから狙われるのが特に気に入らないらしい。私も以前一回だけ、実戦形式の演習で遠距離から攻撃を仕掛けたことがあったが、そのときだけは手加減無しでボコボコにされたのをよく覚えている。
冷や汗をかきながら進んでいくと、ギタラクルが突然立ち止まった。ぶつかりそうになるのをこらえて私も止まり、彼の背中ごしに前を覗き見る。どうやら分かれ道のようだ。
「……これは……」
私は思わず絶句した。分かれ道が存在することに、ではない。その真ん中に建つ、この世のオカルトすべてを凝縮したような禍々しい出で立ちの「占いの館」にだ。
夏のホラー番組のタイトルで使われそうなドロドロしたフォントにギラギラした赤や青や紫の装飾とドクロやドールアイが輝く金縁の看板を呆然と見上げる。店先のワゴンには安っぽいグレイのソフビ人形から古今東西様々な呪術に使われるのであろう道具まで、それなりの値段の札を付けて並べられ、パイプ製の丸椅子の上で美しい結跏趺坐を組んだ千手観音が赤いベレー帽を引っ掛けて店番をしている。そしてその千手のうちの一本の手には「やってます」という筆文字の札が貼られていた。別の手には朱色で矢印を引いた木の札がいくつも提げてあり、そのすべてが横のどぎつい紫色のカーテンを指している。
「……コレ、どっち行ったらいい?」
「真っ直ぐ……なんですけど」
絶対入りたくない。でも入るしかない。船長の念押しした「真っ直ぐ」がコレを指しているのは間違いない。であれば左右は罠で、この占いの館が正規ルートなのだ。信じたくない。
観音様の横を抜け、紫の波間をじっと見つめながらゆっくりと深呼吸をする。その勢いのままカーテンを捲ろうと手を出した瞬間、誰かに腕を掴まれた。
「え」
視界が暗転する。掴まれた腕はそのまま放り投げるように放され、気付いたときには硬い椅子に座らされていた。
一体何が、と動揺している私を畳み掛けるように、ガチャンという大仰なスイッチ音とともにダウンライトが灯り、巨顔の魔女が目の前に現れた。
「うわっ」
「ようこそ占いの館へ……あなたは何を知りたいのかしら」
「いや引きずり込まれただけで」
「入ってこられたということは、入るべき理由があったということよ」
どこかで聞いたような台詞だ。たぶん占い師なのだろう彼女は戸惑っている私を見つめながら、真っ赤な唇で微笑んでいる。光を当てすぎてノーズシャドウが汚れにしか見えないし、大粒のグリッターを糊で付けたようなアイメイクが眩しすぎて目元の表情がよく見えない。
その濃すぎる化粧と常人の2倍はある顔面のせいで、見ているうちにだんだんと距離感が狂ってきた。いや、くらくらしているのはこの館に充満しているお香の煙のせいかもしれない。その上背後からは相変わらずギタラクルの殺気が漏れてきているし、顔がでかいし、眩しいし、臭いし、怖いし、もうわけがわからない。
「えっと……じゃあ、ハンター試験の会場へ行く方法……」
「あなたは既にそれを知っているはずです」
「ええー……あの……本来ナビゲーターを見つけて会場まで案内してもらうものだと」
「うふふ……真面目さんなのね」
巨顔の占い師はそう言って、何か愛しいものでも見るように微笑んだ。
私が覚えているのは、そこまでだ。
目を覚ますとそこは見知らぬ部屋だった。
脱出ゲームのテンプレモノローグとともに硬い石の床から起き上がり、周囲を注意深く確認する。
石造りの暗い小部屋は地下室のような冷たく湿った匂いがする。ほんの8畳ほどの狭い部屋のようだが、足元に置かれた燭台の頼りない光源だけでは細部まではわからない。
持ち物は少なくとも近くにはない。インナーの下に隠していたリモコンと、ブーツの中の予備のナイフは無事だが、メインのナイフはバックホルスターごと外されている。
この状況で何を言っても言い訳にしかならないが、決して油断していたわけではない。ギタラクルの殺気のほうに気を取られていたせいで、うまく誤魔化されてしまったのだろう。攻撃や敵意のある接触なら薬物であれ念であれ自動的に迎撃できたのだが、やはり素の判断力や反応速度は高が知れている。
しかし、反応できなかったということは相手に悪意がないという証拠でもある。この状況もあくまで試練ということだ。
燭台を持って立ち上がり、まずは部屋を隅から照らしていく。壁や床や天井に怪しい点はとくにない。家具の類もなく、私が寝ていたのと反対側の床に死体が転がっているだけだ。おそらく成人男性、背はそれほど高くない。そしてその足元にあたる位置にドアノブのない鉄の扉があった。そこには仰々しい書体でこう刻まれている。
『入ることはできるが出ることはできない』
「嫌な言葉」
吐き捨てながらブーツの内側の折り畳みナイフを探り出し、柄で壁を叩いて薄いところがないか調べる。扉のある壁と、それに隣り合う面のうち一方――死体の反対側の壁は空間がありそうな音だが、石積みの壁ともなるとナイフ一本だけではどうにもならない。扉も金庫か何かのように頑丈に作られている様子で、厚さ7、8センチはある。床から2メートル強の高さにある通気口も、とても人が通れる大きさではない。
どうやら出口は用意されていないらしい。この死体はそれを示すための演出なのか、それとも実際にここで力尽きたハンター志望者がいたということなのか。いずれにせよ、臭いと感触は本物の死体そのものだ。遠目にはまるで昨日死んだようにも見えるが、この締め切られた部屋のおかげで腐敗を逃れたのか、死体は完全に屍蝋化していた。
他に見るものもないので死体の懐を調べてみると、胸ポケットからマッチ箱とメモ用紙が出てきた。マッチ箱の中には折れたマッチが一本だけ残っている。メモのほうはかなりの乱筆だが、横棒と点の並びはどことなくモールス信号のようにも見える。
この一人きりの空間で、しかもわざわざ紙に書く理由は一体なんだろう。この部屋がどこか外部に通じているかどうかは私にはまだわからないが、もし誰かに伝えようとしたのなら紙に書いたりせず、光や音で通信すればいい。この部屋に来る別の誰かに伝えるならふつうにハンター文字を使うか、暗号を使うにしてもモールス信号である必要はないはずだ。
逆に、誰かがこの部屋に対してモールス信号で通信を持ちかけていて、それをメモした――とかなら納得がいく。通気口からは風は吹いていないが、火の様子から空気が通っているのは間違いない。どこか別の場所へ通じているなら、そこに人が居てもおかしくはない。
燭台を床に置き、ナイフを口に咥えて、通気口の真下から石積みの壁の凹凸に指をかけてよじ登ってみる。20センチ四方ほどの穴は当然ながら真っ暗で何も見えず、腕を突っ込んでみても突き当たりはない。ナイフの柄で叩いた音の感じからすると、やはりどこかへは通じているようだったが、曲がりくねっているのか反響音が少しおかしい。――いや。
私はそっと息を潜め、通気口に耳を近づける。
これは反響音ではない。何か堅い木のようなものを壁や床に打ち付けている音だ。しかも一定のリズムで、繰り返し鳴らされている。
手を離して床に降り、死体が持っていたメモを見る。どうやらこのモールス信号は、通気口から聞こえるあの音をメモしたものらしい。
音は小さいがよく響いてくるようで、部屋の真ん中にいても十分聞き取れる。続きがないか慎重に聞き耳を立ててみたが、メモに書いてある以上のことは聞き取れなかった。音はしばらくすると止み、また静寂が訪れる。
あの死体はこの音を聞いていた。トンツーしか書いていないのはたぶん、あの死体が私と同じくモールス信号を解読できなかったからだろう。
これの解読の成否が生死を分けるとするなら非常にまずい。この部屋にあるものがハンター志望者を試すために必要なヒントなら、このメモと死体がセットにされているのは「わからなければこうなるぞ」という意味も含んでいるはずだ。
とはいえ、他に情報はない。通気口の中も見たし、死体を触った限り私のように服の下に何か隠している様子もなかった。
「……なんでメモだけあるんだろう」
そうだ。このメモはどう見ても無地のノートの1ページを切り取ったもの――つまり彼はこの部屋にノートを持ち込んでいた。しかし死体はそれを持っていなかった。この死体が私と同じ境遇で、この音を聞いてメモをとったというなら、この部屋にはノートと筆記用具があったということだ。死体が回収されていない以上、それがまだどこかに残されている可能性はゼロではない。
私は燭台を持ち直し、もう一度床と壁面をくまなく探った。石のブロックひとつひとつを素手で確かめながら調べていくと、死体のすぐ横、ちょうど背中に隠れて見えなかった壁に、ひとつだけ不自然に角の欠けたブロックを見つけた。隙間に指を差し込んで引っ張ると、引っかかりながらもブロックは手前にぐらりと落ちてくる。
死体をどけてブロックを外すと、奥には15センチほどの小さな空間があった。中には古いトラベラーズノートと、折れて小さくなった木炭の入った箱が押し込められている。私はそれを手に取り、蝋燭の明かりで細部まで照らしてみる。
中紙はやはり先程見つけたメモと同一で、木や野鳥のスケッチが並んでいた。いずれも木炭による描画らしく、表面を指でなぞると簡単に消えてしまう。なぜ鉛筆ではないのか疑問だったが、絵描きだった彼には何か拘りがあったのかもしれない。
さらにページを捲っていくと、半ばからは文字が書き連ねられていた。どうやら彼の手記のようだ。仕舞い込まれていたお陰か木炭の剥落もない。かなりの乱筆だが、なんとか読めそうだ。
――どうも自分は閉じ込められてしまったらしい。鉄の扉はびくともしない。助けを待つしかないが、通気口へ叫んでも誰も答えてくれない。水も食料も奪われてしまった。予備の蝋燭とマッチが通気口の中に隠されていたのでひとまず正気を保っていられるが、果たしていつまで持つだろうか。
――音がする。気のせいかと思ったが、ときどきカツカツとなにかを叩くような音が聞こえる。毎回同じ音だ。何かの暗号かもしれないと思いメモをとってみて気付いた。これはモールス信号だ。しかし何を意味するのかがわからない。
――腹が減った のどが渇いている さいごの蝋燭に火をつける
――ひか り が ある
「光……」
私は手元の燭台を見下ろし、少し思案したあと、火を一息に吹き消した。
眼の前に闇が広がる。何の音も聞こえず、生き物の気配もしない。光源がない以上、いくら目が慣れてもこのまま探索を続けるのは不可能だろう。――でも彼は、この状況で何かを見たのだ。
ゆっくりと視線を動かし、周囲の闇に目を凝らす。すると、端にちらりと光の筋が映ったような気がした。
手探りで壁を伝い、その光へと近づく。石積みの堅牢な壁の一部に、僅かだが光の漏れる場所がある。空間があるかもしれないと踏んでいた側の壁だ。
吸い寄せられるように光に手を触れ、壁の隙間に額を寄せる。ほんの1、2ミリの亀裂のようなその穴の向こうで、橙色の弱い光が揺れている。そしてそれと一緒に動くものがあった。
――隣に誰かいる。
私はそっと息を潜め、ゆっくりと壁から離れた。
どうやら、まずは見極める必要があるようだ。――あれが敵か、味方か。そして、この試練の真意を。
