これまで何度となく噛みしめてきたように、私はあくまで普通の人間だ。
 ほんの一年鍛えたくらいで筋肉量は増えないし、身長も伸びない。素の身体能力に大きな変化がない以上、いくら努力して効率的な身体の使い方を覚えたところで、天性の肉体を持つキルアやゴンのように動くことはできないし、それは自己操作を加えたとしても覆らない。当たり前のことだ。私は彼らとは違う。

 だからこそ、プロハンターになるしかないのだ。私はここに長居をするわけにはいかない。比喩ではない「別世界」を目指すなら、壊して進むしかない障壁に阻まれることもあるはずだ。ゾルディック家の情報目当てで私に喧嘩を仕掛けてくる連中もあれが最後ではないだろう。生きて目的を果たすために、この凡庸な頭と身体を補える強いカードが要る。

 覚悟はできている。策も練ってある。なるべく多くのパターンを想定して、可能な限り準備を整えた。万が一“原作”とは違う展開になってしまったとしても、プロハンターの裏の条件である念能力を既に修得していることで一定以上の評価を得ることはできるはずだ。きっと、たぶん。そうであってもらわなくては困る。

「落ちたら来年はどうする?」

 出発の日、イルミさんは何気なくそう訊ねた。

「来年なんてないですよ」

 間を置かず、私は笑ってそう答えた。
――そうであってもらわなくては、困るのだ。


    * * *


『――只今より、1階受付カウンターにて夜行便当日乗船券の販売を開始いたします。なお、11時15分発、カンタニレ空港行き臨時便にご乗船のお客様は、ロビーにて今しばらくお待ち下さい』

 空港の片隅に据え付けられたベンチに腰掛けながら、人の往来を目で追い、事務的なアナウンスに耳を傾ける。時刻は夜10時45分過ぎ。11時15分出航の便なら本来はとっくに出発ゲートの案内が出ている頃だ。それがないのはおそらく、これがハンター試験専用の船だからだろう。

 ロビーには自分たちの他にも、明らかに武装している人間が10名ほど待機している。闘技場と違って持ち込み自由だからか、素手で挑もうとする人間は少ないようだ。

 警戒されない程度に盗み見ていると、ふと視界の端に1人の男が近づいてくるのが見えた。――あれはハンター志望ではなさそうだが、何か気になることでもあったのだろうか。まあ、心当たりはとくにないので、とりあえず無視でいいだろう。
 考えている間にもその男は近寄り、そのまま間合いに踏み込むと、私の顔の近くでひらひらと手を振って注意を引こうとしてきた。
 この反応、もしかすると知り合いと間違えているのだろうか。よくいる顔なのでそれは致し方ない。指摘しようと顔を上げると、彼は戸惑ったふうもなく微笑んで話し始めた。

「夜行便待ちですか?おヒマならお茶でも」

 ――なるほど、これは噂に聞くナンパというやつか。

「ごめんなさい。私これから彼と出かけるの」
「え?」

 すぐ横で静かに座っていた男の腕を取り、仲睦まじげなふうに首を傾げて凭れて見せると、ナンパ男はぎょっとした顔で彼を一瞥するなり狼狽しながら逃げていった。狙ってやった私が言う台詞ではないが、あまりにもあんまりな反応である。

「やっぱ人間カオですね〜」

 腕を放して振り向くと、彼――もとい“ギタラクル”は、針だらけの顔をカタカタと小刻みに揺らしながら無表情に(たぶん)肯定した。

「前からたまに母さんに遊ばれてるなとは思ってたけど、普通そこまでやるもんなの?化粧って」

 物珍しげに(たぶん)しげしげと見下ろしてくる彼から若干距離を取り、体ごと逸らして視線から逃れる。飛行場の無機質な夜景が見える窓には、流行りの化粧をしたよくいる顔の女が映っていた。

「まあ……このくらいなら間々いるんじゃないですか」
「女って怖いなー」
「イルミさんほどではないです」
「そう?」

 骨格から操作いじっておきながら何をとぼけているのだろう。天然なのか、それとも私の顔に対する嫌味のつもりなのか。いつも以上に表情が読めないせいで全く判断がつかない。


 なぜ二人揃ってこんな気合いの入った顔芸をする羽目になったのか?――それはもちろん、キルアがハンター試験を受けに来るからだ。
 バレてしまっては「こっそりあとをつけて監視してみまもって」というキキョウさんからの言いつけを守れない。イルミさんはそれだけの理由があれば迷いなく自分に針を刺すが、自己操作型の私はただそれだけの理由で刺されるわけにはいかない。操作系能力は基本“早い者勝ち”だ。私が私を操作している限り彼の能力は使えないし、逆に、彼の能力で顔を変えている間、私は自分の能力を一切使えなくなってしまう。そこで先手を打って化粧を覚えてきたというわけだ。

 ちなみにこの顔になってからミルキに会いに行ったら5度見されたうえに攻撃された。直感のニブさは2人ともいい勝負なので、ミルキが騙せるならキルアも問題なく騙せるはずだ。

『お待たせいたしました。11時15分発、カンタニレ空港行き臨時便のご案内を開始いたします。ご乗船のお客様は6番ゲートへお越しください』
「あ、やっとですね」
「うん」

 軽く伸びをして固いベンチから立ち上がり、ポケットにねじ込んであった空港内の地図を確認する。待合ロビーの隅にいたせいでゲートまではやや距離があったが、慌てるほどの時間ではない。

「そういえば、ってハンター試験のことはどれくらい知ってるんだっけ」
「とりあえず、どうやって会場に行くかはわかりますよ」

 振り返って後ろ向きに歩きながら携帯を開き、ハンター試験の募集要項が記載されている電脳ページの画面を彼に見せる。

「ここで開示されてる場所は本物の試験会場じゃない。行こうとすると道中でふるいに掛けられるので、それをクリアすれば本当の入り口への行き方を教えてもらえる。ので」
「コレもそう?」
「たぶん」

 そしてもしかすると、私にとってはこれこそが最難関の試練になるかもしれない。なにしろ道中何が出るかは全くわからないし、こちらのルートの予備試験官やナビゲーターがどんな人物かも不明。一応ギタラクルイルミさんがサポートしてくれる約束にはなっているが、彼にしてみても試験会場までの道を知っているわけではないのだから、おんぶに抱っことはいかない。予習のきかない、地力の勝負だ。

「行くよ」
「はい」

 いつの間にか先を歩いていたギタラクルの背中を追い、ゲートを越えて揺れるタラップを登っていく。船の入り口では青い顔をした船員が淡々と人数を数えていて、私を見るなり無言でドアのハンドルに手をかけた。どうやら乗客は私で最後のようだ。

 エントランスの隅に立っているギタラクルの傍に寄りながら周囲を見回す。乗客は全部で14名。知っている顔はないが、1人だけまともに戦えそうな戦士風の男がいる。ただ、それよりも遥かに強い気配がひとつある。

「さて、ハンター志望者諸君。まずはようこそと言っておこうか」

 操舵室から降りてきた初老の紳士は、値踏みするような視線をこちらへ向けながら鷹揚に語り始めた。海軍風の白い制服の胸にはハンター協会の印章が小さく光っている。

「私が船長のオルターだ。知っての通り、この船はハンター試験のために特別にチャーターされている。通常の航行と違い極少人数の乗員しかいない。少々手荒な船旅になるかもしれないが、軟弱者の世話をしてやれる余裕はないので、面倒事は各自で片付けるように」

 わざわざ予告をしてくれるあたり、やはり予備試験は本試験と比べれば難易度の低い設定なのだろう。だからといって簡単だとは口が裂けても言えないが。

「では、快適な空の旅を」

 まるでそれが約束されたものであるかのようにそう言うと、船長はすぐに身を翻して操舵室へと戻っていった。
 終始穏やかな調子の彼に緊張感を殺がれたのか、乗客たちはにわかにざわつき、各々下階の船室やデッキへ移動し始める。気を抜いていいかどうかは別として、私も船内の様子くらいは見ておいたほうがいいだろう。

「私、その辺見てきますね。そっちはどうしますか?」
「ちょっと電話してくる」
「わかりました」

 短く答えると、彼はすぐに身を翻してデッキの方向へ向かった。私は少しだけ思案して、まずは手近な船内図に視線を走らせる。

 エントランスフロアには操舵室へ登る階段の他に下級客室へ降りる階段がある。他はフロント、事務所、レストラン兼サロン。エントランスから壁一枚隔てた外が船首側のBデッキ、同様にレストラン側がCデッキ。上階の上級客室フロアへはCデッキにある専用階段からしかアクセスできないらしい。下階には2等客室の他に共同トイレとシャワー室、上階には1等・特1等客室とバー併設のラウンジがあるようだ。

 エントランスから見る限りほとんどの施設は稼働していないようだが、乗客乗員合わせて20名そこそこの船旅にしては随分大きな船だ。これでなければならない理由が何かあるのか、それとも、単に想定よりも受験生の数が少なかったというだけなのか。いずれにせよ探索の必要はありそうだ。

 しかしどこから見るべきか。吟味し始めたところで、下の方から馬鹿笑いが聞こえてきた。下級客室への階段を覗き込むと、2等客室前の自販機コーナーで数人の受験生が屯して騒いでいる。――呑気なものだ。もしこの船が“原作”同様荒れ狂う空を手荒な操縦で飛び回るような展開になったら、下の連中は真っ先に空飛ぶマーライオンになるに違いない。そうなれば端的に言って地獄だ。とばっちりは食いたくない。

 ひとまず下階を後回しにすることを決め、人の気配の多いBデッキを目指す。ここにはとくにこれといった設備はなく、広いホールに休憩用のベンチやテーブルが設置されている。ここに居る受験生たちにはお互いつるむ様子はない。ベンチに腰掛けて窓の外を眺める者もいれば、壁際に陣取って獲物の手入れをしている者もいる。共通しているのは周囲に注意を払っていることだけだ。見通しのいい場所だからか、比較的用心深い受験生たちが集まっているらしい。

 警戒するような視線を無視してBデッキを通過し、逆側の通路を通ってCデッキへ入る。こちらにも人はいるが、それほど広くない空間のほぼ中央にギタラクルが陣取っているせいでBデッキとはまた別種の緊張感が漂っている。隅に収まっていた二人組は耐えかねた様子で何か囁き合うと、私と入れ替わりにそそくさとBデッキの方へ移っていった。
 造りはほぼ同じだが、CデッキはBデッキよりも狭く、天井も少し低い。階段を登って上級客室フロアも調べてみたが、廊下は既に消灯されており、客室の扉にも鍵がかけられていた。ここからは人の気配はせず、ただ静まり返っている。

 それでも何か、はっきりとはわからないまでも、違和感のようなものがあった。緊張からくる深読みのせいだと思えば済んでしまう程度の小さな、しかし拭いきれない「嫌な感覚」。
 過去にもこんな空気を吸ったことがあるような気がする。ただ、それが何なのかは思い出せない。

 考え込みながらエントランスへ戻り、もう一度下級客室への階段を覗き込む。さっきの連中は休むことにしたのか、話し声はもう聞こえなかった。
 2等客室は船首側と船尾側にそれぞれ1室ずつ設けられている。トイレは階段下のスペースから船首に向かって右手側、シャワー室が左手側。船首側の客室へは階段下にある扉からすぐに入れるが、船尾側客室の入り口は船の側面を通って船尾の喫煙室へ繋がる廊下側にあるようだ。

 人が動く気配は船首側の客室とトイレからひとつずつ。あとは眠り込んでいるのか、廊下にも人影はなく、話し声もしない。廊下から船尾側の客室の中も覗き込んでみたがこちらも消灯されていて、非常灯の明かりが見えるだけだった。

 ただやはり、嫌な感覚がある。どこかから見られているような――あるいは、悪意を持った人間が同じ空間にいるような。


――瞬間、首筋を殺気が掠めた。そして私がそれを感じ取るより速く、私の左腕は背後の「何か」を勢いよく殴り付ける。

 呻き声をあげてその場に崩れ落ちたそれを一拍遅れて見下ろし、ナイフを握り込んだ自分の左手を見る。どうやら周りを見るのに夢中で背後の敵に気付いていなかったようだ。

 尻餅をついた黒装束の男はナイフの柄で眉間を殴打され目を回していたが、しばらくすると正気を取り戻し、やや動揺した様子でこちらを見上げた。

「ハンター志望者……ではないですよね。どちらさまですか?」

 ひとまずそう尋ね、出方を窺う。不意を狙う手筈だったのか、真っ向から飛びかかってくるつもりはないらしい。黒装束は無言のまま飛び退き、船首の方向へと走り出した。しかしダメージのせいか動きが鈍い。背中目掛けて容赦なく飛び蹴りを入れると、黒装束はそのまま大きくバランスを崩し、ちょうどトイレから出てきた受験生をなぎ倒しながら床に倒れ込んだ。

「すみません、その人捕まえるの手伝ってください」
「助太刀しよう」

 聞き慣れない声に振り向くと、いつの間にか私の背後にはエントランスで見かけたあの戦士風の男が立っていた。そして一息すら吐く間もなく、男の持つ棍棒が私の顔面に向けて振り下ろされる。私は反射的に右腕でそれを受け止め、数秒考えてからようやく合点を打った。

「……なるほど?」

 背後では黒装束の男が受験生の首を絞め落とし、小刀を構えて私を狙っている。戦士風の男は愉しげな笑みを浮かべながら私をまじまじと見下ろした。

「やはりな。貴様は良く訓練されている。私の部下どもでは歯が立たんわ」
「――船が大きすぎると思ったら、そういうことですか」
「ああ。我らは貴様らを試すため協会より遣わされた者。この船には私の部下40名が潜んでいる」
「ああ・・・・・・それはかわいそうに」
「何?」

 気配がする。誰かが階段を降りてくる音が聞こえる。それが誰なのか、私にはすぐにわかった。

 背後から強烈な殺気が押し寄せてくる。それと同時に、男は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
 私はそれを横目に見ながらゆっくりと防御を緩める。頭を庇った腕に刺さりきらなかった針がばらりと落ち、硬い音を立てて床に転がった。

「どさくさに紛れて刺そうとしないでくださいよ」
「ゴメンゴメン、手が滑った」

 ギタラクルは無表情のまま朗らかにそう答え、平然とこちらへ歩み寄ってくる。手が滑ったにしては投げた針の本数があまりにも多い。無駄に針を消費するのはいまいち理解出来ないが、彼はそういう人だ。
 恨みがましい視線を投げつけながら諦めの溜息を吐いて、足元に落ちた針を拾い上げる。ギタラクルは悪びれもせず手を差しのべてそれを受け取った。

「もう全部片付けちゃったんですか?」
「うん。今ので最後」

 流石に仕事が早い。「40人も居たのに気付かなかったの?」という呆れ気味な台詞には聞こえなかったふりをしてそっぽを向く。もともと索敵や潜伏が雑で隠れんぼには向かないタイプなのは彼も承知しているはずだ。だからこそことあるごとに突かれるのだが。

『――全く、番狂わせとはこのことだな。そろそろ始まる頃だと思ってたのに、もう終わっちまったとは』

 私とギタラクルが手持ち無沙汰にぐだついているところで、頭上のスピーカーから残念そうな声が聞こえてきた。音質が悪くてくぐもっているが、たぶんあの船長だろう。「ほら船長困ってますよ」とギタラクルを小突くと、彼はきょとんとして「オレのせい?」と首を傾げた。その顔だと致命的に似合わない。新しい視覚的暴力だ。

『そこで駄弁ってる二人組、お前達は合格だ。このまま本来の目的地まで連れて行こう。それ以外の死に損ないは次で降りてもらう。各々身支度を済ませておくように』

 死に損ないと言うからには、そこで伸びている一般受験生以外の人達もやられてしまっているのだろうが、くまなく探索したとはいえ、私が下に降りてからはせいぜい10分程度しか経っていないはずだ。上にいた人達の大半は黒装束ではなくカタカタ言う針山の妖怪にやられたに違いない。とばっちりで死んでいないことを祈るばかりだ。

「これは試験会場まで行けるってことでいいのかな」
「第一関門は突破ですかね」

 ナイフを上着の下のホルスターに仕舞い直し、ポケットから携帯を取り出す。まだ出港してから1時間も経っていない。
 まさかこんなに早く片付いてしまうとは思ってもみなかったが、よくよく考えてみれば当然だ。ギタラクルにとってハンター試験は受かるのが前提で、ライセンスは「取る」か「取らない」かだ。落ちる可能性を考慮している私とは次元が違う。

「あーあ、緊張して損した……」
「緊張してたの?」
「けっこう」
「ふーん」

 何か言いたげに見下ろしてくるギタラクルの顔を見ても何も読み取れない。なんとなく対抗心を燃やしてじっと見上げてみたが、彼はやはり無表情にこちらを眺めているだけだった。

「なんですかもう」
「なんでも」
written by ゆーこ