進路を阻む嵐を避けて車に乗り換えたものの、空路が断たれ渋滞する豪雨の道を行くのは予想以上の時間を要した。予定していた時刻はとうに過ぎ、日付が変わったかと思えば、いつの間にか空が明らんでいる。結局俺がの住む町に着く頃には、彼女が消息を絶ってから30時間以上が経過していた。

 ここまで一切連絡がない時点でヒソカが絡んでいる線は消えたと思ってもいいだろう。そもそも奴には俺がいない隙を狙う必要がない。
 となるとやはり、ゾルディック家うちに用がある連中の仕業と考えるのが妥当だ。こちらに何の要求もしてこないところを見ると、どうやら彼女から情報を抜き取るつもりらしい。
 だがのことだ。喋れば命だけは助けると唆されたとしても、喋った時点で命がないことは理解している。黙っていれば少なくともすぐ死ぬことはないのだから、自分からはまず吐かない。
 警戒すべきは相手がの意思に関係なく自白させる手段を持っている場合だ。いくら自己操作で先手を打っても、問答無用で情報を抜き取られては手も足も出ない。

「そっちはどう?」

 電話口のミルキに尋ねながら、暗く静まり返った路地を足早に通り抜ける。このあたりもひどい雨だったのか、重く湿った風が髪に絡んでしきりに貼り付いてくる。

『情報サイト片っ端から広げてるけど、何も。ていうかだろ?拷問されてんならとっくに死んでるって』
「数百億の値がつくかもしれない情報をみすみす殺すバカはそういない」
『……それもそうか』
「もう着く。引き続きよろしく」
『わかった』

 携帯をポケットに戻し、淀んだ水溜りの残る狭い駐車場を抜けて、汚れた街灯の明かりを頼りに軋む鉄の外階段を上る。築年数のわりに寂れた2階建てアパートの上階4部屋のうち、向かって右から2番目が彼女の住む部屋だ。見る限り異常はない。住人の身じろぎと、寝息と、湿った風。何の変哲もない夜の気配だった。

 無駄だと思いながらも結露した冷たいドアノブに手をかける。しかし意外にも、ドアはあっさりと開いた。
――鍵をかけ忘れたのだろうか。あるいは、既に侵入されたあとか。

「やっと来たか……」

 俺が部屋の中を覗きこむより早く、年老いた男の声が暗闇に小さく響いた。俺は反射的に針へと手を伸ばし、注意深く気配を探る。しかし声の主はあくまで鷹揚に、警戒した様子もなくこちらへ近付いてきた。
 殺気はなく、身構えている雰囲気でもない。「誘拐犯」でないならの知り合いだろうか。だが彼女に親しい人間を作る余裕などなかったはずだ。
 俺が思案しているうちに、老爺はじれったそうにドアを押し開けてこちらをまじまじと見上げた。そして眉を顰めて軽く顎をしゃくる。

「入れ。お前を待ってた」
「……待ってた?」

 いかにも偏屈そうな顔をした老爺は、呆れたふうに短く息を吐くとそのまま背を向け、部屋に引っ込んでいった。玄関には彼のものらしい古い革のブーツがきっちりと揃えられている。その横の壁にはじっとりと濡れたの靴が立てかけられて、小さく水たまりを作っていた。

「ガキの身元調べて後悔したのは初めてだ」

 部屋の明かりがつくのと同時に、なにかを投げ付けられた。掴み取って見ると、それは当面の身分証としてに渡した偽のIDカードだった。

「IDが偽造だったんでな。ちっとばかりサンプルをもらってデータを照会した。だがこいつは存在してなかった。そこで調べるのをやめときゃよかったんだろうがな」

 老爺は座布団にどかりと腰を下ろし、卓袱台に置かれていたウィスキーを煽る。さほど減っていないところを見ると、彼がここに来てからそう時間は経っていないのだろう。俺も靴を脱いで部屋に上がり、のIDカードをテレビ台に投げ置く。老爺は俺の仕草を横目に見ながら、また酒を煽った。

「ゾルディック家の人間ってのは、もっと隠れてるもんだとばかり思ってたぜ」
「必要なければしない。面倒くさいし」
「フン……どっちが面倒なんだかな」

 老爺はそう吐き捨てると、肩越しに狭いベッドへ視線をやった。蛍光灯の明かりに照らされた白いシーツの上で、は音も立てずに眠っていた。

 ありものをすべてかき集めたような毛布やタオルの山で首まで覆い隠されて、遠目には単なる布の塊にしか見えない。髪には血がこびりついて固まり、顔色は青白く、唇は乾ききった紫色をしている。頬に触れても体温は感じられない。額のあたりからか細いオーラがうっすらと立ち上っている以外は、ほとんど死体のようだった。

「何なんだ、こいつは」
「何って、何が?」

 あえてかわすと、老爺は舌打ちをして顔をそらした。よく見れば彼の左手と首元には真新しい傷がそのままむき出しで放置されている。深くはないが、戦ってできた傷のようだった。

「そもそも、あんた誰?」
「武器屋のグライフだ。このガキの獲物の世話してる」

 彼は胸のポケットから名刺を取り出し、ほとんど投げつけるように差し出した。俺はそれもテレビ台に投げ、かわりに殺気をぶつける。グライフは溜息を吐きながら気怠げに両手を挙げた。

「随分な反応だな、老いぼれ相手に」
「待ち伏せされたら誰だって警戒するだろ。それに彼女が"存在してるかどうか"自体、ただの爺さんがたどり着ける情報じゃない」
「年の功だ」

 隙の多い動作で立ち上がるよれた背中を眺めながら、俺は少し迷った。子供ひとりのために人民データにまでアクセスするのは異常だが、『年の功』でその方面にコネを持っているとすれば、絶対に考えられない行動ではない。それだけの情報力があれば隠れていない俺の身元を割るくらいわけもないだろう。
 だからといって疑う余地がないわけでもない。そうして得た情報を誰かに売ってこうなった可能性は大いにあるし、こいつ自身が黒幕で彼女を囮に俺をここに誘い込んだとしてもおかしくない。
 純粋に敵意がないから無警戒なのか、目論見が既に成功しているから無警戒なのか――。
 老爺は俺が動きかねているのを見て小馬鹿にするように鼻を鳴らすと、そのままさっさと身を翻した。

「話はそこのクソガキに聞け。瀕死の癖に大暴れするんで麻酔で寝かせただけだ。じき目を覚ます」
「大暴れ……?」

 ドアの閉まる音を背に、青白いの額に手を当てる。さっき触れた頬の温度からは想像もつかないほどの熱を持っている。枕元に転がされたリモコンも同じだ。オーバーヒートして顔見知りを判別することもできなくなるほどの念を使った後、電源を落とす間もなく麻酔で無理矢理寝かされたのだろう。どうりでぴくりとも動かないはずだ。

 リモコンを拾い上げて電源のボタンを押し込む。すると額から立ち上っていたオーラが揺らぎ、途切れ、それからふっといつも通りの分厚い纏が現れた。



 呼びかけると一瞬の間を置いて、草臥れた目蓋がじりじりと開き始める。焦点の合わない目で俺をどうにか捉えると、彼女はたどたどしく返事をした。

「……イルミさん、おかえりなさい」
「うん。けっこう大変だったみたいだね」

 は無表情のままゆっくりと瞬きを繰り返している。――彼女が無表情になるのは珍しい。見てくれで十分予想はできていたが、やはり相当に消耗しているようだ。

「相手は?」
「二人……念能力者」
「始末できた?」
「……」

 瞬きが止まった。考えこむような沈黙のあと、彼女はまたゆっくりと唇を動かす。

「たぶん。でも、覚えてない」
「覚えてない?」

 聞き返すと、の視線がぐらりと歪んで目蓋の奥へ消えた。頬の血の気は取り返しがつかないほどに失せ、毛布からはみ出た足の先は小刻みに震えている。それでも彼女は何かを答えようとして、喉だけで喋っているような掠れた声でぼそぼそと続けた。

「前……仕事、とき、みたいな……ニュートラル、が……」
「……うん、わかった」

 そう返しての顔を手のひらで覆う。そのまま数秒じっとしていると、彼女はまた死んだように眠り始めた。

――無茶をしたことは、わかった。でなければ確実に死んでいた。つまりはそれほど切迫した状況に追い込まれた。逃げようとしてミスをしたか、あるいは相手が想像以上に短絡的で交渉の余地もなかったか。いずれにせよウチの事情のとばっちりを受けたわけだから、回復したらミルキあたりが恨み言を聞かされる羽目になるのだろう。一番苦手な殺しまでさせられたのだから、そのくらいの反撃はあって当然だ。


 彼女は本来、他者を害してまで生き延びようとはしない。犬死には嫌うが、誰かを庇って死ぬのは構わないと思っているし、献身的で自己犠牲を厭わない性格からして人殺しに向いていない。他人を殺すか自分が死ぬかの二択なら、まず後者を選ぶ人間だ。
 しかし、彼女自身がその考えに蓋をした。しなければならなかった。ただ本質はそう簡単に変わるものではない。
 だから彼女は作ったのだ。「人殺しの人格チャンネル」を。

 それが『ニュートラル』。漠然と"殺し"だけを構築したチャンネルだ。
 とはいえ、これを使ったからといって殺しやすくなるわけでも、まして強くなるわけでもない。複数のチャンネルを同時に選択することができない以上、戦い方も発なしの彼女のポテンシャルに依存する。ただ殺せるようになるだけ。シンプルで容量も食わない、ふつうのチャンネル。
 ただ他と違うのは、番号を持たないということだ。
 番号がなければリモコンからは選択ができない。それでいてチャンネル数の上限には影響する。現状埋まることはなさそうだが、仮に他の能力を12種類コピーすれば、その時点でニュートラルは消えるだろう。
 本人が言うには「作られ方が想定外だったからそのくらいのバグは仕方ない」そうだが、正直言って致命的な欠陥だった。にもかかわらず、その欠陥について追及しても下手な作り笑いで誤魔化すだけで、修正しようとはしなかった。

 その理由もなんとなく、わかった。

 彼女はふつうであることに拘る。いくら感化されてもそれだけは変えない。まるでそれが帰るための条件だとでもいうように。だから、しなければならない殺しも正当防衛になるまでじっと待っている。鋼のような防御を貫いて命を脅かしたものにだけ、殺意を向けることを自分に許す。
 死ぬか殺すかの二択を迫られるまでは、とっくに書き換えられたはずの「常識」を守っていたいのだろう。彼女はそういう人間だ。器用な生き方をするくせに致命的な不器用さを殺しきれない、馬鹿な子供なのだ。

 「さっさとこっち側に来れば楽なのに」

 どうせできるくせにやらないだけなんだから。返事をしないに小言を言いながら、携帯を耳に当てる。すぐに出た使用人に車の手配だけ命じて、流れで家に報告を入れる。張り付いていたらしいミルキからはすぐに「人騒がせな奴」と返事が来た。そのとおりだ。

 ふと顔を上げると、壁に並んだカレンダーが目に入った。先月ぶんから来年の1月まで、飾り気のない養生テープで横一列に貼り付けられている。その日付の下に書かれたカウントダウンを眺めながら、俺は深く溜息をついた。

――ハンター試験まで、あと75日。
written by ゆーこ