飛行船に乗り込んでしまうと、あとはもう何もすることがなかった。長距離用といっても小型では設備も高が知れている。暇を潰そうにもトレーニングか針の手入れくらいしか思いつかない。と言ってもこの程度の空き時間は別に珍しくもないのだが、このところはずっとの面倒を見ていたから、ここまで手持ち無沙汰になるのは久しぶりだった。
軽く息を吐きながらテーブルに肘をついて、窓の向こうの雲の隙間に視線を彷徨わせる。考え込むようなポーズをとってみたところで悩むようなこともない。

ぼうっと雲の輪郭を眺めていると、不意に携帯が鳴った。何も考えずに耳に当てると、執事がいつもの調子で「ミルキ様からお電話です」と言うのが聞こえてくる。――いったい何の用だろう。首を捻りながらもひとまず繋がせる。

「もしもし」
『あ、イル兄?ちょっと聞きたいことあんだけど』

受話器越しにキーボードを叩く音がする。仕事の話か、と納得しかけたところで、ミルキはやけに大げさに一呼吸した。

『最近に電話した?』
「電話?昼過ぎにしたけど。何か妙な動きでもあった?」
『動きっつーか、GPS死んでるっぽいんだよね』
「は?」

思わず聞き返すと、ミルキはまた長い息を吐いてから続けた。

『2時38分以降のログが送られてきてない。電源切れても丸一日くらいは追えるように弄ってるから、電池切れとかじゃないはずだぜ』
「電話は?」
『繋がらなかった』
「そう」

息を呑むようなミルキの声に、俺は簡単に頷くだけの返事をした。するとミルキは「興味ないのかよ」と鼻息を荒くする。

『つーかこれ、放っといていいの?まずくない?』
「いいもなにも、放っておくしかないだろ。今は監視もついてないし、誰も手出しできない」

壁の時計は6時半を指している。が“消え”てから既に4時間近い。携帯を壊しただけなら公衆電話を使うなりして一言連絡するはずだから、そういうことではないのだろう。ミルキはどうやら裏切りを心配しているようだが、それも現実味の無い話だった。

確かに彼女は何かしらの秘密を持っていて、ゾルディック家にとって害にもなり得る存在であることは間違いない。しかし彼女は決して秘密があることを隠さない。犬が飼い主に腹を見せるように、あえて弱みを曝している。あれで実はスパイだったというなら出来に免じて騙されてやってもいいくらいだ。

現実的にあり得そうなのは、ゾルディック家に恨みのある奴らにとうとう目をつけられたか、最近あのあたりをうろついている道化師にエサにされているかだ。そいつらがわざわざ俺への連絡口を潰すとは思えないから、携帯は本人があえて壊したと考えるのが妥当だろう。それが発信機を仕込まれていることを読んでいたからか、単に俺に連絡されたくなかったからかはわからないが、いずれにせよのしそうなことではある。

「心当たりはある。あとは俺が処理する」

そう言って電話を切り、内線の白い受話器に持ち替える。もともとそれ以外用途の無い回線はすぐに操縦室へと繋がった。

『いかがなさいましたか』
「ちょっと急いで。陸路のほうが早そうなら至急手配よろしく」
『かしこまりました。すぐにお調べします』

受話器を置き、しばらく考えてからまた携帯に持ち替えての番号にかける。コール音は数回でぷっつりと途切れた。
死んだら意味がない。耳障りな音声案内を聞き流しながら、俺はふと彼女の台詞を思い出した。




――今なら誰も気付かない。
私はそっと電源を入れ、戦いたふりでオーラのゆれを誤魔化しながら、慎重に三人の様子を伺った。と言っても、動けているのはヒソカと髭面だけだ。卵頭は焦り顔のまま中途半端な姿勢で硬直している。きっと土壇場に弱い性質なのだろう。だから二人組なんだ、と納得する自分を頭の片隅に、私は冷静に場を見守る。

髭面が斧を胸の前に構える。さっきまで燃えるように揺らいでいたオーラは研ぎ澄まされた堅に姿を変えていた。ヒソカはそれを両目を弓形にして見つめ、鼻歌でも歌いはじめそうなほど上機嫌にカードを切る。

カードがぶつかりあう乾いた音を聞きながら、私はほんの少しだけ安堵した。――たぶん髭面は“合格”なのだ。ヒソカは気に入った相手を瞬殺するような「もったいない」マネはしない。その点に於いては手放しに信頼できる。

つまり、チャンスは一瞬ではない。卵頭が狼狽している今なら、縄を抜けること自体はさほど難しくないはずだ。そう自分に言い聞かせながら両手首を捻ると、汗が小指を伝って落ちていくのがわかった。緊張や手汗くらいで動きが悪くなるなんてことはないが、それでもいい気はしない。

「戦うのはキミひとりかい?」

ヒソカがちらりと卵頭に視線を向ける。卵頭は何も言わない。

「ああ。邪魔者を排除するのは俺の役目だ。」

きっぱりと言い切った髭面は、そのままゆっくりと斧を傾けた。ヒソカはそれに答えるように右腕を高く掲げ、トランプをガラスの上にばら撒く。――バンジーガムの布石だ。とばっちりを食いたくはなかったが、今はそんなことまで気にしていられる余裕もない。

「来なよ」

ヒソカの楽しそうな声がする。髭面は無言で臨戦態勢に入る。私は意識を体の奥深くへと潜り込ませて、じっと息を潜める。

空気を鋭く切り落とすような、冷たくか細い音がした。
一枚のカードが髭面の首筋を掠めて壁に突き刺さる。髭面は軽くかわして、ヒソカの出方を注意深く窺っている。動揺したのは動線の外に居るはずの卵頭のほうだった。その視線はヒソカと髭面の間の空中を彷徨い、もう私には少しの注意も向いていない。

確信すると同時に、私は手綱を放した。
意思が伝うよりも速く体を動かす。左手首の関節を外して強引に引き抜き、椅子ごと左へ倒れながらナイフを掴み取って素早く周をする。そして椅子が倒れ切る寸前に、椅子の脚と私の脛を硬く結ぶ縄を切る。

考えながらでは間に合わないことも、プログラムに従うだけなら簡単だ。全てを完璧にクリアし、固い床にぶつかったところで感覚を引き戻す。体勢を立て直してナイフを右手に持ち替えると、弾かれたようにこちらを見た卵頭と視線がかち合った。

「テメェッ・・・」

苦々しい声色をそのまま映したような、不恰好にがさついた練が彼の体を覆う。予想していなかった、という様子だ。しかし、だからといって不意打ちだけで先手を取れるような相手ではない。

ナイフを振りかぶり猛然と襲い掛かってくる卵頭と自分の体の間に、間一髪で椅子を引きずり込む。椅子への周は一瞬遅れたが、それでも盾としては十分だ。半分膝をついた無様な格好のまま目一杯に壁に押し付けられていたが、頑丈そうな鈍色の切先はそれ以上こちらへは入ってこられない。

「なるほど、鋼鉄ね・・・ただの纏だと思ってたが、そういう能力か」
「かもね」

ガードを左腕に任せ、右手のナイフを卵頭のこめかみに叩き込む。相手が反射的に回避行動を取る隙に私は強引に椅子を蹴飛ばし、ほとんど床を転げるように卵頭の脇を抜けて、西側に大きく飛び出した。

「・・・覚悟はできてるって動きだな」

ナイフが掠ったのか、卵頭は左目のあたりを拭っている。距離を取ったところで現状中・遠距離の攻撃手段のない私にとってはたいした意味はないが、それでも呼吸を整えるくらいの余裕を持つことはできた。狭まっていた視界がさっとひらけ、隣の応酬までもが飛び込んでくる。しかしそれに気を取られるより先に、目の前の男の冷たい殺気が私の神経を強く爪弾いていた。

筋張った手が上着に触れるのは見えた。投げナイフだと気付いたのはがむしゃらに叩き落してからだったが、ただのナイフである限りは問題ない。何かを投げつけられるのには慣れている。そのうちの一本を掴んで眉間に向けて投げ返すと卵頭は右に体をそらして避け、間髪入れずに次のナイフを振りかぶった。

狭い室内で投擲。私の防御を破れないレベルの力。――おそらく彼は私と同じように、パワーが足りない分を武器で補って戦うタイプだ。
推理し、そして舌打ちする。念能力者がこの土壇場まできて念に頼らずに戦っているのなら、制約や誓約があってそう易々とは発動できないということだ。私が一番怖がらなければならないのは、まさにそういう念だった。

自画自賛するようだが、私は念のセンス自体は悪くない。イルミさんやキルアや他の“知っている”人たちと比べるのは流石に馬鹿馬鹿しいというだけで、いつかイルミさんが言ってくれた通り、並の能力者とならやり合える程度の力はもう持っている。
問題は、その力の大部分が防御に拠るということだ。
私の堅さはレベルの高さではない。もともと防御に気を割きすぎていて、纏を分厚くする癖がついているのもあるが、特性として、オーラそのものが常人よりも堅いのである。だから纏の状態でも弱い練くらいの強度はあるし、集中して堅をすれば並みの刃物では傷つかない。
けれど当然無敵ではない。こちらから力で押し切るということができない以上、相手の攻撃が私の防御を上回ってしまえば手も足も出ないのだ。

制約や誓約に頼った能力というのは、得てして「強者」になんとしても勝つためにつくられている。クラピカもそうだし、私もそうだ。
レベルで敵わない相手と戦うため、あるいはレベルで敵うとしても確実に倒すための執念。私は偶々操作系だったから、それをすべて操作の精度に向けた。
けれどもし、他の系統だったとしたら。

――勝てない。

叩き落したナイフが床でぶつかり合って冷たい音を立てる。投げナイフはこれで最後なのか、手にははじめに持っていた細身のナイフが戻っていた。しかし相変わらず間合いを詰めて来る気配はない。私はナイフを真っ直ぐに構えて、影と音を頼りに窓との距離を測る。髭面の巨体がヒソカにぶつかっていくのが目の端に映った。

今全力で西の窓に走ったとして、誰にも追いつかれずに逃げおおせる可能性は低い。最悪ヒソカに捕まって改めて取引材料にされるだろう。そうなれば今度こそ逃走も闘争も不可能だ。つまり、ヒソカが髭面と楽しく遊んでいる間に私が卵頭を自力で倒すのが最も確実な脱出方法ということになる。それができるかどうかはまた別の話だ。

細く息を吐き出し、堅を弱める。
「考えて戦え」とイルミさんはよく言っていた。私の能力は私自身に応用力がなければ実戦ではなんの意味も為さない。しかし考えて使えば、実力を上回る強力な武器にもなり得る。

でも、結局いつも防御の堅さに物を言わせて押し切っていた。だから「鋼鉄」だなんてあだ名されるのだ。発を使っていないんだから仕方ないとか、そういう話ではない。いつもいつも結局のところは、ただ耐えているだけなのだ。

それでも、いろいろな人と戦って、自分の立ち位置を知って、今はこれでいいと思っていた。90階で頭打ちになったのだって、きっと実力のせいだけじゃない。

ほんの1年と3ヶ月で、私の立ち位置は変わりすぎている。成長と呼ぶとしても、それは決して階段を登るようなものではなかった。高い崖を命綱一本で無理やり登っているようなものだ。登れば登るほど怖くなる。足を踏み外して全体重を預けたとき、この命綱が切れないという保証はない。売った恩の杭に辛うじて引っ掛けただけの、頼りない縄だ。どこに足をかけたらいいか教えてくれる人はいても、引き上げてくれる人はいない。終わるときはきっと、一瞬で終わる。

卵頭の鋭い視線を受け止めながら、そうやって自分を追い立てる。しばらく睨み合ううちに隣の音が止んだ。髭面がヒソカから距離をとって、まだ壁際にいる卵頭から一歩半ほどのところまで下がっていく。巨体はすっかり血に汚れていた。息が荒い。斧には未だ一点の曇りもない。ヒソカの方は私の右斜め後ろ、2メートルくらいのところにいるらしかった。カードにふれる音が近い。

「期待外れだな」

ヒソカがふいに声のトーンを落とした。私は思わず視線を切って彼の表情を仰ぎ見る。そして全てを悟った。――手遅れだ。

ヒソカは『今殺すにはもったいない人』しか見逃さない。戦闘でものぐさをするタイプでもない。髭面は殺される。
そうなったら卵頭は一体どうする?復讐のために人を誘拐して尋問しようとした奴だ。まず間違いなくヒソカを攻撃する。ヒソカはそれに応えるだろう。そうなれば、チャンスだ。

髭面の顔面にトランプが突き刺さる。防御しようと動かした手は途中で宙を舞い、体ごと床へおちていく。私は一歩後退りする。
――これ以上の好機はない。嘆くような卵頭の叫びを耳に、私はまた一歩下がる。

卵頭の空気が変わった。黒く渦巻いているような錯覚を起こすほどのどす黒いオーラだ。息苦しさだけで言えば、イルミさんにかなり近い。やはり彼は念で戦うタイプなのだ。
絶対にやり合いになりたくない。慎重に体を後ろへ運びながら、私は唾を飲んだ。怨嗟のかたまりのようなオーラが膨れ上がっていく。

一瞬、卵頭の淡い緑の両目が私を見た。
気のせいだと思った。卵頭が向かおうとしているのは間違いなくヒソカだ。殺気はヒソカに向けられている。彼が――いくら腕っ節ではさほど強くもないとはいえ、プロハンターの男が、この土壇場で格上相手に余所見をするだろうか。だとしたら私の後ろに何か――。

視線をわずかに横に逃した瞬間だった。
耳元で風を切る音がした。赤い線が目の下に一筋走る。

「・・・え?」

防御している余裕なんかなかった。痛みが走ってようやく何が起きたか理解して、追い切れなかった映像を補完する。

奴は具現化系だったのだ。さっきから躊躇っていたのはヒソカの強さに怖気づいていたんじゃない。仲間の危機においてさえ彼を踏み止まらせるだけの条件があったからだ。じゃなきゃわざわざろくに戦えない私をまっさきに切るはずがない。

硬い床の上に崩れ落ちる。くぐもった音がする。首が痛い。視界が赤い。――体の感覚が、ない。


『 ニュートラル に 移行 します 』

written by ゆーこ