10月下旬。次期ハンター試験の申し込みに関する情報がネットに掲載され始め、私も最後の調整に入った。
まあ、調整と言っても、ただ作戦に不備がないか、これまでより少し几帳面に検証していくくらいのものだ。気を張っているし、もともと念頼りで、肉体に必要以上に負荷をかけるような方法はとっていないから、体調を崩すような気配もない。スタミナ不足やパワー不足は今に始まったことではないし、配られたカードで戦うしかないのだという覚悟は、もう十分にしてきた。
問題があるとすれば、この時期になってイルミさんが再び仕事に駆り出されてしまったことくらいである。彼にしかできない仕事がある以上は仕方のないことだが、一人でいてもなんにもならないことは、最早自明だ。

パスタ皿の縁にフォークを置いて、水っぽくなったアイスティーを啜る。斜向かいの客が携帯を出したので私も何気なく開いてみると、さすがに時期が時期だからか、イルミさんから珍しく状況を尋ねるようなメールが届いていた。私はここ数日の試合の結果に一言「問題ありません」とだけ書き添えて手早く返信し、携帯をポケットに仕舞う。少しため息を吐いてテーブルに肘をつくと、店員が愛想よく食器を下げていった。

ハンター試験。お話として読み耽っていた頃からなんの疑いもなく口にしてきたそれは、私にとっては結局、実体のない言葉でしかないのだろう。私の貧相な想像力では、わかったつもりになっても、気持ちがついてこない。
それに、戦い方を覚えて本格的にこちら側に足を踏み入れてからは、ハンターと聞いて少年漫画ナントカの血が騒ぐようなこともほとんどなくなった。言わば麻酔が切れた状態だ。強くなってみたいとか、念を使えるのが面白いとかいう理由では、もうまともに動けない。90階クラスで頭打ちになったのも、単に限界が訪れたせいだけではないのだろう。あれより上は雰囲気が違う。いくら少年漫画好きで多少の暴力表現耐性があるといっても、結局のところ平和な頭の私にはどうもついていけそうにない領域だし、もはや無理についていこうとも思っていない。

氷だけになったコップをコースターの上に戻し、手持ち無沙汰になった両手をポケットに突っ込む。すると不意に携帯が震えだした。メールはバイブを切ってあるから、これは電話だ。相手は考えるまでもない。
電話口で込み入った話になったことはなかったが、とりあえず代金をテーブルの上に出して店を出る。通りの人波をすり抜けながら携帯を開くと、やはり表示されていたのはイルミさんの名前だった。

「もしもし?」
『相変わらず可もなく不可もないね。』

十中八九さっきのメールに書いた勝敗の話だろう。いきなりそれか、と唸りそうになるのをこらえて、電話越しに愛想笑いをつくる。

「ずっこけなくなっただけマシなんじゃないかと思ってます。」
『まだまだ。』
「いや、私あくまで凡人ですから」
『肉体資本は凡人以下だろ?』
「この期に及んで身長の話ですか!」

宙を睨んで鼻息荒く路地に入り、むやみに歩いても仕方ないので汚れた室外機に浅く腰掛ける。イルミさんは私が何か言うのを待つように黙っていた。

「・・・もうお仕事終わったんですか?」
『うん。今そっちに向かってるところ。』
「つくのはいつごろになります?」
『明日の夕方かな。』

それなら夕飯はうちで食べることになるだろう。今日のうちに材料を仕入れて、明日はなるべく早く試合を組んでおかなければならない。冷蔵庫の中身を思い出しながら「わかりました。」と短く返事をする。しかし応答がない。どうやら電話の向こうで誰かと話しているらしい。聞き覚えのある声だから、たぶんいつもイルミさんについている使用人の誰かだろう。耳を澄ますと、嵐とか風向きとかいう言葉が断片的に聞き取れた。

「天気悪いんですか?」

心もち大きな声で言ってみると、イルミさんは少し遠くから肯いた。

『まともにぶつかるわけじゃないってさ。夜には着くよ。』
「はい。お気をつけて。」
『じゃ。』

通話を切る音がしたので、そのまま携帯を閉じてポケットに仕舞い直す。
夕飯はどうなるかわからなくなってしまったが、どちらにしても冷蔵庫の中は閑古鳥が鳴く寸前のところまできている。作り置きも底をついたし、買出しは必須だ。
買い物に行くなら一度家に帰って着替えてからにしよう。いい加減慣れて気にならなくなってはきたが、汗でべたべたのまま動き回るのはやはりいい気持ちではない。

踵を返して路地を抜ける。家に帰るには通りを下っていかなければならない。右へ方向転換しようとしたとき、私は何かに跳ね飛ばされた。
相手が人間だということにはぶつかった感触ですぐ気づいた。そして違和感に眉を顰める。――気配がしなかった。こんな人混みの中で、わざわざ気配を消して立っていたということだ。
何かそこはかとない悪意を感じる。それでも気性の荒い闘士かなにかだったらまずいので、尻餅をついたまま、できるだけ申し訳なさそうに頭を下げておく。

「す、すみません・・・」
「こちらこそ、ゴメンね。大丈夫?」
「いえ、全然・・・」

答えながら、視線を上げようとして、私はなぜか躊躇った。何か引っかかる。ぶつけた額を気にする素振りで目を逸らして、男の爪先を見つめた。男物にしてはかかとの高い、先の尖った靴だったが、べつにどうということはない。声色も口調も、子供に話しかけるような優しげな雰囲気さえあった。でも、何か嫌な感じがする。知っている。
私が黙って俯いていたからか、男は「本当に大丈夫?」と重ねて尋ねた。影が大きくなる。はっとして顔を上げたときには、もう彼は私の目の前にいた。

「僕の顔に何かついてるかい?」

ピエロメイクがついています。似合っていますが突っ込みどころです。と冷静に考えながら、私は必死で首を振った。――そう、私は「うわあ、200階クラスで有名なあの人じゃんあの人!あれっ名前なんだっけ?ピエロ?いやいや違うっしょ!」と思っている、人の名前覚えられない系の一般人だ。名前が思い出せなくて申し訳なくて焦っているのであって決して自分の身を案じているのではない。
瞬時に設定を練り上げ、それらしく名前を思い出そうとする素振りを見せる。ボロが出たら、あるいはイルミさんの知り合いだとわかったりしたら、体のどこかしらから何かグロ的なものがはみ出すことになるに違いない。じわじわと上ってくる恐怖に震えながら、私は息を呑んだ。なんとしても逃げ切らなければならない。

「・・・えっと、休みがちの?死神?さん?」
「なにそれ?」

どうやら本人は認知していないようだ。作ったはにかみ笑いを浮かべて「ああいやえっと、見たことあるんですけどお名前忘れちゃって!すみません!一度試合拝見してるんです!」と捲くし立て、さっと立ち上がって砂を払う。目の前のナントカさんは屈んだまま、キャラに合わないきょとんとした顔でこちらを見上げている。変な奴だと思われたかもしれない。でもまあ、強い人にしか興味のない人だ。有象無象の私はすぐに記憶から消え去るに違いない。この際細かい印象は気にしないことにしよう。

「ところで、君よくこのあたりにいるけど、もしかして闘士なのかな?」

――気にしないことにしたかったのに。

喉から上擦った音がした。逃げ場がないと確信して、降参しようとしたのに唇が動かなかったときの音だ。前はカルトくんの前でよくこうなった。
覚えられている。もしかしてと言うからには、彼もそこに確信を持って聞いているわけではないのだ。けれど私を覚えている。念使いがさほど珍しくないこの環境で、卓越した能力者でもない私をだ。
考えられる理由は一つしかない。私が何も言えないで固まっていると、彼はやはり屈んだまま、小さな子供に話しかけるように首を傾げた。

「違ったかい?」
「い・・・いえ、こう見えてその通りです・・・そうと知ってる人以外に言われたことないので、びっくりというか、感動というか。」

表情を取り繕って、なんとかそれらしいことを言う。もう逃れられないのはわかっていたが、途中で態度を変えても仕方がない。嘘は最後まで吐き通さなければ意味がないのだ。この沈黙は人見知りを発動させているせいということにしよう。視線を泳がせておろおろする素振りで退避ルートを探っていると、ヒソカはようやく立ち上がった。

「・・・今日は彼と一緒じゃないんだね」
「え?」

なるべく警戒した表情を出さないように、「誰の話をしているんだろう」とでも考えているような雰囲気で小首をかしげておく。彼は品定めするような目で私を見下ろしていたが、威圧する気はないようで、そのこと自体には不思議と怖さを感じない。しかし、何にしても誤魔化しきれる相手でないことは確かである。私は極力何気ない声色で「ああ、イルミさん。」と頷き、ぐっと上を向いて彼と視線を合わせる。ヒソカはにたりと笑う。けれどそれは一瞬で、彼はすぐ好青年風の笑顔になった。

「実は僕、彼とちょっとした知り合いなんだ。」

含みのある台詞にも気づかないふりをする。私は「そうなんですか」と言って、少しほっとしたような顔をつくった。知り合いの知り合いと聞いてなんとなく気持ちがほぐれた、のだ。ヒソカは姿勢を崩し、顔を少しこちらに寄せてくる。

「どこにいるか、知ってるかい?」
「さあ・・・すぐ戻るとは言ってましたけど。」

淀みなく答えて肩を竦めるような仕草をする。ヒソカは私をじっと見下ろし、それからやわらかく微笑んだ。顔に似合っているのがかえって不気味だ。

「じゃあ、彼に会ったらよろしく。」
「あ、はい・・・伝えておきます。」

私がそう言うと、彼はそれ以上何も言わずに去っていった。私はただ呆然と大きな背中を見送り、人混みにまぎれて見えなくなるのを待って、手近な壁にぐったりと凭れる。
凝で見てみても何か仕掛けられている様子はない。ということは恐らく、あの人は私とイルミさんのつながりを確認しにきただけなのだろう。
なぜそんなことをしたのか。考えようとして、恐ろしい想像が湧き出るのですぐにやめた。今は買い物だ。
気を取り直して通りの人の流れを眺め、なんとなく怖い気がして路地に戻る。家に帰るにはこの通りを渡らなければならないのだが、ピラニアが放たれた水槽にわざわざ飛び込もうと思う人間はいないだろう。今日は別の店でさっさと買い物を済ませて、帰ってからゆっくりお風呂に入って、あとは勉強していよう。こういう日は大人しくしているに限る。

薄暗い路地を突っ切ってひとつ向こうの通りに出る。来たことはないが、確かこちら側にもスーパーがあったはずだ。地図はもうひととおり頭に入っているから、だいたいの位置はわかっている。通り沿いではなかった。この道の向こう側、闘技場方面から離れる方向の、それほど遠くない場所だ。
ポケットに手を突っ込んで、ひとまず左に進んでいく。――少なくとも、私の意識はそうしようとしていた。

首の後ろに何かある。僅かに感じた殺気に、私の足は貼り付けられたように動かない。動いたら何かされると、珍しくはたらいた勘が、逃げ去りたい私を必死でつなぎ止めていた。

「お利口だな、お嬢さん。逃げたら殺す。そのまま両手を挙げるんだ。」
「・・・誰。」
「何、お嬢さんは気にしなくていいことだ。さあ、手を挙げろ。」

知らない声。知らない気配。ポケットから手を出してゆっくりと肩の高さまで挙げる。声は背後、つむじのあたりから聞こえてくる。身長170センチ程度。背中が生暖かい。距離は30センチ以内。足音がなかった。暗殺者、もしくはそれに近い何か。

必死で考えて、私は口を開く。背後の殺気はまだ首筋を鋭く狙っていたが、私にはひとつ、確かめなければならないことがあった。

「・・・目的はなんですか。金?」
「金!あんたが稼いだファイトマネーか?くれるっていうなら貰うが・・・そうじゃない。」
「じゃ、なに。他にあげられるもんないよ。」

僅かに漏れた吐息の音で、背後の男が笑っているのがわかる。後頭部に生暖かい空気が触れて気分が悪い。

「あるさ。とびっきりの“情報”ってやつだ。」

――ゾルディック家の。
男は明言しなかったが、確実だった。風を切る音を咄嗟に避け、身をかがめた瞬間に携帯を取り出して、追撃がくる場所へ紙一重で差し込む。うなじの後ろで携帯が砕ける音がした。背後の誰かはヒュウ、と口笛を吹く。

「よく躾けられてるな。その通りだよ。携帯を出せと言うところだった。」
「親切で言っておきますけど、私じゃ人質になんてならないし、何も喋りませんよ。」
「それを喋らせんのが俺たちの仕事さ。だがお嬢さんはすこぶる強情そうだ・・・」

自信ありげな声を背後に、私は目を伏せた。――いやな感触が首筋にぴたりと張り付く。

「ちょっとばかし寝ててもらうぜ。」

体が跳ねる。頭が爆発しそうなくらいの衝撃があって、悔しいくらいあっさりと、私は意識を失った。
written by ゆーこ