九月のカレンダーを眺めて、私はそっと眉を顰める。
こちらに来てから一年二ヶ月、まともな修行を始めて約一年。大分こなれてきたが、それでも相変わらず時間は足りない。
もちろん、ずっと前から287期に食らいつくつもりでいたのだから、対策は練ってある。それでも無謀な挑戦であることに変わりはないし、逆に言えば、私には来期で合格する以外にプロハンターになる道はないのだ。門は狭く、そして遠い。
今日の日付に×をつけて、腰のホルダーに手入れし終えたばかりのナイフを差す。何気なく窓の外へ目をやれば、まだ明るい空をカラスが群れながら飛んでいった。もうじき日暮れだ。
少し悩んでからいつもより厚手の上着を羽織ると、財布と携帯をポケットに突っ込んで、私は足早に部屋を出た。
武器を持てと言われたのは約三ヶ月前。成果はほどほどだ。投擲のチャンネルやカルトくんから受けたイジメの数々が良い肥しになったか、投げナイフだけは抜群によく出来ているが、他は「まあ直視できる」程度である。実戦で使い物になるかというと怪しい。
それでも、小型のナイフは常に持ち歩くようにしていた。理由は単純に、護身のためである。
天空闘技場は格闘のメッカと呼び親しまれている。しかし、平和な国からやってきた平和な頭の私に言わせれば、あれは格闘とは名ばかりの殴り合いである。飛んでくる野次が「殺せ!」であることは何ら珍しいことではないし、どの階級でも実際に死んでしまう人がいる。
それでも観客は、そういう非日常的な光景に熱狂する。中には興奮して暴力的になる者もいる。矛先は隣近所の観客か、あるいは、弱そうなのに勝ち上がってかけ金掻っ攫った女闘士である。
とは言え、相手は総じて何の心得もない一般人だ。対処は難しくない。ただ念を使わないとなると、体格のいい男が相手のときは負けを認めさせるのに中々骨が折れる。それどころか、こちらが素手なのをいいことに、武器を翳して突っ込んでくる不届き者までいるのだ。最初にナイフを突きつけられたときは不思議と冷静で、すぐに叩き落して持ち主もろとも地面にハグさせたが、いつもそうとは限らない。
だから自分も、試合以外では武器を持ち歩くようにした。時間がない以上あまり余計なものにかかずらっているわけにはいかないのだ。組み手や実戦形式の演習はイルミさんに言わせても過剰なほど繰り返した。私に足りないのはもはや場数ではなく、純粋な力と戦闘のセンスである。相手がどう出るか、何をしたら効果的かはわかってきたのに、ただただ体が動かなかった。
近場の店で目当ての食材を手早く揃え、沈みかけの太陽を横目に踵を返す。
ハンター試験まで半年を切ってからメニューの密度も量も増すばかりで、もう自由になる時間はほとんどない。イルミさんも大詰めのつもりなのか、このところはほとんど放任せず、つきっきりで指導してくれている。いい加減この師弟関係にも慣れたつもりでいたが、それでも「妙に面倒見がいいのは何か裏があるからでは」と勘繰りたくなるほどだ。単に彼が私が思っていたほど冷酷ではなかったというだけの話なのだが。
紙袋を抱え直して丁字路を左に曲がると、いつもの公園に出る。敷地を縁取る低い生垣はすっかり雑草や蔦に覆われて、等間隔に並ぶ街路樹もどこか鬱蒼としている。歩道はいつも草と土の匂いがした。
高く頭上ではカラスの群れが鳴き合って、ねぐらの周りを飛び交っている。日暮れ前の、いつもの光景だ。
立ち止まって見上げていると、不意に大袈裟な羽音と、けたたましい威嚇の声が響いた。私は思わず肩を竦め、少ししてから首を捻る。
このあたりのカラスは、一部に密集して住んでいるいるせいか一羽一羽の縄張りが非常に狭い。巣の周りでさえ、威嚇の声を聞くことは滅多に無いのだが。
振り返って、生垣の向こうを窺う。――人の声がする。二人だろうか。片方は子供のようだ。少し奥にいるらしく姿は見えない。
状況は掴みかねるが、彼らが威嚇を受けているのは確かだ。紙袋を置いて、生垣の枯れてまばらになったところを抜けて声のする方へ進んでいくと、やはり二人、男の人と男の子が数羽のカラスにたかられているのが見えた。
「や、やめるっす!自分おいしくないっす!」
「食べようとしているわけではないと思いますが・・・」
「師範代!なにボーっとしてるっすか!?」
――違和感。いや、既視感。
私は眉間を指で押さえながら、努めて自然に二人とカラスの前に歩み出た。そしてメガネの男性と視線が絡む前に、出来る限り手早くオーラを飛ばす。それが全てカラスに命中したのを確かめて両腕を軽く広げると、カラスたちは一瞬挙動不審にぐらぐらと飛行した後、威嚇をやめて私の方へ飛び込んできた。
「―――!!」
少年が何か言ったようだが、頭に止まろうとする奴がいたので羽音がうるさくて聞こえなかった。反射的に「ごめんちょっと待って」と呟いて、どうにか両腕と左肩に一羽ずつ落ち着ける。この方法で「命令」を守らせることができるのはほんの数十秒だが、場を収めるだけなら十分だろう。
一息ついたところで改めて二人の顔を見れば、そこに居るのはやはり、どう見ても私の“知っている”人たちだった。首を捻りながらも、とりあえず無事を確認する。
「・・・怪我、ないですか?」
「ええ、大丈夫です。・・・あなたは?」
「ご心配には及びません。」
そう答えてから「お前は何者か」という意味の問いだったかもしれないと思い至ったが、まあいいだろう。ひとまずカラスに「家に帰りなさい」と囁いて飛ばし、まだびくびくしている少年の方へ視線をやった。
「た、助かったっす。」
「いえいえ。」
勢いよく下げられた坊主頭に微笑みながらも、その海苔眉毛をまじまじと見つめる。彼は戸惑った風に“師範代”と私を交互に見ていた。“師範代”の方は微笑しながらも私を注意深く観察している。纏は揺るがず、強く引き付けられている。熟練した念使いであることはまず間違いない。少し考えてから、私は思い切って口を開いた。
「お二人は、このあたりの方ですか?」
「いえ、彼の指導のために来ているんです。」
「お、押忍!自分、ズシです!」
聞く前に結論が出た。思わず苦笑してしまったがすぐに愛想のいい顔を作って名を名乗る。それまでずっと後ろにいた“師範代”も和んだ様子で笑んで、一歩進み出てきた。
「私はウイングといいます。貴女はこのあたりの?」
「いえ・・・地元はパドキアです。」
躊躇いながらも“事実”を答える。こちらに住むにあたって必要な証明書類はすべてゾルディック家のお力で偽造なり正式手続きなりをして揃えているが、その中で私はククルーマウンテンのふもとで生まれ育ったことになっている。実際私はそのあたりから出現しているので、あながち嘘でもないのだが。
「じゃあ、こちらへは観光か何かですか?」
まさかそうは思っていないだろうに、メガネの奥でにっこりと笑いながら、ウイングさんはそう尋ねた。私は「いえ」と短く否定して、ズシを見下ろす。目が合うと彼はまた落ち着かないような仕草をした。纏にはまだ慣れていないのか、動くたびにオーラがゆらゆらと揺れているが、それでも最初の頃の私よりはずっと上手い。始めてどのくらいなの、と訊くかわりに、口を噤んで笑みを作った。
「またね。」
それだけ言って、私は身を翻す。なるべくきつく、突き放すような足取りで。
――彼らとは、あまり関わり合いになりたくなかった。
ゾルディック家と交流を持ち続けていられるのは、彼らが私とは決定的に違う思考の持ち主だからだ。
それはもちろん、表面上はいくらでも理解できるだろう。それでも、彼らと感覚や感情を共有することはできない。彼らは私を突飛なドキュメンタリー番組を見るくらいの目で見ているし、私も似たようなものだ。
私は帰らなければならないし、そのために今は強くならなければならない。強くあるためには心を強く持たなければならない。意思を固めなければならない。帰りたいと思い続けなければならない。ならばここで必要以上に安らいでいていはいけない。普通の人、優しい人と関わり合いになってはならない。
お世辞にも一匹狼とは言い難い私がずっと一人でいる理由は、ただそれだけだった。――だから、そのしわ寄せが全部まとめて近くにいる人に行ってしまいそうになるのだろう。
頭を掻こうとして、伸ばしっぱなしの髪が絡んで上着の襟のところに不恰好に引っかかっていたのに気付いた。格好悪いところを見られてしまったが、それもどうでもいい。今後顔をつき合わせることになっても愛想笑いで回避することになるだろうから、彼らが私にどんな印象を持っていても同じだ。
生垣をすり抜けて歩道に戻ると、紙袋が倒れて中身が散乱していた。誰かが躓いたのだろうか。人通りがないから油断していた。
一つ一つ状態を確認して詰め直し、袋の破れたところを押さえて慎重に抱え、溜息を飲み込んで歩き出す。夕日はすっかり姿を隠し、カラスの声も疎らになっていた。冷たい風が首筋を浚っていく。
――もうじき、夜が来る。
