時刻は11時半。携帯を閉じて軽く唸り、ポケットに両手を突っ込んで裏通りを歩く。

戦い方を覚えたと言っていいのかはわからないが、とにかく階数は70階から90階の間で安定するようになった。安定しているということは上昇もしていないということだが、かつてあのキルアが100階クラスで何度も引っかかったのだ、と思えば、そのすぐ下まで辿り着けたことには素直に喜びを感じる。
大体、もとがゴリゴリの一般人なのだから、そう簡単に猛者猛者した人間になんてなれっこないのである。ただうまい調子に念を覚えて、奇跡的にとても硬いタイプで、格上相手に踏ん張ることに慣れているというだけ。「稀に火事場の馬鹿力を発揮するが基本的に非力」と紹介されたことがあるが、概ねその通りだ。

できれば今後はその非力さをなんとかしたいものだが、こればっかりは長くなってきた修行生活の中で一度も手ごたえを感じなかった部分なので、なんとも言い難い。


腕まくりをして力こぶを作ってみながら、鼻をくすぐる匂いに足を速める。レストラン街までもう少しだ。

「よぉ。」

不意に降ってきた声に、私は反射で身構えた。――気配がしなかった。油断していたとかではなく、全く何も感じなかったのだ。

「・・・誰?」

姿を探さずに、まずはそう訊ねる。声の主は相変わらず気配を消したまま、鼻で笑ったような音を出した。――左側、距離は1メートル先。路地からだ。

「久しぶりだなぁ。」

声の主は笑みを浮かべながら、ゆっくりと姿を現した。私は軽く距離を取り、ポケットの中でリモコンを握り締める。短く切った金髪、青い目、目つきは悪い。ブルージーンズに色褪せたパーカーを羽織って、肩には何か長物を仕舞ったようなバッグをかけている。

「・・・・えっと」

私は息を呑んだ。

「どちら様でしたっけ?」
「・・・。」

私の明るい問いかけに対し、場には重い沈黙が流れた。――これは何かまずいような気がする。そして何かを忘れているような気がする。はらはらしている私を見下ろすその男は、一瞬呆けたような顔をしたかと思うと、すぐに表情を強張らせて詰め寄ってきた。

「ベッカーだよ!!トニー・ベッカー!お前の師匠に嫌われてる!!」
「えっ!?あっ、あー!!」

まさかお前本当に忘れてたのか、というベッカーの質問に、私は曖昧な笑みを投げかけるしかなかった。






「そういやぁ半年振りか。元気そうで何よりだな。」
「ハイ・・・」

引きつり笑いで相槌を打つと、冷たいものを手渡された。オレンジジュースのようだ。

「ありがとうございます・・・?」
「飲めよ、お兄さんの奢りだ。」

果たして三十路はお兄さんに入るのだろうか。疑問ではあるが黙っておこう。
遠慮なくジュースを啜りながら、向かいに座ったベッカーを眺める。無精髭に寝癖のイメージがあったが、今日は小奇麗にしているようだ。服装はいくらかラフすぎるが、髪も髭もきれいに整っていた。

「・・・で、急に何なんですか?」

特にイルミさんのことを聞いてこないということは、彼に用があるわけではないのだ。かといって、私に何か具体的な用事があるとは思えない。まさか去年のネタを吹っかけに来たのだろうか。
私がどぎまぎしているのをよそに、ベッカーは軽く笑って椅子の背もたれに肘をかけた。

「いや、嬢ちゃん最近どーしてんのかなぁと思ってな。」
「・・・そんな理由でわざわざ来ますか?」
「来たっつーか、地元なんだよ。」

私はたぶん変な顔をしたのだろう。ベッカーは耐え切れなかったように吹き出して、おいおいその顔はねぇよ!と私を指差した。ちょっとムカついたので払いのけてやる。すると彼はそのまま別の方向を指した。

「あっちな。もっと郊外だけどよ。」
「・・・。」

おい家の方向同じじゃないか。という言葉は飲み込み、なんとか「へぇ・・・」と相槌を打つ。ベッカーは大らかに続けていった。

「まぁ、普段はハンター業とアッチの仕事掛け持ちで出ずっぱりだからなぁ。地元っても、年に一回戻って来りゃすげぇ多いってくらいだ。」
「あ、そっか。ハンターもやってるんでしたっけ。」
「ああ。言っとくが、そっちが本業だからな。」

正直それはどうでもいいが、とりあえずわかった風な顔をして、ストローをくわえながら頷いておく。

「でよぉ、久々に戻ってきてなんとなく天空闘技場ここ来てみたら、見たような顔が映ってるじゃねぇか。」
「だからってとっ捕まえないで下さいよ。こう見えて忙しいんです。」
「わかってるよ。修行だろ?」

口角を上げて、いかにも楽しそうに彼は笑った。私は頬杖をついてじと目で見つめる。わかっているのならさっさと解放してほしい。ジュースが呼び水になったのだろうか、本格的にお腹が空いてきた。

「そういや、坊ちゃんはどうした?」
「イルミさんなら仕事ですけど。」
「なんだよ、じゃあ嬢ちゃん自主練か!」
「・・・なんで身を乗り出すんですか。」

そう言い終わったとき、私の体は既にテーブルと椅子の間を抜けて、斜め後ろにあった街路樹の根元の土を踏んでいた。自分の行動に自分でも驚いていたが、それでも冷静に相手を見つめる。ベッカーはいつの間にか、肩に掛けていたバッグから見たようなライフルを取り出していた。

「悪くない反応だな。」
「・・・何?」
「いやあ、ちょっと付き合ってやろうかと思ってな。」

躊躇いなく向けられた銃口をみとめるが早いか、私は街路樹の後ろに回り込み、そのまま大きく後ろに下がる。騒ぎに気付いた人々が声を上げ始めたが、爆竹が爆ぜたような音と、大樹が倒れる音に全て掻き消される。華奢なわけではない私の体がすっかり隠れるほど太い幹は、まるで小枝を指で弾いたように大きく吹き飛んでいた。
私は木片を手で払い、周囲を目だけで確認する。爆発の範囲が思ったより広い。爆心だけで2メートルはある。私の足では咄嗟の回避はできないだろう。

――距離を取らなければ。相手が遊びのつもりでも、私にとっては死活問題だ。

「逃げるか?追いかけっこで負ける気はしねぇけどな。」

後退りする私に、ベッカーは不敵に笑いかけた。私はそれを睨みながらも、体に染み付いていた“襲ってくるモノ”への対処法を意識の上へ手繰り寄せていく。

「コイツの有効射程は1000メートルだ。撃たれたモノは知っての通り。気をつけろよ。」

いかにも楽しそうな声色を耳に、私は逃げ惑う人波に飛び込んだ。








荒らした路上の後処理は渋る知り合いに無理矢理頼み、路地をゆっくりと進んでいく。地の利がこちらにある以上、あいつは表通りの人混みに紛れて機を見ているはずだ。イルミの教育が行き届いているか、あるいはあいつ自身にそう判断する能力があれば、だが。俺は緩む口許を手で覆って、あの少女の目を思い出す。

最初に見たときは、えらく場違いな素人が紛れ込んでいる、と思った。纏も未熟でおどおどしていて、ずっとゾルディック家の誰かの尻を追いかけている。背格好もまるで子供で、左頬に目立つ傷がある以外では“それらしい”ものは何も無かった。
それが目を見た瞬間に一転した。こいつはもしかしたら有望かもしれない、と勘が囁いたのだ。そこには素人や凡人の目ではなく、何かしらの覚悟を決めた者特有の、鋭い光があった。

不意にポケットの中の携帯が震えた。何も考えず出れば、聞いたような声がする。

『ベッカー、今何してる?』
「おう坊ちゃん、久しぶりだな。どうした?」
『俺は何してるのか訊いてるんだけど。』

どうやら嬢ちゃんは脱出口を見つけ出したようだ。当たり前と言えば当たり前だが。

「お前んとこの弟子と遊んでんだよ。聞いたか?」
『弟子で、の間違いだろ?どうすればいいか聞かれたけど、どうせ延々追いかけ続けるから逃げるしかないよって言っといた。』
「よく分かってるじゃねぇか。」
『しつこさは嫌でも分かる。』

やや吐き捨てるような調子でそう言い、イルミは溜息を吐く。曰く、『目的は何だ』と。――目的などない。興味を持ったモノが鼻先にあったから、様子を見に来た。それだけだ。

「良いな。」
『は?』
「良い素材だ。柔軟だが芯がある。そんでもって、ちょっとやそっとじゃ壊れない。」

映像の中で、常人なら内臓が破裂するような打撃を何発も、平然と打たせていた。体重が倍ありそうな男の蹴りを細い腕で受け止めていた。攻撃の手は出なくとも、あの目は常に機会を伺っている。己が挑戦者であることを理解し、その上で勝とうとする。犠牲を覚悟した、真剣な試合だった。

『試す気?』
「撃ちはしねぇよ、殺しちゃつまんないだろ?前見た時より勇ましくなってたから、どんなもんか様子見てるだけさ。コロコロ表情変わってイジり甲斐あるしな。」
『まだ“化ける”ほどのことはない。』
「俺の目では、まだよく見てねぇよ。」
『・・・。』

相手が意味ありげに黙ったのを機に、適当な建物の屋上へ上がる。表通りは昼飯時の大混雑だが、見通しは良い。ここで張っていてもいずれ見つけられるだろう。

『言っておくけど、あんたがどうでもは命懸けのつもりで来る。』

イルミは抑揚無く言った。俺はふんふんと聞き流す姿勢で携帯を持ち替え、ライフルを肩から下ろす。

『彼女、命がかかってたら何でも使うよ。』
「まあ、そりゃあそうだろうよ。」
『じゃ、素人にウッカリ殺されないように気をつけてね。』
「は?」

電話の切れる音を左耳に、思わず後ろを振り返る。特に何もない。
しかし、あのイルミが言うと何かとんでもなく説得力があるように感じる。確かに、俺は一方的に遊ぶつもりで、相手が何をしてくるかはあまり考えなかった。何でも有り得る以上は考えるだけ無駄とも言えるのだが、他に何か見落としは――

「おい。」

真横。呼びかける声は投石とともに耳に入った。周でもしたのだろう、敵意の篭ったオーラが頭スレスレを通り過ぎた気配に、反射的に銃口を向けたが、撃ってはまずいので引き金には触れない。それを見て、隣の建物の屋上に立ったは、追撃とばかりに割れたレンガを投げつけてきた。当たっていれば俺の顔面にクリーンヒットしていただろう、鋭い一投である。

「おいおい嬢ちゃん、追いかけっこで鬼の前に出て来るなんて、自殺行為だぜ。」
「撃たないんなら近寄れる。」
「・・・!」

――『何でも使うよ。』
つい今しがた聞いたばかりの声を反芻し、俺は思わずにやりと笑んだ。確かに、なりふり構っていないようだ。

「だからって普通、師匠使うか?」
「“使った”のはお友達ですよ。」

は半ば呆れたような顔で俺を睨んだ。トモダチ、と言うからにはイルミ以外の誰かなのだろう。その誰かに頼んで俺とイルミの会話を盗聴し、かつGPSか何かで居場所を割り出した、と考えるのが妥当だろうか。考察し終えないうちにが喋りだした。

「どうせやるなら本気で殺しにかかってもらわないと訓練にならない。」
「ん?」
「って、イルミさんが言ってました。まあ、私的には十分怖かったんで、本気とか冗談じゃないですけど。」

そう言って投げつけられた、恐らく最後のレンガ片を、俺は軽く避けた。――避けたつもりだった。

「っ!?」

不自然に軌道の反れたレンガが真っ直ぐに額に当たる。そして一拍の間を置いて、鳩尾狙いの右ストレートが襲い掛かってきた。やむを得ずライフルを下げて左手で受け止める。

「タッチ。」
「おぉ?」
「鬼ごっこでしょ?オニ交代。次、ベッカーが逃げる番。でも私追いかけませんから。」

ふてぶてしくそう言ったの表情は、喜怒哀楽で言うなら、間違いなく“怒”である。――はて、俺は彼女を怒らせるようなことをしたか?
そう考えていたのがわかったのか、はあからさまに舌打ちをしたかと思うと、携帯の待ち受け画面をつきつけた。真ん中に大きなデジタル時計が表示されるタイプのものだ。時刻は12時14分。

「11時半の時点でおなかが空いていた私の今の腹具合を想像できますか。」
「そりゃあ・・・・えらく空腹だな。」

そう答えると、彼女は何も言わずに踵を返して路地に消えた。俺は額に手を当て、ぬるりとした感触に息を吐く。――完全に避けたはずだった。それが当たったという事は、軌道を操作したのだろう。放出系か、それに適性のある操作系。どちらにしても、念を知って一年やそこらにしては上出来だ。前もって石とレンガを投げたのは、俺が咄嗟に避ける方向を見定めるためだったのだろう。助言を受けてそうしたのだとしても、それを寸分の狂いも無く実現する精神力は素直に高く評価できる。

「・・・闘技場が武器禁止でよかったわ。」

俺はぽつりと呟いて、一つ大きな溜息を吐いた。
written by ゆーこ