朝一で試合を終え、負けのペナルティとして階段を使って降りていると、廊下の先にある売店前に妙な人集りが見えた。しかし売店自体は10階ごとに同じもののある、何ら面白味のないごく普通の売店のはずだ。新発売のゲテモノメニューがあるにしても、いつもごく一部の客層にしか受けずに消えていくのに、いきなりこんな黒山の人集りができるはずはない。
だとすれば一体何があると言うのだろう。野次馬根性に負けて首を伸ばしながら近寄ってみても、集まっているのが男ばかりで人垣が高い。あんまり何も見えないのでむきになって集団の後ろの方で跳ねていると、前に居た恰幅のいいおじさんが振り向いて笑った。

「チケット欲しいのかい?物好きだね。」
「あ、いや。何の人集りかなって・・・」

どうやら物好きと言われるような試合のチケットの販売開始待ちらしい。しかし、そんなもの200階クラスなら全部が全部そうだ。洗礼になったら何割かの挑戦者は死ぬし、念能力者同士の戦いともなれば一般女子が楽しく観戦するものではない。そしてそのチケットがものすごく高価なので、私の感覚からしてもさほど競争率は高くないはずである。
考えていると、おじさんが「ああ、ほら。」と前を指した。私には人の背中しか見えないが、どうやら販売が始まるらしい。

「さぁお待たせしました!ヒソカ対マド戦チケット、販売始まりますよォ!!」





初めて見るような超満員の客席に思わず声を漏らしながら、早く来ておくべきだったと眉を顰める。「ヒソカ」が強いのは心得ていたが、実際の人気までは把握しきれていなかったようだ。いくら少年漫画の世界と言ってもそんな猟奇趣味の人間ばかりではないだろうし、カストロ戦は因縁の戦いというアオリがあるから盛況するのだと思っていたのだ。
しかしこの状況を見るに、どうやら闘技場でのヒソカの評価は「桁外れに強い闘士」に留まっているらしい。
対戦相手が死ぬのはヒソカが強いから。試合中に人が死んだとして、そんなことはありがちな“事故”だし、運営やメディアが騒ぐわけでもない。ヒソカが楽しんで人を殺していることは試合を見れば容易に推測できるだろうが、それを確認する方法がヒソカに直接訊く以外に存在しない以上、誰もヒソカが殺人狂そういうひとであると確信できないのだ。

一人で肝を冷やしながら階段状の通路を降りていく。見回すとざわつく人混みの中に一つだけ空席があったので、そそくさと座った。

姿勢を正してリング上に視線を投げると、猫背の男が立っているのが見えた。あれがマドだろう。体が曲がっていてもわかるほどの長身だが、タンクトップから出た肩や腕は硬そうに筋張っていて細く、いかにも不健康そうな土気色をしている。
――と言っても、ここまで上ってきているのだから、見かけに関わらず強いのである。私は思わず溜息を吐き、組んだ脚の上で頬杖をついた。見ようによれば病弱そうでもあるのに、あれでこのクラスを何回か勝ち抜いているのだから驚きだ。一体どこに筋肉を隠しているのか甚だ疑問である。あるいは彼が具現化以外の能力者で、はじめから念能力だけで戦っていたと仮定しても、話はあまり変わらない。

念能力で物理的に強くなる人間はふつう肉体が屈強であり、それでないなら精神が頑強でなければならない。“力”を正しくイメージできなければ、いくらオーラを操れても効果的な出力はできないからだ。
だから念能力者にもピンキリあって、発想の優れた能力でも使い手によってはただのガラクタになる。たとえ性質的に自分に合っている能力だとしても、自分自身が強くなければ能力は強くならないのだ。

半ば自分に言い聞かせるようにそう考えながら携帯で時刻を確認すると、もう開始まで三分を切っていた。観客もざわつきはじめている。
ヒソカの闘士としての経歴は決して長いものではないが、既に「休みがちの死神」の名は通っている。それを思い出して一度はチケットの購入を思い止まったものの、貧乏性は好奇心に勝てなかったわけだ。あとになって来期の試験会場に辿り着ければ最低限のコストで拝めると気付いたが、まあいいだろう。生活費とミルキへの送金以外では目下使い道のない金である。あるのに使わないのもそれはそれで勿体無い。


さてどうなるかな、と軽く首を伸ばしたところで、マドの重たそうな赤毛がふらりと揺れるのが見えた。そしてそれを追うようにざわめきが止み、控え室に続く通路の影から、尖った爪先がゆっくりと姿を現す。
それを冷静に見下ろしながらも、“こちら”に来た時――イルミさんと初めて対峙した時と似た感覚がしたのに、私は少なからず動揺していた。宙吊りになっていた現実感が地に落ちて、じわじわとせり上がっていくような、焦りにも似た感覚だ。

『――ッヒソカ選手、ギリギリセェェ―――フ!!!死神は休業かと思いきや、余裕の表情でリングに現れましたァ!!』

実況のお姉さんの大声を耳に、胸のあたりを押さえながらそっと身を乗り出すようにしてリングを見下ろす。
そこには「ヒソカ」のイメージそのままの奇抜な衣装と髪色の男が、余裕綽々といった様子で立っていた。私は思わず息を呑み、じっと彼を観察する。剥き出しの腕は引き締まった筋肉に覆われ、無駄のない纏はその強さを裏付けるように悠然と漂って見える。

「来ないつもりだったけど、間に合いそうだから来ちゃった。」

聞き取れる限り彼はそう言い、腰に手を当ててマドをじっと観察する。マドの方は既に準備万端といった風に動かない。どうやら狙ってヒソカの設定した日付にぶつけていたらしい。
しかし、小耳に挟んだ限りではヒソカとマドに接点はない。もちろん、このクラスに長く居るマドはヒソカのことを知っていただろうが、ヒソカは違うはずだ。現時点では彼からポイントを奪ったのも、彼と戦って生きているのもカストロだけだ。となると、もしかするとマドは過去の映像や実際の試合を見てヒソカの能力を看破しているのかもしれない。あくまで「私だったらそれくらいじゃなきゃ戦おうと思えない」というだけだが、KO数=死人の数なんていうバケモノと戦うのに、その程度の対策もないのはよっぽどの戦闘バカか身の程知らずだろう。

ヒソカは強い。遠くから一目見ただけでも、圧倒的な何かがあるのを感じる。イルミさんや他のゾルディック家の人たちとは種類の違う、こちらに迫ってくるような強さだ。これがそのあたりの適当な強さの闘士のそれだったら「覇気がある」とか「威勢がいい」で片付けたのかもしれないが、彼の纏う空気はその言葉で表現できるものを完全に凌駕していた。
だからこの人は「とにかくヤバイ」とか「嫌でも目に付く」と言われるのだ。私は理解し、そして心のどこかで諦めた。――たぶん、私はこの試合から何も得られない。



向き合う両者と軽く視線を交わした直後、レフリーが手を高く掲げ、試合開始が宣言される。
結局私にはっきりと見えたのは、退屈そうな顔をしたヒソカと、頭にトランプの刺さった死体だけだった。






?」
「ひょっ!?」

予想外の角度からの知った声と気配無く肩を掴まれたのに驚いて変な声を上げると、イルミさんは呆れたように口を噤んで、肩をちょっと竦めた。

「油断しすぎ。カル呼んで来ようか?」
「人のトラウマを平然とほじくり返さないでください・・・」

照れ隠しの作り笑いが露骨に引きつるのを感じる。カルト君の私イジメは概ね収束したと判断しているが、たぶん今でもカルト君に背後を取られたらトップスピードで逃げ出すだろう。
考えながらイルミさんを倣って人の流れを外れ、壁際に移る。

「・・・イルミさん、今の試合見てたんですか?」
こそ。アレって面白い?」
「私はもとからそこそこミーハーですし。」

事実をそのまま述べて「イルミさんはどうして?」と聞いてみたが、わざとなのか気付いていないのか、彼はあさっての方向を見て何やら思案している様子だ。気にはなるが、彼のマイペースはいつものことである。執着しても仕方ないだろう。
諦めて話題を変えようかとイルミさんの視線の先を見ると、天井から下がった小さなモニターで今見た試合のハイライトが流れていた。

「・・・君の参考にはならないね。」

彼はぽつりとそう呟くと、特に意図はなさそうな顔でこちらを見下ろした。私はへらっと笑って肯定し、ポケットに手を突っ込みながらエレベーターの方を見る。売店やトイレに向かう人も多いが、まだ人がごった返していて下りられそうにない。通路のいたるところにあるソファも、エレベーターを待つ人たちで埋め尽くされている。さっきの試合だけが目当ての人が多いのかもしれない。

「もしかして、あいつのことも“知ってた”?」

イルミさんはまたモニターを見ながら、今度はわざとらしく、何気ない風にそう訊ねてくる。私は黙って肯いて、近くの壁に寄りかかった。

「知り合いなんですか?」
「まあね。特に付き合いはないけど。」
「へぇ・・・。」
「どこまで知ってる?」

畳み掛けるように彼は訊ねて、顔を見なくてもわかるほどじっとりと私を見下ろした。適当な相槌で話を終わらせようとした意図はばれているのだろう。視線を合わせないまま小さく溜息だけ吐いて、ポケットから手を出す。

「どこまでだとしても、私は口を開くべきじゃないと思うんです。」
「なぜ?」
「私に都合が悪いから。」

どう言ってもふてぶてしいことはわかっていたので、なるだけしれっと言おうと向かいの壁際の観葉植物にじっと視線を送る。イルミさんはしばらく間を置いてから、思ったよりどうでもよさそうに「そう」と呟くような相槌を打った。

「ま、言う気がないならいいや。」

尋問するほどのことじゃないし。と辛うじて聞き取れる呟きを最後に、彼は無言になった。私はひとまずほっと胸を撫で下ろし、いつの間にか浮かしていた背中を再び壁に預ける。

こんなにきつく質問をしてくるということは、彼はやはりヒソカが気になってここに来ているのだろうか。ただ、そうだとしても二人の関係はひどく微妙らしい。少なくとも友好的とは呼べないだろう。一悶着あって終息していないのか、これから何かあるのか、それは私の知らないお話だが、何があるにせよ来年には同盟を結ぶ程度の仲になっているのだ。たとえ私の都合が良くても何も言う必要はない。
都合というのはもちろん、ハンター試験のことである。私が流した情報で展開が大幅に変わってしまうことがあれば、私が今必死で練っている試験攻略法は全くの無駄になってしまう。ならば、たとえイルミさんの脅迫でも話すわけにはいかない。

「じゃあ、私行きますね。」

軽く頭を下げて数歩離れると、イルミさんはきょとんとこちらを見た。「階段使います」と付け足せば納得した様子で頷き、組んでいた腕を解いてこちらにやって来る。私は結局エレベーターに頼ることになるので単なる時間潰しのようなものだが、彼なら階段だけでも地上まで辿り着けるのだろう。

「競走する?」
「とんだ出来レースですね・・・」

何を言ってるんだこの人は、という顔を向けつつ、モニターの中で私の“知っている”通りの不敵な笑みを浮かべるヒソカの横顔を一瞥する。

はっきりと得られるものは何もなかったとはいえ、収穫が全く無いわけではなかった。少なくとも、頂点にイルミさんしかいない従来の「強さ」の指標は改善されたはずだ。
私の能力の性質上、ある能力だけに特化することは通常の場合よりも遥かに鋭い諸刃の剣となりかねない。となれば、ポテンシャルの偏りは当然好ましくない。つまり、いくら強かろうと、ある種極端な人間であるイルミさんだけを至上と見ていてはいけないのだ。
ヒソカの試合を見ることができたのは、そういう意味では十分すぎるほどの幸運だった。まあ、かといって十うん万ドブに捨てるかもしれない賭けを今後も続けるかと言えば、それは無いのだが。

「(次見るのは試験かなぁー)」

見るだけならさほど難しくない。しかしそこから少しでも収穫を得ようとするなら、やはり努力が必要になる。
やや明かりの足りない階段を見下ろし、細く長く息を吐く。先に下り始めたイルミさんの頭が見えなくなってから、私はゆっくりと足を踏み出した。
written by ゆーこ