一人でいる間も変わらず努力を続けたつもりだったが、結局現状維持以上のことはできなかった。
イルミさんが戻ってくるまで一ヶ月半あって、序盤で念能力のコピーは成功したけれど、それだけ。むしろあの後は調子が悪くて、凡ミスでポイントを持って行かれる試合が続いた。それが四月半ばになってイルミさんが戻ってきてから露骨に持ち直したのである。悔しいけれど、どう考えても不調の原因は心細さだ。

よくないな、と私は溜息を吐いた。気の向くままに歩んでいた足を止め、建物の影に歪に切り取られた快晴の空を見上げる。五月晴れ、と呟きかけたけれど、五月は五月でもああいう爽やかな感じではない。じゃあどういう感じかと聞かれてもうまく形容できないのだが、日本の空と違うのは確かだった。――またホームシックみたいだ。頭をがしがし掻いて、それでも大袈裟な息は吐かずに前を向く。

寂しがって家が恋しくなるのはまだいい。それはかえって帰りたい気持ちに拍車を掛けて、バネになる。でも、そこでこの世界の何かを恋しがってはいけない。

イルミさんとうちの兄貴が似ているような気がするのは仕方ない。けれど私が恋しがるべきは兄貴だし、今寂しいからって安易に近くに居る人を頼ろうとしてはいけない。そんなことじゃ途中で目的を見失って何もかも無駄になる。私の一番嫌いな結末だ。

何のためにゾルディック家の世話になっているのか。提案したのがゼノさんだったとしても選んだのは私で、先に貸しがあることはわかっていたけれど、それでも余計な迷惑にはなりたくない。さっさと力を付けて、せめて一人でも勝手に強くなれるくらいにならないといけないのに、寂しくて力が入らないなんて馬鹿の極みである。


鼻息を荒くして路地を進み、怪しげな看板の増えてきた低いビル群をぐるぐる見回す。建物が密集していて闘技場が見えないから、いまいち方角が掴めない。もと来た道を振り返ってみても、適当に右左折を繰り返したせいでどっちがもと来た道かわからなかった。

「・・・・・・・あれ?」

どうやら適当に歩き回り過ぎたらしい。携帯を開いて時間を見れば、試合が終わって闘技場を出てから一時間が過ぎようとしていた。と言っても普段から近所を探索しながら帰っているのでタイムとしては然程問題無い。しかし、現在地点によっては午後の予定が大幅に狂う可能性がある。イルミさんいるのに。

「・・・。」

私は静かに唾を飲み下し、今度こそ慎重に道を選ぶ。――大丈夫、地図は頭に入っている。大通りに出られれば闘技場までは戻れるはずだ。それか最悪どこかのお店で道を聞くとか、そうだ、まだ手はある。諦めたらそこで試合終了だ。

勢い込んで丁字路に踏み込み、左右を確認する。左では怖い顔のお兄さんたちが何やらこそこそと会話をし、右にはあからさまに18禁のお店が立ち並んでいる。私は三秒かけて考え、無言で引き返した。



もと来た道を戻る途中で何度か人に尋ねようとはしたものの、今まで気にならなかったのが不思議なくらい、どこもかしこもヤバそうな人しかいなかった。比例して店もまともではなく、店どうしがそれを隠しあうように全ての路地が狭く入り組んでいるのだ。迷子になるのも当然だった。
中でも一際暗いところがあって、そこは商店街と呼ぶよりは市場と表現した方が正しい。汚れた黄色やオレンジ色をした分厚いビニールの日除けが空をほとんど隠していて、段ボールやスチロール箱の上に板を渡しただけのテーブルの上に得体の知れない商品が並んでいる。淀みながら流れる風は人の息のように温くて、甘ったるい匂いや焦げたような臭いが時折鼻についた。薄暗い店先に座っている人達は、たじろいで変な動きをする私に一瞥もくれず、ただ黙って手元を眺めていたり、雑誌をめくったり、ラジオのチューニングをしている。

――それにしても変なところに迷い込んでしまった。
反省半分、新たな発見の喜びと好奇心半分で溜息のような鼻息のような息を吐き、立ち止まって考える。

本来ならあと20分以内に家にいないと準備をして出かけられず、準備を抜いてもあと50分で公園に着いていなければならない時間だったが、一昨日の試合で左手首を少し捻っているので、いくらかメニューが短縮されている。連絡を入れれば開始時間の変更くらいは許されるだろう。たぶん。

数秒迷って携帯を見下ろし、イルミさんの他はミルキとゾルディック家執事邸の番号と闘技場の総合案内しか登録されていないアドレス帳を開く。とことん殺風景かつ殺伐としたラインナップに毎度のことながら息を吐きつつ、一番上のイルミさんの番号にかける。留守番電話サービスのアナウンスが聞こえそうなくらい長いコールのあとで、『もしもし』と声がした。

「あ、すみません。すぐに戻れそうにないので、時間ずらして頂いてもいいですか?」
『うん、いいよ。何時に居ればいい?』
「えーっと・・・」

携帯から耳を離して、時間を確認する。――だいたい正午。最初の予定は午後1時丁度だった。

「・・・2時、で。」
『わかった。』
「すみません。よろしくお願いします。」

淡白な相槌に思わず頭を下げながら通話を切り、大きく安堵の息を漏らす。
これで一時間半は保険ができた。あとはなるべく普通そうな人や店を探して道を聞くか、最悪でも無理矢理高いところに登って闘技場を探せばいい。

怪しげな市場から離れ、しばらく周辺を見たあとで、一本手前の道に入る。そこもそこで雰囲気は薄暗かったが、まだシャッター街のそれに近かった。何をしているのかわからない不穏な看板に混じって、やっているのかわからない古本屋やレコード店がある。このあたりでは一番まともそうな通りだ。とりあえずまともな部分だけ見て、声を掛けられそうな店が無いか探すことにしよう。


時間にして2分ほど歩くと、行き止まりにぶつかった。やはり認識はシャッター街で間違いないのか、微かな気配こそすれ、人の声が聞こえてくることはない。建付けの悪いドアがガタガタいう音や釣り看板が揺れる音が聞こえてくるだけだ。
これはいよいよどこかの屋根によじ登らなければならなくなったか、と唸りながら腕組みしたところで、ふと一件の店に目が留まる。

袋小路の手前に、一つだけ奥まった店舗があった。木造で窓のない、入口の小さい店だ。汚れて曇ったガラス戸と、日焼けで割れたり文字が消えてしまっている看板ばかりが並ぶ中で、そこだけは唯一生きているように感じた。それでも看板はボロボロで、乾き切ったペンキで「GREIF」と書かれているのが辛うじて読みとれたが、何屋かは消えてしまって分からない。
なんとなく気になって、どこかから中が見えないかとうろうろしていると、不意にドアが開いた。ものすごい勢いで。

額にボロボロの木戸がガンッと音を立ててぶつかった、のがわかった瞬間犯人を睨んだのだが、「おお、すまんな。」と鷹揚に謝罪されてつい「あ、いえ。」と相槌を打ってしまって光りの速さで後悔する。――そうだ忘れてた、あんまり空気が不穏だからゾルディック家の廊下を歩くつもりでほとんど絶にしてしまっていたんだった。気付かれなくても無理はないし、これまで変な人に話しかけられなかったのもそういう理由だったのだろう。私自身はぼーっとしてたんだから、話しかけられなければ周りの人が気にならないのも当然である。そして防御力皆無のおでこが激痛なのも、至極当然なことであった。

私に謝った体格の良い青年は何やら重そうな袋を抱え、ドアの中に手を振って「また頼むよ」と言うと爽やかに去って行った。私はモロに食らった額の痛みと格闘しつつそれを見送る。

「(・・・ってバカか私見送るんじゃなくて道聞けよどう見ても闘技場系男子だったろ今の!)」

そう思った時には時既に遅く、青年の姿は消えていた。あーあ、とがっくり肩を落とし、開きっぱなしのドアを横目に見る。――中は明るい。それに人が出てきたんだから、やっぱりこの店は生きているのだ。

私は体を真っ直ぐにして、そっと店の中を覗いた。透明なケースが壁際に沿って置かれ、右側のケースがカウンター代わりになっている。外壁と同じ木製の壁には、大きな斧や凝った装飾の剣や古い銃が丁寧に飾られていた。

「・・・武器屋さんですか?」

ケースの中の拳銃や刀剣に目を落としながら、私はぼんやりと尋ねる。カウンターの奥の暗いところにはゼノさんより少し若いくらいの気難しそうなお爺さんが座っていて、こちらをじっと眺めている。彼が店主だろう。

「・・・・なんだ、興味あんのか?ガキのくせに」

なんだこのジジイ、と形だけ拳を握って、追い出されはしなかったと彼の台詞を最大限好意的に解釈して中に入り、扉を閉める。踏み付けた床が小動物の鳴き声のような音を立てて軋む。天窓からの日差しのせいか、床板は日焼けしてボロボロになっていた。

私は少しどきどきしながら店内を見回し、まず最初に左奥のケースに目をつける。店主はしばらく腕組みしてこちらを眺めていたが、私が大人しくケースの中に並ぶナイフを見ているうちにふっと視線を逸らして奥へ消えて行った。まさか悪戯するほどガキには見られていないだろうが、何となく心配な反応だ。入ることに文句は言わなかったから見ている分にはいいのだろうが。

「そこのケースのは大したもんじゃない。」
「え?」

奥へ行ったと思っていた店主が右手からぬっと顔を出し、ぶっきらぼうにそう言う。予想外の方向から声がしたので驚いたが、ケースとケースの間にある通用口から出てきたらしい。私は店主の視線を辿って目の前のケースに目を落とし、じっと観察してから首を傾げる。確かに私にはナイフの価値はわからないが、武器としての性能は申し分無いように思われる。ぬらぬら光る切っ先は、全て薄紙のように鋭い。

「砥いだのは俺だから切れ味はいいだろうよ。だが、持ちが悪い。モノが弱いのさ。」
「あ、なるほど。」

私が小さく手を打って頷くと、彼は右端のナイフから順に説明を付け加える。

「こいつらはよくあるサバイバルナイフ。右がステンレス製、左はセラミック。ステンレスは圧倒的に錆びにくいが素人が砥ぐのは難しい。セラミックは脆いが軽い。あとは炭素鋼製だが、ここに入れてある奴らはあまりバランスが良くない。値段相応だな。・・・お前の目の前のはダガー系のナイフだ。投げるのと刺すのに向いてる。」

顎で指された先を見れば、左右対称に作られたナイフが数本横たわっている。私が以前選んだナイフもこの種類だ。今彼が言ったような利点を活かすことはできていなかったが。

「お前の得物、ナイフか。」
「えっ」

不意に言い当てられて、私はぎょっとした。店主は偏屈そうな顔にほんの少し悪戯っぽい笑みを浮かべて「当たりだな」と呟く。

「お前、目につきにくいナイフを真っ先に見に来ただろ。入ってすぐのとこに派手な刀剣も銃も置いてあるのにな。」
「・・・」

確かに、何も考えずに入店していたらそのあたりを見ていたかもしれない。もともと好きなのはそういう武器だ。
何も言えずに黙っていると、店主は少し姿勢を変えて尋ねた。

「探し物か?」
「いえ・・・今は必要ないです。」
「そうか。」

それだけ言うと、店主は通用口をくぐってカウンターの後ろへ戻って行った。相変わらず眉は不満そうに顰められ、口は真一文字に堅く閉じられていたが、怒っているわけではないらしいので気にせずケースを見て回る。と言っても、実際使ったことのある武器はナイフだけだから、他は見ても少しわくわくする程度だった。店主の口ぶりからして、「大したもの」は別にあるのだろう。試しに凝で見てみても特に変わったところはない。

店内を一周したところで、私ははっとして携帯を開く。――時間はあまり経っていないが、ゆっくり楽しんでいる場合ではない。早いところ道を聞いて家に帰って昼ごはん食べよう。もう大分お腹も空いて来ている。

「・・・あの、すみません。ここから闘技場に行くにはどうしたらいいですか?」
「闘技場?前の道真っ直ぐ進めばすぐ見えるだろうが。」
「えっ!?」
「なんだ、迷子か。」

返す言葉も無い。うぐぐ畜生、と唸りたいのを抑えて深々と頭を下げ、「お邪魔しました。」と挨拶をしておくと、店主は鼻で笑いながらも「ああ」と頷いてくれた。

「必要になったらまた来い。」
「はあ・・・」

なるだろうか。なるかもしれないが。いや、ハンター試験に丸腰で挑むのは怖いから必要かもしれない。武器持つのも割と怖いけど、どうだろう。持つのかな。
ぐるぐる考えながらドアを開けると、風に揺れる看板が不意に目に入った。

「あー・・・外の看板、文字読めなくなっちゃってるのは、このままでいいんですか?」
「俺の名前が読めりゃそれでいい。」
「・・・別の意味で読めない場合は?」
「チッ、クソガキが」
「(なんだこのクソジジイ)」

拳を握るポーズをしつつじと目で店主を見ると、彼はやれやれという顔でこちらを見て、面倒くさそうに吐き捨てた。

「グライフだ。」
「グライフさんですね。私はです。」

買物をするかどうかはさておき、場所を忘れなければまた覗きに来るだろう。名乗って、愛想笑いでない笑顔を浮かべると、グライフさんはさっさと出てけと言わんばかりに舌打ちをした。
written by ゆーこ