遠くにざわめきがあるだけの静かなリングに上がって、私は軽く伸びをする。見渡してみても観客はいつもの六、七割程度、半分は空席だ。
元々このクラスの試合は運営側に“用意”されない限り満席になることがないのだから、開場直後一発目の試合なら当然こんなものだろう。ギャラリーを一周り見てから、ふっと視線を正面に戻す。

目の前には、これまで戦った中で一番歳の近そうな青年が立っている。多分同い年か一つ上くらいだろう。不躾だと思いながらもちらちらと手先や立ち方を観察して、軽く首を捻る。
武の道の人であることはわかる。しかし淡い肌色と柔らかそうな癖っ毛、柔和に整った顔立ち。ハイソな住宅地でゴールデンレトリバーでも散歩させている方が遥かに似合う容姿である。
場違い極まりない。と私が言ってもしっくり来ないのが現実だが、まさにその一言に尽きる。

―――きっと見た目に反してゴリラな力量だからここに来たんだろうけど、何もこんなのと当てなくても。
そういうのは見た目通りゴリラな奴と戦わせてこそ引き立つものだ。見た目通りの筋力で見た目より堅いだけの私と当ててもプラマイゼロで見た目通りの試合にしかならないじゃないか。

目を伏せながら息を吐いて、そろそろ試合が始まるだろうと姿勢を正す。顔を上げればそこにはやはり場違いなハンサム予備軍がいて、少ない女性客に愛想を振りまいていた。やれやれである。
何かやりづらいなあ、と頭を掻こうとして、私はふと視線を左右にふる。――何か引っ掛かった気がする。

「・・・?」

口元に手をやり、首を傾げて、もう一度相手をよく観察する。
私の腕でも突き飛ばせそうな細身の体に、さほど高くない身長。スケールを考えなければ、骨格は私の方がしっかりしていそうだとさえ思える。かといって隙があるわけではない。立ち方にはきちんとした武道の気迫があり、その点で言ったら私の方が明らかに、遥かに後れをとっている。
――というか、それ以前に。

「(・・・纏だ。)」

彼の体から、流れ出るオーラは無かった。
隠しているわけではなさそうなのに、気付かなかったのは単純に私のレベルの低さが原因だろう。それでも一度それと気付いてしまえば、なだらかな線でまとまった控え目な空気が、水面下で刺々しく私を意識しているのがわかる。

私が急に眉を顰めたのを見てか、青年はふっとこちらを見て、驚嘆のような、嘲笑のような、微妙な表情を作って片手を腰に当てた。へえ、使えるんだ。とでも言いたそうだ。私は反射的に愛想笑いを浮かべながらも、注意深く相手を見る。

――まさか、こんなに早く当たるなんて。

ざわざわとさざめく何かを押さえ込むように、頬の内側をぎっと噛んで、静かに身構える。視界の隅でレフリーが目配せをしていたが、視線は相手から外せなかった。相手の方も私をじっと見つめて、薄く笑っている。

「君、使えるんだね。」

彼は急に嫌な笑みを捨て、いかにも好青年という風な笑顔で語りかけてきた。
――そういえば名前は何と言うんだったか。最初のコールはたいして聞いていないので、いつも見た目の特徴で適当にあだ名をつけてやり過ごしていたが、彼は特徴と言うほどの特徴の無い無難なハンサム予備軍である。かといってハンサム予備軍と呼ぶのは何か癪だ。

「・・・そうだよ、一応。」
「ふふ、緊張してる?俺もだよ。まさか女の子と当たるとは思ってなかった。」
「私も、あなたみたいなタイプの人が出てくるとは思ってなかった。」
「俺みたいな?ああ、筋肉バカばっかだよね、ココ。」

嫌になるよね、と彼は言って、同意を求めるような視線を私の方へ投げる。私は別にそこまで思わない、という意味で目を逸らし、レフリーに頷いた。


レフリーが客席の方へ片手を上げて合図をすると、背後からハウリングがして、実況役のお姉さんの声がしはじめる。
私はにわかにざわめきの起こるギャラリーから意識を切り離し、深呼吸を繰り返して、まだ構える気はなさそうな相手をじっと見つめる。
――たぶん負ける。でも、転んだからと言ってただで起きる気は、もうないのだ。


『それでは、3分3ラウンド、P&KO制〜ッ!』
「始めッ!!」







「一つ、忠告。」

公園の手洗い場で顔を洗っていると、頭の上で急にイルミさんの声がした。言っていることは怖そうだが、声色はいつも通り、平坦で抑揚がない。私は流れで「はい」とやや語尾を上げて相槌を打ち、タオルで顔を拭きながら目を合わせた。

「知ってるかもしれないけど、闘技場の200階クラスは念能力者の領域だ。」

知っている。と話したような気もしたが、それはミルキに言ったんだったか。頷いて、それで?という顔をしてみると、彼は私の表情とは関係なさそうに淡々と続けた。

「そこで4敗したら嫌でも失格になるから、もう一度登ってくるには一階から再挑戦しなきゃいけない。まさか元200階クラス闘士が50階や60階スタートになることはないだろうけど、可能性としてないわけじゃない。」

イルミさんが手洗い台の縁に寄り掛かる。視線が私の方からふっと離れて行って、ちょうど点き始めた街灯のあたりで止まった。特に何かを探しているというわけではないだろう。彼には特に理由なくどこかを見ていることが間々ある。

「あるいは、もともと200階目当てに挑戦してる能力者、とかね。」

確かに、その通りだ。あれだけいれば、200階に登るまでもなく念使いが混じっていることもあるだろう。どこかのヒソカさんが遊びに来るくらいなのだし、単なる腕自慢だけでなく、念の修行を積んだ人達を惹き付けるに足る魅力が天空闘技場にはある。と、思われる。私はただの初心者なのでそこはよくわからない。

「まあ、相手が念能力者だろうが君が硬いのは変わらないし、とりあえず戦ってみていい。」
「えっ!?」

と、思いっきり素っ頓狂な声を上げるとイルミさんはきょとんとした顔をする。私はなんとなく恥ずかしくなって、それでも「何を言っているんだあんたは」と目で訴えた。ふつうそこは「戦うな」だろう、前ギリギリセーフだったのは私が刃物を持っていたからであって、案外戦えたとかそういうわけでは全くないのだ。
そもそも私は体が動かない。反射神経も動体視力もあくまで一般人の範疇だ。それを操作で無理矢理動かすと言ったって、状況を判断するのは一般人のこの脳である。中々臨機応変には対応できないから、まずはパターンを何十何百何千と叩き込まなくてはならない。だから毎日試合をして、さらにイルミさんと日に何十本も組手をするのである。

その私がなぜあえて念能力者と戦う必要があろう。絶対負けるし瞬殺だし、悪くすれば本当に一瞬で殺されるのに。
しばらくうーうー唸っていると、イルミさんはようやく私の困惑の意味を理解してくれたのか、「ああ」と手を打った。

「組手してみてわかったけど、君の防御の堅さは本物だよ。ちょっと加減間違えても傷ひとつ増えるかどうかってくらいだし。」
「それはそうですけど・・・」
「並の能力者の念なら十分防御できる。ただし、戦い方には気を付けること。死にかねないってことを忘れないようにね。」

無論である。こくこく頷いて、他にアドバイスはないのかと待ち構える。イルミさんは私を見てから考え始めたように間を取って、一つだけ付け足した。





――『発の使用条件はなるべく誤魔化せ。』

私は短く息を吐いて両手を後ろへ回す。もちろん単なるフェイクだが、能力者だとわかっているからか、相手――ハンスは思惑通り警戒の眼差しをこちらに向けた。私はふっと笑って両手を体の横で開いて見せ、それとは関係なく本体からミミックの電源を入れる。

この能力は、発動すると同時に顕在オーラの30〜40%が肉体操作に回される。オーラは圧縮された状態で体内に細かく張り巡らされるため、堅ほどではないにせよ、電源を入れている間は常に防御力が何割か底上げされた状態になる。これが例の水曜日の件で私が死ななかった主な理由だ。

「(どうやって戦えばいいかなー)」

今設定されているチャンネルは1。中身は<間合いを詰める>。
基本的には目標との距離を縮めるだけの技能だが、必要に応じて隙をついたり死角に回り込む、死角へ消える動作を加えることができる。先制攻撃のためのチャンネルだ。

しかし、普通に間合いを詰めてしまうと、相手がカウンター型の能力者だった時に痛い目を見る。そもそも、これまでと違って相手が何をしてくるかわからないのだ。いきなり相手の懐に飛び込むわけにはいかない。死角に移動しようにも、私の動体視力では一瞬以上の隙がなければできない。まずは一撃入れてもらって、相手に余裕を感じさせた方が隙を探しやすいのだが、やはり何をしてくるかわからない恐怖がある。

私が攻撃を仕掛けないのを見て、ハンスはにやりと笑った。怖がっているのはバレバレだろう。実際怖いし、顔に出る性質も治せていない。

「そんなに怯えなくても。俺、女の子相手に痛くできないよ。」

実況席から「ここでまさかのフェミニスト宣言ーッ!」というほぼ黄色い声が聞こえてくる。私は苦笑して、いやぁとかうへぇとか適当な間投詞でお茶を濁す。やっぱりやり辛い。

「べつに気にしなくっていいのに。」
「“鋼鉄の乙女”だっけ?あれって纏だろ?」
「そうだよ。」

頷くとハンスはまた嫌な笑い方をする。そろそろ下顎横から思いっきりぶん殴ってやりたい気持ちになってきたが、まだ距離を取って様子を窺っておく。しかし彼も先攻する気はないのか、ゆったりと構えたままだ。このままだと時間切れ引き分けの賭け的にも見た目にも全く面白くない試合になってしまう。するとハンスが左手を胸の前へ持ち上げ、軽く手招きをした。

「かかっておいでよ。手加減するからさ。」

それもそれでムカつく。しかし大人しく誘いに乗って、一気に間合いを詰めて左に入り、肩甲骨の下辺りへ肘鉄を捩じ込む。アタリの手ごたえはあったが、今日は相手も纏だ。追撃を寸止めしてすぐに屈み、身構えた足元を払う。結果は失敗、余裕で気付かれて蹴飛ばされた。ガードしきれなかった脇腹がじわじわと痛い。

「割と動き良いね。」
「ありがと」

短く答えながら体勢を立て直し、ポイントも聞かずに鳩尾を狙う。のを、寸前で切り替えて下顎に向かわせたが、軽々と避けられてしまった。しかしカウンターは無い。本当に手加減しているのだろう。
私がまた距離を取ったのを見て、次はハンスが仕掛けてくる。ゆっくりとした踏み込みから、中段を狙った横蹴り。一気に間合いを詰めて右、左の正拳突き。脚を踏み替えて死角に入り裏拳。全て私が見て、受けられる速度だ。レフリーも手を挙げない。

私は奥歯を噛んで、大きく距離を取る。――手加減に甘んじるのは危険だ。こいつの笑い方も似非紳士ぶりも、油断させておいてあとで見えないところから強攻撃を捩じ込んで来るつもりとしか思えない。太刀筋を読めるかどうかはさておき、人を見る能力はあるつもりだ。たぶん間違ってはいない。

ハンスは退いた私を微笑んで見つめている。私は一つ深く息を吐き、目を見開いて、相手の瞬きを数えた。そして五回目を数える瞬間に、体の力を抜く。ちょうど手綱を緩めるように。

次に意識した時には、もうハンスの鼻っ面に右拳が当たっていた。振り抜いた腕からオーラが抜けて行く。纏で補強し直して再度操作用のオーラを回し、バックステップで大きく仰け反ったハンスから距離を取り直した。レフリーがクリティカルを宣言し、私に2ポイントが加算される。ガラ空きの客席から歓声が沸いた。

『おっとぉ――!?選手、まさかの真っ向勝負!しかもクリティカル!そんな力があったのか―――!!』
「ホンッ・・・トだよ。」

整った顔の通った鼻筋に一本、赤い線が走っている。ハンスは顔を押さえながら、笑みの消えた目でこちらを睨んだ。私は身構え、それでも口角を吊り上げる。――やっぱり借りてきた猫だった。

「ド素人が調子に乗りやがって・・・」

舌打ち交じりの台詞とともに、纏が錬に変わる。私は笑みを深めて、側頭部を狙った回し蹴りを凝をした腕で受けた。重い蹴りだが、無論イルミさんに蹴られた方がずっと痛い。受け切って半ば無理矢理に足首を掴み、思い切り押し上げ、バランスを崩したところで軸足を払う。ハンスは受け身を取った左腕だけで跳ね上がり反撃を加えようとしたが、右手が右頬を掠っただけだ。大きな舌打ちが聞こえる。見れば表情は然程変わっていないのに、顔色が明らかに赤かった。やはり顔は逆鱗だったのだろう。自覚のあるハンサムならば当然と言える結果である。
怒らせれば大抵は攻撃が単調になる。念能力者であれば、恐らくは発を使ってくる。あとは危険をどれだけ早く察知できるかだ。流石に必殺技を使われたら痛いでは済まない。
せめて操作系か具現化系だと嬉しいんだけど、と小さく呟いて、何か仕掛けるつもりなのか、大きく距離を取ったハンスをじっと見る。凝でオーラの動きを確認してみたが、やや雑になった纏が見えるだけだ。凝でオーラが見えないほどレベルが違うとは考え難いから、まずは近寄らなければ大丈夫だろう。

じり、と半歩後退りした足元に、ハンスの爪先が鋭く刺さる。私はそのまま前に転んで、受け身を取り損ねた肘の痛みに気取られている間にその両腕を蹴飛ばされ、それでも意地で立ち上がったところをもう一度足払いで崩される。しかし今度は辛うじて受け身を取って、前へ逃げた。ハンスはしてやったりという風に笑っている。けれど、なぜかそこには大きな隙が見えた。

「・・・・?」

眉を潜め、何をされたかもう一度考える。――右足を蹴られて、両腕を蹴られて、最後に蹴られたのは左足。最初と最後はともかく、わざわざ既にダメージを受けている腕を蹴った理由は?
目を落とす両手に痛み以外の異常は無い。しかしハンスは余裕の笑みを浮かべている。ゆっくりとこちらに近づいて来て、何か言った。実況と野次で聞き取れない。

「なんかよくわかんないけど、次行っていいんだよね?」

相手に聞こえるような声で言って、両腕を前に構える。不意にハンスの笑みが歪んだ。私ははっとする。

「・・・あーわかった、操作系だ。」

言った瞬間、ハンスの拳が左頬の横に見えた。もう当たった後だ。焦りながらも顎じゃないならと安堵する。後ろに跳んでから力を抜き、イルミさんに仕込まれた通りの攻撃を死角から叩き込む。ハンスが目に見えてたじろいだ。

「チッ、自己操作かよ・・・せこい手使ってんな。」
「どっこいどっこいじゃないの?」

むしろ相手操作する方がずるいよ、と言いながら回し蹴りを入れる。軽く受け止められ、相手からも軽い反撃が来た。ただの上段に向けた突き。私も受けて距離を取る。

「ていうか私の能力、自己操作(だけ)じゃないし」
「はぁ?」
「何だかわかる?」

ズボンのポケットに両手を突っ込んでにやりと笑う。ハンスはやや困った顔をして、それでも一応一巡り考えるような間を置いてから、「操作以外あり得ない。」と冷静に断言する。様子を見るに、どうやら怒りは大方治まったようだ。まだ鼻血出てるけど。

「そうだね、今はそうだよ。」
「今は・・・?」

ポケットに手を突っ込んだまま、私は二、三歩彼へ近寄った。躊躇いのない行動に裏を感じたのだろう、ハンスは後ろへ下がって行く。実際は裏も表もない単なる三文芝居なのだが。
私は半笑いのままポケットの中でリモコンを操作し、チャンネルを何も保存されていない三番へ切り替えた。音声案内が頭の中でじりじりと低く反響する。

『――空白のチャンネルです。新規作成しますか?――』
「(ハイ。)」
『――チャンネルを作成します。対象マザーを決定してください。――』

そのアナウンスと同時に視界に半透明のターゲット模様が映し出され、中央に居るハンスが赤く点滅して表示される。私はそのままOK、と呟き、強く瞬きをした。今度はターゲットが消える代わりに、ハンスの右肩の上に分数が表示される。74/100、中々いい数字だ。

「(この分なら試合中にいけそうかな)」

ただ、勝ちは完全に放棄することになるが。まあいいだろう。

私はポケットから手を出すと、思い切り踏み込んでハンスの鳩尾に肘鉄を叩きつける。これで4-4。息を吐いてすぐに距離を取り、出方を見る。ハンスは冷静な顔をしていたが、手加減をしなくても問題無いことがわかったからか、初めのように余裕を見せることはなかった。すぐに掌底が下顎を真正面から捉え、私はそのまま素直に吹っ飛んでいく。咄嗟に凝をしてもやはり視界がひどくぶれる。それでもすぐに立ち上がって、全身を強く統制した。しかしクリティカルで2ポイント、また点差が開いた。

「鋼鉄、ね・・・確かに単なる自己操作じゃ説明つかないな。」
「だからってネタばらすつもりもないけどね。」

話しながら、ハンスの右肩に乗る数字を数える。――もう80を超えた。そろそろ頃間だ。

「ねーねー、一個取引しない?」
「取引・・・?」

怪訝そうにしながらも蹴りを正確に鳩尾へ叩き込んでくるハンスに笑いかけ、取られたポイントを聞き流して申し訳程度の反撃をする。リーチの足りない蹴りはハンスの胸の前を通過して風を起こしただけだ。

「私の能力、≪ch.mimicチャンネル・ミミック≫っていうんだ。あなたの能力の名前も、冥土の土産におしえてよ。」
「・・・・・」

ハンスは黙り込んだ。私はへらっと笑って、ずきずきする顎と切れた口の端と両腕といろいろなところを少しずつ意識していく。――戦おうと思っているうちはわからないけれど、気を緩めれば途端に痛みが増してくる。

身構えた腕が軋むような音がして、静かにぎくりと身を固める。その瞬間を、ハンスは見逃してくれなかった。

「≪惨事の人形劇パペット・マスター≫。君には効かなかったけどね。」

左側頭部を殴打する音、転んで地面に頭をぶつける音、クリティカルの宣言、起き上がろうとした瞬間に鳩尾を蹴られる音、全部がほとんどいっぺんに来て、私は思わず笑ってしまった。

体を動かしてハンスを見上げれば、右肩の数字はなくなっている。私はもう一度強く瞬きをして、耳を済ませた。

『チャンネル3≪惨事の人形劇パペット・マスター≫作成完了しました』
『出力限界精度 は 100/100 です。』


「10-5!TKOにより勝者、ハンス!!」







written by ゆーこ