イルミさんは昨日の夜に次の仕事へと出かけてしまった。なんでも、一つ一つが長引くような依頼がいくつか連続しているとかで、少なくとも向こう一カ月はこちらに来られなくなるらしい。例によって仕事の内容については質問しなかったが、彼がやらなければならないということは変装が必要になるのだろう。
一人慣れしているしなんとかなるさと軽く了解の返事をしたらイルミさんには微妙そうな顔をされてしまったが、急な依頼だったんで準備しに帰らなきゃいけないんだよな、とぼそぼそ言うと、何かあったら彼ではなく家に連絡するようにと念を押してさっさと行ってしまった。一分後にようやく意味を理解して一人で愕然としていたことは私だけの秘密である。ゴトーさん怖い。
しばらく歩いて立ち止まり、ふと空を見上げる。
闘技場の根元には決して治安のよくないところがあるせいか、新しい住宅は少し離れたところに集中している。銀行はどこにでもあると思っていたが、探してみると住宅地側にしか支店の無い銀行の方が明らかに多かった。ミルキが色々偽って作ってくれた口座のある銀行も、住宅地側にしか支店がない。
ようするにこのあたりは完全に一般人の世界で、腕自慢がどうこう筋肉がどうこうという話は「あーそんなこともあるみたいだねー」という程度にしか入ってこない。天空闘技場は格闘にも賭けごとにも興味の無い人達にとっては、何の関係も無い、ただでかいだけの施設なのだ。
小雨に霞む天空闘技場をじっと睨んで、やっぱり変な形だなあと小さく唸る。日本人としては耐震が気になるし、別にあそこまで縦に伸ばさなくってもよかったんじゃないかと冷ややかな意見を述べてみたくもなるのだが、もう少し近付くと圧倒されて黙ってしまう。高さだけならゾルディック家の方がずっと上にあると頭で分かっていても、平地に突如聳える天を突かんばかりに高い塔、の方がやはり視覚的インパクトは強い。
止めていた足を動かし、闘技場の方へと進んでいく。私の家は住宅地の闘技場側の外れにある大きな公園の、さらに闘技場側にあるのだ。
考えてみれば、思いっきり闘技場側で路地が入り組んでいて静かで、広い公園なんていう絶好の逃げ場がすぐ傍にあるんだから、犯罪の温床になっても仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。それにしてはうちのアパートばかりが狙われるようだが、その辺は風水的なアレとかソレとかが関係してたりしなかったりするのだろう。
一昨日階段下でうろうろしていたロングコートのおっさんがナニをナニする前にしばき倒したことを思い出しながら、それでもまだ引っ越すには値しないなと頷く。ちょっと部屋を空けた隙に悪質なトラップが幾重にも仕掛けられていたりしたら流石に出ていくが、今のところそのような兆候はない。
「(もうちょっとだけなら危ない奴出てきてもいいんだけどなー)」
こちらから喧嘩を吹っ掛けるのは嫌いだが、売られた喧嘩を買うことに抵抗はない。先日の一件のように迷惑行為を働く輩を物理的に叩くのも、まあ嫌いではない。普段ムキムキマッチョ相手に悪戦苦闘しているので、攻撃が楽に入るのが面白かったりもする。という感想は正義の味方的にはマズイのかもしれない。だがしかし実際のところ全然正義に味方していないのでセーフだろう。具体的に何がどうセーフなのかは説明しかねる。
ぶつぶつ言いながら傘を指先で回して歩いていると、ふと視界の隅をグレーの影が横切って行った。傘を差していなかったように思ってなんとなく振り返ると、パーカーのフードを被った若い男が走っている。足は速くない。私とどっこいかな、とつい比べてみながらぼうっと眺めていると、男の手が不意に横に伸びる。誰かを押しのけたようだ。私ははっとして踵を返す。
地面に尻餅をついて悲鳴を上げたのは初老の女性で、グレーのパーカーの男は今まで持っていなかったハンドバッグを小脇に抱えて、ちらりとこちらを振り向いた。私を見て驚いたような顔をしたが、すぐに前を向いて走り出す。今度は少し速い。
「泥棒ー!!泥棒よ!!誰かぁ!!」
女性がけたたましいほどの大声で叫ぶ。私は割と長い間ぽかんとしていたが、その声ではっとして傘を足元に投げた。そしてそのまま懐に手を突っ込み、リモコンのボタンを手探りで押す。
『―― チャンネル “2” ――』
「待て、コラァ!!」
音声に重ねるように叫ぶと、男はにわかに速度を上げる。逆効果か、と焦ったのに私はつい笑んで、軽く探ったポケットの中身を一息に投げた。小銭の詰まった蝦蟇口財布は真っ直ぐに空を切り、男の後頭部に当たって、そのままその先へと飛んで行った。
「ってぇ!」
男が喚く。足は止まった。私はまた懐に手を入れて、足に凝をすると一気に踏み出す。
『―― チャンネル “1” ――』
「はい、観念ね。」
「えっ」
男の目の前に躍り出て軽く両腕を広げて見せ、注意を引きつけたところで右腕を引き膝を沈めて一気に突き出す。単純な右ストレートは男の鳩尾に入り、彼は蛙のような声を漏らして濡れた地面に崩れた。まずは転がっている財布を拾ってからすぐに踵を返して屈み、男の襟首を掴んでハンドバッグを腕の下から拾い上げると、遠くでぽかんとしている女性に声を掛ける。彼女は狼狽えながらもすぐにこちらへ来て、バッグを受け取ると深々と頭を下げた。
「助かったわ、どうもありがとうございます。あなた随分強いのねぇ・・・」
「いえ、全然。」
へらっと笑いながら、空いた手で電源を落とす。――このくらい余裕がある状況なら切り替えも大した障害にはならないようだ。心に留めて、手の下でうぐうぐ言っている男のフードを思いっきり引っ張り上げる。
「じゃあお兄さん、ちょっと署までご同行願おうか?」
まあ私も警察署とかできれば行きたくない立場だけど。とは言わずに立ち上がって首根っこを引っ張る。すると息も絶え絶えに「歩けねぇよボケ」と文句を言われたので、最大限憎々しげな声で「おめーが身長縮めろよ」と舌打ちのおまけつきで返したら、男は鳩尾を押さえて黙った。どうやらいくらかトラウマを植え付けてしまったらしい。無抵抗だと思ったらそういうことか、と合点を打って、それでも喋れるくらいに回復したならとフードではなく腕を掴む。本当は捻り上げるくらいした方がいいのだろうが、生憎そこまでできるほど関節に詳しくない。そのうち勉強しよう。
さて通報しようかな、とズボンのポケットから携帯を取り出し何気なく1を押してみて、はたと指を止める。――そうだ、110番ではない。110番ではないが、110番でないことしかわからない。
「・・・・すみません奥さん、通報お願いします。」
「えっ?あ、ハイ。」
私の意図を覚ったのか鼻で笑ったグレーパーカーの肘を赴くままに捻って黙らせる。このまま調子に乗られても困るし、とヘッドロックに移行しようとしたところで「大丈夫ですかぁ」と間延びした声が聞こえて、自転車を降りたお巡りさんが走ってきた。どうやら最初の悲鳴で通報した人がいたらしい。
「ご苦労様でーす。」
「あれっ、君確か一昨日の・・・」
「変態捕獲なら私ですが・・・」
と言いながらグレーパーカーを託し、意外そうに目を丸めている彼をじっと見返す。そういえば、あのとき来てくれたのもこのお巡りさんだった。
「ええと、この人が?」
「ひったくりです。もうモノは戻ってます。」
「そちらの奥さんが被害に遭われた?ちょっとお話聞かせて頂いてもよろしいですかね。」
また面倒臭いのが始まった。ため息混じりに腕組みして、やけに静かなグレーパーカーを見ると、どうやら逃げる算段でもしていそうな顔だ。さっきまで暴れなかったのは、私がこのナリだからまだ逃げるチャンスがあると思っていた、ということなのかもしれない。かつ警察が出てきてもこの顔である。相当腕に自信があるか、何か隠し持っていると見ていいかもしれない。
男は自棄のような勢いで警官の腕を振り切り、私を突き飛ばすと明後日の方向へ走り出した。が、私はすぐに持ち直して、左足を男の進路に置く。男はきれいに引っ掛かり、それでも受け身を取って地面に転がった。やはりそこそこに動けるようだ。
起き上がりざまに背中に座ってやって、今度こそヘッドロックを仕掛ける。かなり昔の話だが、兄貴と軽く喧嘩した時最終的にこれをやられて割と死ぬかもしれないと思ったことがある。軽い喧嘩で死ぬ思いをするとは思っていなかったのでびっくりしていたら、兄貴もびっくりしていた。男友達と遊ぶノリで小学生を苛めないで頂きたいものである。
「あーちょっとお姉さん、極まってる!極まってるよ!」
「うわっ!?」
慌てて手を放すと、グレーパーカーはそのまま咳き込みながらぐったりと地面に伏した。そういえばウィキペディアか何かに「極まると激痛」とかなんとか書いてあったのを見たことがあるかもしれない。そうなることを実感として覚えていないばっかりに、多少思い切りやりすぎたようだ。
すみません、という顔でお巡りさんにへらっと笑って、意識確認のためにグレーパーカーの肩を叩くと、彼は何やら憔悴した様子で「もう帰らせてくれ・・・」と呟いた。残念ながら楽しい事情聴取はこれからである。
住所と名前とわかりきったような質問に答え、応援に駆け付けたパトカーにぐったりしたグレーパーカーを押し込んで、あいつは盗みの常習犯だとかなんとかというあまり興味の無い話を聞かされ、女の子なんだからあまりやんちゃするなよという意味のことを言われ、どっかで聞いたなあと頭を掻きながら、私はパトカーを見送った。女性は私に「小遣い程度だけど」とお礼を渡して少し前に帰路についている。うまく遠慮できなかったので変な感じに受け取ってしまったが、せっかくなので食費にでも回させて頂くことにしよう。
すっかりもとの静寂を取り戻した通りを抜けて路地に入り、小雨を集めて重く濡れた上着のポケットに片手を突っ込む。もう傘を差すほどの雨ではない。
建物の隙間から曇った空を見上げ、何気なく視線を落として、携帯を開く。まだ一旦家に帰って着替えてからでもギリギリ午前の受付に間に合う時間だ。昼を挟むと中途半端に時間が空いてしまうし、少し急ごう。
閉じた傘の柄を握り、空き箱やゴミ袋の隙間を縫って走り出す。ここから家までの距離は家から闘技場までの半分以下だ。息を切らさなかったら勝ち、と自分にルールを提示してみて、思わず口端を歪める。あんなに一般人一般人喚いていたのに、修行生活がほとんど癖になり始めている自分が、なんとなくおかしかった。
