走り込みはもうそれほど辛くない。山の上と比べたら圧倒的に酸素は多いし、足場は良いし、変な生き物が突然横から飛び出してくることもないし、道にも迷わないし、少し無理をしたくらいでは頭が痛くなったりすることもない。身体能力において順調と言える唯一の要素だ。筋トレの方はいまだに成果らしい成果がないが、誰にもわからないくらいのアハ体験ペースでムキムキになっていくんだと思うことにした。
イルミさんとする組手も怖くはない。もちろん頻繁にふっ飛ばされるし叩き付けられるけれど、セーブしてくれているので少し痣や擦り傷が増えるくらいで済む。それでも割と痛いので、なんとか半端な体勢からの受け身も取れるように努力している。

念は、とても順調だ。四大行は全て一段階上の及第点を貰い、応用技も凝と周なら特に苦労無くできるようになった。隠、円、堅もそれらしくはなる。硬がからっきしなので流には手を付けていないが、半年で応用技を二つ固めたというのは決して遅いペースではない。発の精度は右肩上がりだと思うし、修行の補助としての使い勝手も実に良い。我ながら役に立つ念を作ったものだ。悩んで正解だった。


そうして修行の成果を並べ、負けた試合を一旦思考から排除する。

いくらできるようになったって、敵わない人は絶対にいる。最強にはどう足掻いてもなれないのが器用貧乏の現実だ。
でも、極めた人よりも勝手の良いところだって確かにある。半端であるがゆえに融通が利き、謹製の理屈に縛られない。それは力としての強さにはならないかもしれないけれど、少なくとも私を弱くしたりはしない。

私はただ信じればいい。自分に与えられただけの素質を。運を。手を引いてくれる人の力を。純粋な気持ちでいさえすれば私はどうとでも変われる。目的だけ見据えて、そのために必要なものを全て取り込んでやればいい。私にはその能力があって、それしかない。

余所見をしている場合でも、ヘコんでいる場合でもないのだ。そんな時間は残されていないし、止まっていないはずの勢いを自分で止めてしまうのは馬鹿馬鹿しい。

――私はちゃんと強くなれている。ぼんやりとした手ごたえを無理矢理掴んで、私はリング上で待つ相手を睨んだ。







「勝者、選手!!」

レフリーがそう叫び、いつもより入りの良い観衆が沸く。
――三連敗、後の三連勝。私は嬉しいよりもなんだかほっとして、ダウンから起き上がってきた相手選手の握手に応じるのもそこそこに、イルミさんの気配を探した。客席を一回り見回し、視界の隅で黒い影が動いたのを捉えてぱっとそちらを向くと、いつもの無表情で軽く手を振る彼の姿がある。
“よかったね。”唇がそういう風に動いて、僅かに笑う。――彼も表情が変わらないわけではないのだが、感情が表情に出ることは全くと言っていいほどないので、その笑みが何を意味した笑みなのか見当がつかずに私は一瞬固まった。とりあえずはここ三日の私のがんばりを評価してくれたのだということにしておこう。イルミさんとしても、出来の良くない教え子が期待に答える結果を出したら割と嬉しいのかもしれない。

軽く頭を下げてリング上に意識を戻すと、レフリーが「次もがんばってください。」と笑んでチケットをくれる。確か一度目の70階で世話になった人だ。あのときはきれいに負けてヘコんでいたのでよく見ていなかったが、柔和な顔の好青年である。闘技場の似合わなさは私と張るんじゃないだろうか。

「ありがとうございます。」

締まりなく笑ってチケットを受け取る。名前を呼ぶ野次にはVサインで答えてみて、私は軽くリングを降りた。






「意外と力ついてたんだね。すぐ持ち直すとは思ってなかった。」
「まあ、またクジ運っぽかったですけどね。」

今日は淹れたての緑茶を出して、テーブルを挟んでイルミさんと向き合う。彼は湯呑みをじっと見下ろすと「なんで祖父ちゃんと話が合うのかちょっとわかった」と呟いた。確かにゼノさんと話すときはいつもお茶飲みの体だったが、細かいことを言えば彼は日本茶より中国茶の方が好きだったので、そのあたりの趣味はそれほど合致していない。

「当てにはしない方がいいけど、確かには運がいい。」

イルミさんはどこかしみじみとした口調でそう言って、お茶を一口啜る。

「俺に殺されなかったし、ベッカーの念も効かなかったし、仕事のときもうまく潰されない位置に入ってたし。・・・いや、ベッカーの件はまた別、か?」

独り言のような口振りだったので、私は黙ってベッカーさんの台詞を思い出そうとした。そうしてみると彼の印象が案外希薄であることに気付く。脅しなのかなんなのかわからない中途半端な空気で、額と心臓以外は爆死、という意味のことを言っていたことくらいしか記憶にないようだった。

「奴の念が効かなかった理由、心当たりはある?」
「心当たりというか・・・私は違う世界のものだから、この世界のものである念には影響を受けにくい。ってことかなあ、と」

根拠があるような無いような予想を口にして、緑茶を口に含む。イルミさんはやや納得したような顔をして頷いた。私はそれを眺めながらゆっくりとお茶を飲み下し、数秒間をおいて「でも」と否定の台詞を投げる。

「だとすると、私が念を普通に使えてることが説明できないんですよね。教えて頂いてる限り、感覚とか認識に何か決定的な違いがあるとも思えませんし。影響を受けにくいのに普通に使える、っていうのはちょっと無理があるんじゃないかとも思うんです。」
「確かにね。」

コトリと音を立てて、イルミさんの手にあった湯呑みがテーブルに置かれる。それに視線を落とすと、不意に額に嫌な圧迫感と違和感を感じた。私は反射的に顔の前を手で払い、一歩半ほど飛び退く。イルミさんは私が弾いた左手をゆっくりとテーブルの上に落とした。

「今の反応からすると、もう“影響を受けにくい”ってことはないみたいだね。」
「や・・・やるならやるって言ってくださいよ、びっくりしたじゃないですか!!」
「あはは、ゴメンゴメン。」

棒読みで謝られてもなあ、とバクバク言っている胸を押さえながら、おずおずともとの位置に座る。少しだけ怨みがましい目でイルミさんを見ると、彼は悪びれた様子もなくテーブルに片肘をついて、思い出したように話し始めた。

「君の系統に関しては特技を聞いてなんとなく納得してたけど、また一つ仮説が浮かんだ。」
「私の系統、ですか?」
「そう。てっきり特質系だと思ってたから、操作系の反応が出た時はけっこうびっくりした。」

表情は全く変わっていなかったような気もするが、本人が言うのだからそうなのだろう。つくづく私とは真逆の感情の表れ方である。これが育った環境の違いというやつだな、と中途半端な確信をしながらイルミさんの言葉の続きを待つ。

「君は初め念をほぼ受け付けなかった。ベッカーほどの能力者の念を単なるオーラの纏まりにまで弱めたモノの正体はわからないが、ソレはたぶん君の精孔が開いた時点で弱まるかなくなるかしている。」

長い指が私の額を指す。何もされないとわかってはいたがつい手で遮って、少し身構えたまま彼と目を合わせた。
どうやら彼は私の成り立ちについて真剣に考察しているらしい。生い立ちは訊いても世界の括りでの話なんかには触れられたことがなかったから、そのあたりは割とどうでもいいのかと思っていたが、やはり気になるものなのか。仮説そのものというよりは彼がそこに興味を持っていたことが意外で、私はじっと耳を傾けた。彼は続ける。

「ベッカーは放出系。ただ、あの念の精度から言ってかなり操作に寄ってるのは確かだ。そして俺は操作系。――君はその真ん中。放出系寄りの操作系能力者。」
「・・・あ。」
「もしかすると、君はそういうタイプの特質系だったのかもしれない。っていう根拠に乏しい仮説だけど、辻褄は合うだろ?」

確かに、あり得るといえばあり得る話である。その発想はなかった!と胸の内で連呼しつつ、私は思わずこくこくと落ち着きなく頷いた。

まあ、とは言っても今の私の系統は“放出系寄りの操作系”で間違いないのである。変化系の修行はどう足掻いても捗らないし、仮に元が可塑性を持った特質系だったのだとしても、今はもう関係の無いことだ。息を吐いてごにょごにょと愚痴のようなことを溢してみると、イルミさんが唐突に私の頭をがしがしと撫でた。

「わっ」
「俺は操作系でよかったと思うよ。今となっては扱いやすいし。」
「な、何がですか?」
「べつに深い意味はないけど。色々と手間は省けてるよね。」

手間とは何か、と例を挙げてみようとしたけれど、いまいちはっきりとは浮かばなかった。イルミさんは何が面白いのか私の頭を掴んだまま、壁の時計に目をやったり本棚の方を見たりしている。そろそろ慣れっこだが、私の頭はそんなに手を置きやすい位置にあるのだろうか。甚だ疑問である。

「・・・私の頭掴むのって楽しいですか?」
「いや、特には。」
「・・・・・」

じゃあそろそろ放してくださいよ、とは言わずにわざとらしく迷惑そうな視線を送っておいて、二度寝防止に床の上に置いてある目覚まし時計をちらりと見る。

「・・・イルミさん、私そろそろ夕飯を作りたいです。放して下さい。」
「うん。俺の分もよろしく。」
「構いませんけど・・・・」

承諾すると何事も無かったかのように離れていった手を何か釈然としない気持ちで見送って、私は立ち上がる。ふと見下ろすとイルミさんの頭のてっぺんが見えて少し新鮮だったけれど、私には存在しようのない艶やかな天使の輪に納得がいかなくてすぐに目を逸らした。







written by ゆーこ