イルミさんはそう言って、こちらをしげしげと見下ろした。私はつい肩を竦め、引き攣っているだろう笑みを浮かべる。
「結局三日間負けっぱなしか。」
「面目ないです・・・」
そっと湯呑みを差し出しつつ、視線は真横に泳がせておく。イルミさんは付け足すように「別に悪いとは言ってないよ」とフォローを入れてくれた。しかし悪かろうが悪くなかろうが恥ずかしいのは同じだ。しかも80階以降全試合見事なまでのストレート負けだ。これではいくらド素人の無謀な挑戦と言ってもなけなしのプライドがズタボロである。
「運でも80階クラスまで上れるなら、まだ望みはあるんじゃない?」
「だといいですけど・・・」
自分用に買ったマグカップに口をつけ、大量生産し終えたばかりの温かい麦茶を啜る。当然イルミさんにも同じものを出しているわけだが、明らかに安物の湯呑みに注がれた、お徳用パック由来の麦茶などという庶民極まりないものを飲んでいるイルミさんはなかなかアンバランスで面白い。ただ、今の私にそれを笑う余裕はなかった。
「私、伸びしろあるんでしょうか・・・」
「さあね。俺にはわからないけど」
イルミさんはそう言って湯呑みをテーブルに置き、私をじっと見た。何か言いたいことがあるようだが、実際言うには決定打に欠ける、という風に見える。彼は視線を外し、私の背後にちらりと視線をやって、また私を見た。
「俺は君が戦えないとは思わない。努力の方向も悪くない。」
「はあ・・・」
「ただ、それでどの程度のレベルまで行けるかはわからない。戦い方がよくなっても、必ずしも強くなるとは言えないしね。」
腕力のことを言っているらしい。マグカップを握る手を見下ろし、うっすらと筋張る指を僅かに曲げ伸ばす。彼はすぐに続けた。
「はもしかすると、ああいう限定条件下での試合よりは実戦の方が向いてるのかもしれない。試合だと妙に緊張するみたいだけど、カルトの不意打ちには割と冷静に反応できてたよね?」
「はい、そっちの方が。」
「それなら、その辺で適当な奴に喧嘩でも吹っ掛けてみたらいい。」
「吹っ掛け・・・」
「嫌ならそう仕向けるとか。苦手じゃないだろ、そういうの。」
確信を持った口ぶりに、私は思わずうっと口を噤んだ。――私がこれまでいかに喧嘩に水を差してきたか、彼は知っている。四大行の修行の間、気を散らしていても維持できるようにと身の上話をさせられていたことがあったからだ。それとは別にあの水曜日の大男の件も、参考までにと一部始終を話した。自然な流れで不要な喧嘩に持ち込む技術を持ち合わせていることはもう完全にばれている。というか、単純に本当はものすごく口が悪いのがばれている。
私はあからさまに目を逸らしながら生返事をして、話題を変えようかとちらりと考えた。自分から振った手前どうしたらいいのかよくわからないが、とりあえず何か言おうとイルミさんに向き直ったところで、彼が話し始める。
「とにかく今は場数を踏むしかない。そういうので勘を砥いでおくのも一つの手だろ?」
それは、確かにそうだ。今の私に決定的に足りないのは経験。わかっているけれど、あまり気乗りはしなかった。これまでの喧嘩ならまだしも、自分の都合で人を怒らせるのは美学に反する。美学なんて言っている場合か、とは思うけれど、それでも何か引っかかってしまう。
素直には頷けずにじりじりと俯いたまま視線を泳がせていると、しばらく間を置いて、イルミさんが軽く溜息を吐いた。
「強制はしない。君のしたいようにしなよ。」
彼は癖のように私の頭にぽんと手を置くと、そのまま立ち上がる。私は何も言えずに、ただ彼を見上げてぽかんとした。
いつものような軽い返事が口から出ない。はあでもへえでも言えばいいのに、と一人で焦っているうちに、彼は「じゃあまた明日」といつも通りに告げて、座ったままの私の横をすり抜けていった。私はどうにか振り向いて彼が出ていくのを見届け、そっと喉元に手を当てる。
――気持ちがふらついて、うまく決まらない。
強くなろうとすることが無駄だとは思わない。なれるものならなってみたいと思うし、プロハンターなんて突拍子の無い目標さえまんざらでもない。それでも私の現実的な部分は常に冷やかな意見を連ねてくるのだ。少し弱ればすぐにぐらつく。
ふらふらとベッドに身を投げ、手探りでテレビのリモコンを取って電源を入れる。ちょうど日本で言うゴールデンタイムのバラエティーのような番組が終わったところだった。まだ夕方くらいかと思っていたが、いつの間にか窓の外も暗い。腕だけ伸ばしてアイボリーのカーテンを閉め、ばたりと顔を伏せた。
1Kの小ぢんまりとした部屋も一人きりならそれなりに広く、夜になれば心細い。余計なことを考えることもあるし、たぶんそれはこのところの試合の成績と全く無関係ではないだろう。
かといって、精神状態さえよければあの人達に勝てたかと言うと、そういうわけでもない、というのが実際のところである。どう考えても私の方が弱かった。今の実力であの人達に勝とうとしたら、精神状態がとんでもなく良い上にものすごくツキが回ってきていて相手が何か重大な心配事でも抱えていない限り無理だろう。
やはり、私は強くならなければならない。ここは自己満足のためと目的をすり替えてでも修行に集中すべきである。せっかく天下のゾルディック家に面倒を見てもらっているのに、いつまでもへろへろしていたんじゃ申し訳が立たない。せめて強くなろうとする気概くらいは見せなければ。
私はぱっと顔を上げ、テレビを消して立ち上がった。とりあえず、軽くごはん食べて夜のメニューをこなそう。話はそれからである。
「――うん。調子は良くないみたいだ。そっちは?」
『変わり無い。キルも順調だ。』
電話口の父さんの声はいつもと寸分違わない。そこにその言葉の裏付けを得たように感じながら、やっぱりは相当調子が悪いんだな、と僅かに息を吐く。
どれだけ顔色に出ても声色だけは変えなかった彼女が、明らかに滅入った口調で話していた。連日の試合で少なからず神経をすり減らしているのだろう。
適当に流してしまったが、もう少し優しくしてあげてもよかったのかもしれない。妙に肝が据わっているせいか最近は特に忘れがちだが、彼女はあくまで一般人なのである。
『どうかしたか?』
「いや、難しいなと思ってさ。」
『か。』
「うん。いくら筋が悪くないって言っても、土台が無いからなあ。」
恐らく、これから彼女が階を進めていくことは殆ど無いだろう。向こう一年見るとしても100階すら危うい。運でも十日やそこらで80階に上れたというのは本当に予想外だったのだ。同時に例外でもあったようだが。
彼女に告げた通り、今後正しく効果的に努力を積んだからといって強くなれる保証はない。特に彼女は全く未知数なのだ。期待外れに終わる可能性もあれば、期待を大きく上回る成長を遂げる可能性もある。
そもそもの期待値は決して高くないが、それでも元が一般人だということを考えれば、彼女は十分評価に値する素質を持っている。打たれ強く痛みでは怯まないし、必要な戦闘に対しては前向きで、情緒のコントロールも大方できている。気配の消し方は絶以外特に教えなかったが、それでも半年間で大分上手く使うようになった。驚くほど吸収が早い性質の上に、あの念だ。器用貧乏と言ってしまえばそれまでだが、あれほどまでに彼女の性質と目的に適合した念は他にないだろう。
それでも生兵法で挑まなければならない彼女を、どこまで本物に近づけられるか。能力で覚えさせた基本の戦い方が馴染むまでは様子を見るしかないが、彼女の努力よりも俺の指導に依るところが大きい部分が確かにある。ただぼうっと見ているわけにはいかない。
今さら彼女の面倒を見るのが嫌だと言うつもりはないが、ずっとキルアにつきっきりだった分、安定感があるのかないのか、発展性があるのかないのか、いまいちはっきりしないを見ていると少々心配になることがあった。
俺が黙っているのを悩んでいると解釈したのか、父さんは『まあ、なるようになるだろう。』と軽い語調で言う。俺はそうだね、と短く返して、他に連絡事項はないか確認を取ってから通話を切った。
携帯をポケットに入れて何となしに振り返ると、丁度の部屋の窓が見えた。黄味がかった白い光の向こうで小柄な影が動き、消えたかと思うと部屋の明かりが落ちる。それから数秒して外階段を下る足音が聞こえ、気配はそのまま闘技場の方向へと走り去って行った。――かなりヘコんでいるだろうに、律義なことだ。
踵を返し、明日のの試合をぼんやりと想像する。無論どうなるかはわからない。下層階と言えど力量のある者はいるし、のように運で上層へ登る者もいる。
なるようになる。いや、なるようにしかならないのだ。俺は考えるのをやめて、細い路地へ歩を進めた。
