大家さんはそう言いながら無難なアイボリーのカーテンを開け、埃を掃うように右手を振った。私はその後ろで部屋をぐるりと見回す。フローリングの床は靴下では走れそうにないほど磨かれ、壁紙もつい最近貼られたように白く整っている。部屋の位置自体は特に良いわけでもないが、広さも日当たりも申し分ない。長いこと地下室のような場所に閉じ籠っていた身には眩しすぎるくらいだ。
「大丈夫ですよ。こう見えてわりとしっかりしてるんです。」
「それでも、何も保証できないんだからね。」
いかにも心配そうな声色で言う彼女に笑顔を返して、増えた私物を詰められ太りに太った鞄を床に置く。肩紐が食い込みかけているリュックも降ろして鞄の上に乗せると、ふと脳裏にミルキの後ろ姿が過った。一瞬置いて妙に納得してしまったが、本人には言わないでおこう。ぶん殴られかねない。
短く息を吐いて前を向くと、大家さんに薄い書類を手渡された。彼女が厚意で作ってくれたものなのだろう。ゴミの分別がなんたらかんたら、近所の決まりがどうたらこうたらと、既に聞いたようなことが詳しく説明されている。
「何度も言うようだけど、本当に気をつけるんだよ。隣の角部屋なんかもう五回も泥棒に入られてるし、変な人も多いから。」
「駄目そうだったらその時はまた考えますって。」
紙をひらひらと振りながら笑って答えても彼女はまだ心配そうな表情をしていたが、これ以上食い下がる必要はないか、という風に溜息を吐くと「困ったことがあったら言いなさいね」とだけ念を押して出ていった。とても親切な人だが、ものすごく世話好き、というわけではないらしい。付き合いやすそうだ。
「(にしても、本当に幸薄そうだなこのアパート)」
両手を腰にやって仁王立ちしてみると、どことなく勝ったような気分になった。――これはどうやら、単にアパートの遍歴がよろしくないというよりは、建物自体に何か不幸の虫でも湧いていると言った方が正しいのかもしれない。築六年で人死に五件、空き巣が七十件超というのは、死角だらけでセキュリティが甘々だからというだけで説明するには少し無理のある数字に思える。ゾルディック家と比較しても入居を躊躇う程度にはファンキーな物件だ。
まあ、と言ってももちろん普通の鍵はついているし、いざとなればアッパーカットなりドロップキックなりを見舞ってやればいいのだから、当面は問題ないだろう。むしろそのくらいが丁度良いのである。せっかく実戦のための修行をしているのに、緊張感を忘れてレベルを落としていたら申し訳が立たない。正直に言うと単に格安の家賃にホイホイされただけだが、そういうことにしておこう。
リュックの中から財布を取り出してポケットに入れ、大きな鞄はそのまま備え付けのクローゼットに放り込む。リュックの方は先に注文しておいたベッドの上に置いた。調理器具と消耗品はこれから仕入れにいかなければならないが、夕方にはイルミさんが来てくれることになっているのであまりゆっくり選んではいられないだろう。
「(とりあえず鍋とフライパンとまな板と包丁と食器と布巾と洗剤と・・・)」
家の台所を思い出しながら携帯にメモを打ち込み、適当に予算をあててざっと計算する。今後一年使うことを思えば大した出費ではないが、小遣い数千円で細々とやりくりしてきた過去を思うと少々後ろめたい。我が家は何を隠そう経済的には中の下のスレスレを行く超庶民的家庭だ。いくら運が良いと一日にサラリーマンの月給くらい稼げるようになったと言っても、この庶民庶民した金銭感覚がすぐ抜けるわけではない。
もうちょっと減らせないかな、とメモと睨めっこを始めようとしたところで、不意に着信が入った。と同時に未保存のメモのデータは消え去ったわけだが(こっちの携帯は中々シビアである)、表示された名前を見て思わず「ヒィ」と声を上げる。――イルミさんだ。
「――も、もしもし?」
『や。今どこ?』
「例の新居ですけど・・・」
そう答えると彼は「ちょっと待って」と呟いた。電話の向こうで何かをめくるような音がする。地図でも見ているのだろう。耳を傾けながらも片手で太ったリュックの中身をベッドの上に出し、財布とその他携行品だけ改めて中へ移しておく。余りをクローゼットに入れようと抱えると、また声が聞こえた。
『・・・どこかに出てこれない?』
面倒くさそうな声に私は思わず小さく笑った。――このアパートの家賃が安い理由は幸の薄さだけではない。駅からもバス停からも決して近いとは言えず、その上入り組んだ路地の奥にあって、地図があっても中々辿り付けないのだ。幸い闘技場へはそれほど遠くないのだが、それでも油断すると道を間違えそうになる。
「わかりました。ちょっと用があるので時間かかりますけど、大丈夫ですか?」
『いいよ。もともと夕方の約束だったし。』
「じゃあ、四時過ぎには闘技場の正面玄関前に行きます。」
『わかった。』
あっさりとした返答のあと、ぷつりと音が途切れる。それを確認してから携帯を閉じ、ほっと息を吐いた。普段はメールで状況の報告をするだけだから、これが初めての通話だったのだ。言うまでもないが、仕事中であることが分かり切っている彼に私から電話するわけにはいかないし、私も私で修行の合間の新居探しや買い出しで奔走していることは伝えていたから、メールの方が遥かに都合が良かったのである。
しかし考えてみれば、昨日の夜には「住むとこ決まりました」とメールしてあったし、今朝の試合の結果も報告済みである。買い出しをしていても手が離せないわけではないし、電話の方が手っ取り早いのだから、来ることは予想しようと思えばできたはずだった。いや、まあ、びっくりして変な声出たのが恥ずかしかっただけで電話かよちくしょうとか思ったわけでは全くないのだが。
クローゼットに物を放り込むと、私はそのままリュックを掴んで部屋を出た。予定に変更はないが、あまり待たせてしまっては申し訳ない。さっさと済ませてしまおう。
苦節九日。――たかがと言われるかもしれないが、されど九日だ。
50階では自分でもなかなかいい試合が出来たと思ったものだが、それ以降は中々思うようには行かなかった。
60階ではよく言って「激闘も虚しく敗北を喫し」、50階は意地で勝ったが、再びの60階は苦しいものがあった。一点差でどうにか乗り切ったものの、あちこち強打して痣だらけである。そのせいとは言わないが、70階では割とあっさり負けてしまった。しかしクジ運が良かったのか、三度目の60階は割と楽に勝ち上がり、70階も今度は特に苦労せずクリアできた。
――が、今朝の80階はひどかった。手も足も出ずにあれよあれよと10点取られてまさかの1ラウンドで終了。しかも相手は余裕の笑みだ。怪我もしなかったし、かなり手加減されたに違いない。いっそ潔いほどのストレート負けである。
これは流石に報告を躊躇ったが、イルミさん的には「そんなすぐに80階まで行くとは思ってなかった。ごめん」と言われる程度に、良い意味で予想外だったらしい。文末の「ごめん」が何やらとても切実である。ちなみに、これにムカっとすればいいのか、「予想外に出来が良い(意訳)」と言われたのだから喜ぶべきか、走り込みをしながらぼうっと考えていたらとんでもなく些細な段差に躓いて転んだ。もしかしたらアパートの不幸が伝染しているのかもしれない。と、考えながら歩いていたらまた躓いた。
そういえば最近試合で勝つ以外には特にいいことがないな、と真剣に運気を気にしだしたところで、ようやく闘技場の根元に辿り付いた。1000メートル級の建物ともなれば、アパートからはもちろん、さっきまで居たデパートからもよく見えるので、辿りつくまでがいやに長く感じる。普段は走るついでだからいいとして、今日はもうさんざん歩き回っているし、これで二往復目に入るのだ。流石にお腹いっぱいである。
外周を回って正面玄関へ向かおうと軽く回れ右をすると、微かな気配と足音がふっと背後を過った。遠ざかって行くのでイルミさんではなさそうだが、そうなると無暗に振り返るのは危険そうだ。いくら下層部のレベルがまちまちで私の防御が鉄壁と呼ばれてしまうと言っても、200階クラスは全員念能力者である。中には変なのも居るだろう。どっかのヒなんとかさんとかヒソなんとかさんとか。
私は努めて軽い足取りでその場を離れ、正面玄関の前に見慣れた長髪を見つけて名前を呼ぶ。イルミさんはこちらを振り向き、特にこれといったリアクションもなく、早足で傍へ寄った私を見下ろした。通常運転である。
「すみません、お待たせしました。」
「べつに。新居の準備は?」
「だいたい済んでます。・・・?」
――なんだかまた気配がする。しかもあまり穏やかではない。これはヒなんとかさん系の変態さんが彼に反応したパターンか、ゾルディック家に個人的に恨みがどうこうというパターンと取るのが妥当であろう。イルミさんを窺い見ると、彼の視線はやはり私の背後に行っていた。それから面倒そうにこちらを見る。
「行こうか。」
「あ、はい。」
放置なのか。まあ放置だろうな。納得はしたが、なんとなく拍子抜けだ。思っていた反応と違うというか、いまいち緊張感がなさすぎるというか。
「(・・・振り向いておけばよかった。)」
今はもう無い気配の主を思いつつ、前を歩くイルミさんを追う。が、私はすぐにはっとした。
「イルミさん、家そっちじゃないです。」
「あ、そう?」
