そんな間違いなく十代のか弱い乙女が足を踏み入れるべきではない場所――果てにはその一階のリング上に、私は立っていた。目の前にはいかにも拳法やってます、といった風体の変な髪型の男がいる。名前はもちろん知らないが、975番と呼んでも仕方ないのでここは仮にねじれモヒカンと呼ぶことにしよう。
ねじれモヒカンは私をじろじろ見たかと思うとレフリーを呼び、本当にこいつが相手かとか何とかと訊き始めた。私はそれをじっと見ながら「そうですとも」と腕組みする。するとねじれモヒカンはレフリーの返答を待つまでもなく、私を一瞥して姿勢を正した。
「ここ一階では入場者のレベルを判断します。制限時間三分の間に自らの力を発揮して下さい。」
レフリーが言うと、ねじれモヒカンが私を見据える。柔道のような構えで腰を落とした彼を、私はまだ突っ立ったままで眺める。一瞬レフリーの顔が困惑の色を見せたような気がしたが、数秒もなく合図がかかった。
「では、始めッ!!」
「――お疲れ。思ったより順調だね。」
おおよそ7万ジェニーを手にして休憩所でぼんやりしていると、とっくに帰ったと思っていたイルミさんが目の前にひょっこりと姿を現した。無論何の気構えもしていなかったわけなのでうっかりジュースを噴くか気管に飲み下すかするところだったが、そこは得意の条件反射で「お陰さまで」と答えて、ついでににやりとしておく。彼は私の向かいの席に腰を下ろして、どこにでもある白いテーブルに肘を付いた。
「予想外。もっとやられるかと思ってたよ。」
「でも全然攻撃できませんでした。隙がどこなのかいまいち分からなくて。」
「意識して戦ってれば覚えるだろ。全部勉強だと思って、常に気を抜かない。」
「はい。」
頷きながら返事をして、残ったジュースを煽る。イルミさんの真上の蛍光灯が切れかけているのが見えた。
「・・・そういえばイルミさん、すぐ仕事先に向かうんじゃ?」
「悪天候で午後の便全部欠航。」
「え、間に合いますか?」
「うん、結構余裕あるから。」
「(流石ゾル家、ぬかりねぇな・・・)」
情報漏洩どうのこうのとあるだろうし、興味はあっても利益はないので、彼らの仕事に関しては例の水曜日の件以外何も聞いていない。だが彼らの管理能力が素晴らしいのは疑いようも無い事実であろう。スケジュール然り、仕事の手際然り。
離れて賞味三日ほどだが、こうして一般人や一般人に近い人達に囲まれてみると、改めてこの人たちの怖さを思い知る。ここでは廊下の角で誰かとロマンスすることはまず有り得ないし、何か飛んで来る時は、悪意があればわかるし、なければ全く無害である。そして現に、今目の前に居るイルミさんは、ちょっと気を抜いたら気配を見失いそうなほど静かに佇んでいる――というよりは、周囲の喧騒にうまく身を隠していると言った方が近いだろうか。相変わらずお仕事意識のよくわからない服装だが。
「ところで、今日はどこに泊まるつもり?」
「案内所で安いホテル紹介してもらったので、しばらくそこに居ようと思います。本当は安アパートでも見つけたいんですけど、近くにはあんまりないみたいなんですよね。」
「手配させようか?」
「うぇ!?い、いや、大丈夫ですよ。自分でどうにかします!」
「そう?」
「ういっす!お心遣い痛み入りまっす!」
――全く庶民の心臓に悪い単語使いやがってどいつもこいつも、と内心ブルブルしながらテーブルに両手を付いて頭を下げておく。だいたいたった一日で手取り七万だってのにそこにノーコメントってどういうことだ。まあ慣れてるんだろうが、七万だぞ七万、どこぞの美味しい棒がえーっと七万だから十円がえーっと・・・たくさん買えるんだぞ!!
「(じゃない7000だ、私計算ヤバイ)」
「そのホテルってどこ?」
「はい?あ、はい。ここから歩いて10分くらいの、大きい公園のすぐ傍です。名前は、あー・・・ホテル・フィオーレ。」
「俺もそこにしようかな。」
「・・・本当に安いですよ、シングル一泊2000J。シャワーとトイレついてますけど、あとは何も付きません。オンボロだそうです。」
「天気悪い中の野宿よりはマシだろ。」
いや、そっちじゃなくてもっといいところあるだろっていう話なんですが、という台詞を顔面に語らせてみたが、どうやらそもそも考えるのが面倒くさいらしい。前にキルアの様子を見に来た時はすぐに帰ったし、もともとここに留まるつもりがなかったから手持ちもあまり無いのだそうだ。カードは使わないのかと聞いたが、あれは逆に面倒だ、とのご意見である。銀行に行けば金は下ろせるが、そうまでするよりはすぐに行ける所の方がいいというのは尤もだし賢明だ。
「じゃあ、もう向かいますか?そういうことなら途中にスーパーあるので、夕飯は何か買って済ませましょう。その方が安上がりです。」
「徹底してるね。」
「庶民代表ですから。」
えへんと胸を張ってみたが、残念ながら色々と虚しさが立ち込めるばかりである。代わりに立ち上がりざまに空き缶をゴミ箱に投げ入れ、見事なシュートの悦に浸っておいた。
――天空闘技場は思ったほど恐いところではなかった。
改めて攻撃を仕向けられるのも、相手を全力で殴るのも蹴るのも、恐くはない。むしろ思うように力が出なくてもどかしいくらいだ。それでも20階、30階ではそこまで手古摺らなかった。攻撃の手は中々出ないが、守備でヘマをするほど温い修行はしてこなかったからだろう。――だから恐くない。
「(正直もっと痛い目見ると思ってた)」
スプリングが妙な音を立てるベッドに大の字になったまま、纏を解いて、ほつれたオーラの筋を月明かりにぼんやりと眺める。開け放った窓からは冷たい風が吹き込んで来ていたが、今は寒いくらいが丁度よかった。
イルミさんに言われたように、私は今日一日、計3試合通しても喰らった攻撃は二発、しかもクリティカルは一度もない。――20階やそこらで何を言ってるのか。と言えばそれまでかもしれないが、そうではない。20階であっても戦える奴は戦えるのである。本気の喧嘩をしたことがなかった私よりは間違いなく場数を踏んでいる奴がほとんどだ。
確かにこれまで私の敵はカルト君だったし、あのデカい念能力者だった。生死に直接関わっていたから、さぞ効果的な修行が出来たことだろう。――でもそれも違う。
私が思っているのはそういうことではなかった。かといってどういうことか具体的に説明しろと言われたらコンマ一秒で土下座して出来ませんと言うほかないが、それでも「私はゾルディック家で死と隣り合わせの修行を積んだから喧嘩強くなりました!」と自称する気にはならない。違和感がある。たぶんそういうことではないのだ。言葉は間違っていなくても、ニュアンスが納得いかない。
「(恐くなかった。勝てるかは全く分からなかったけど、雑魚だなと思った。なんで?)」
間違いなくゴリマッチョの領域に入るねじれモヒカン、細マッチョだが鍛えているのが目に見える格闘家、喧嘩好きで拳法の心得のある若旦那みたいなお兄ちゃん。――“知っている”基準で言えば三下どころか下手すれば霞んで見えないレベル。戦うとかいう相手じゃない。私が“知っている”人達はそう判断するだろう。
「・・・・判断基準がズレたに一票。」
起き上って一人神妙な顔をする。なんだか居たたまれなくなってベッドサイドの傾いたテーブルの上から水のペットボトルを取ってがぶ飲みした。すると急に風が冷たくなったような気がして急いで窓を閉め、今度は暗い部屋が気になったので頼りない黄熱灯を付け、おろおろと文字通り右往左往したあときっちり折り込まれたままの掛け布団の中に勢いよく潜り、息継ぎのように顔を出したあたりで、私はようやく落ち着きを取り戻した。――なるほど、わかっていたようでわかっていなかった。私はもう、取り込まれているのだ。
「(ゾル家こわい。洗脳こわい。)」
たぶん、慣れようと躍起になった時に自主的に洗脳されたんだろうが、気づかない――いや、忘れるとは何事か。仮にも帰ろうと思っている奴が、多少は必要だといっても、自分で分からないほど深いレベルで変わってしまってどうする。それもあんまりよろしいとは言えない方向に。
「(おいおいおい、ほんと間違っても50階とか言われるようなやり方しなくてよかったよ20階じゃなかったら死んでたよ間違いない)」
まあ、防御と回避ができるだけであとは何も無い私が50階に行けと言われることは何がどう間違っても無かっただろうが、今後も順調に行けばもうすぐその階に手が届く。恐・・・くは相変わらずないが・・・いや、もうやめよう。実際に痛い目を見るまでこの意識は変わるまい。
「(・・・・まあ、変な奴が相手じゃなければ二桁台で死ぬことはないと思うけど)」
ベッドの上から腕を伸ばして、大きなスタンドライトの紐を引っ張る。ガリンという不穏な音がしたが、視界は問題無く暗転した。私はまた布団に深く潜り込んで、「気を抜いたら負け気を抜いたら負け」とぶつぶつ唱える。
――人間には殻があるのだと、いつだったか兄貴が言っていた。他人はその殻を見るしかないが、自分の背中が見えないように、当人は殻の外の模様までは見えない。光に透かしてだいたい分かっても、実際外から見ることはできない。仮に殻を破って外に出たとしても、破れた殻は元の殻ではない。人は自分がどんな人間か、死んでも完全には分からないのだ、と。
だから私は考えないことにした。どう足掻いたって自分を客観視することはできない。せめて気を抜かないようにだけして、今日はもう寝よう。
