もう今年のハンター試験も終わり、キルアの部屋のテレビからは今年の受験者数はなんたらというニュースが流れている。部屋の主の方はさっきお菓子をかっぱらいに行ってしまったきりなので本来なら心おきなくゴロゴロできたところだが、このニュースのせいか、今日はなんとなく落ち着かなかった。
――来期のハンター試験は、その時の力量がどうあれ受けるつもりでいる。
行って受かるか、というとそれは難しい質問だが、せっかく会場の入り口も合言葉も試験の内容も主要な受験生の番号も記憶しているのだ。夢小説的状況に置かれている人間としても、どうにかしてライセンスを取りたい人間としても、行かない手はない。攻略法を練っていけば絶対無理ということはきっとないはずだし、危機管理を徹底しなければいけない相手はどっかのヒソカくらいなものだし、あとは無理さえしなければ少なくとも死ぬことはないのだから。きっと。
記憶が薄れないように日本語で色々と書きとめたノートを開いてぶつぶつ呟きながら、キルアはまだかとドアをちらりと見る。
すると、なぜかノックの音が響いた。予想外の展開に一瞬どきりとして固まり、それから時計を見上げてみたが、案の定あと15分弱でキルアの休憩時間が終わる、といった頃合いである。わざわざここに来なくてもいいような気がするが、急用でもできたのだろうか。
「キルアはいませんよー」
とりあえずそう答えてみたが、聞いているのかいないのかドアノブが下がる。躊躇いなく開かれた扉の隙間に視線をやると、そこにはイルミさんの姿があった。
「や。」
「ど、どうも。」
ノートを閉じ、彼に向き直って会釈をする。――すぐにキルアの居場所を訊ねてこないということは、私の方に用があるのだろうか。じっと目を合わせていると、彼は概ね予想通りの台詞を口にした。
「そろそろ決めた?闘技場、行くか行かないか。」
「――で、結局行くんだ。」
「やー、だってせっかくだし。ね?」
誰かが用意してくれた大きなバッグに必要最低限の服や日用品を詰め込みながら、向こうを向けた椅子に逆向きで座って呆れたような顔をしているキルアに答える。私の声色が明らかに嬉々としているせいだろう、彼はあからさまに溜息を吐いた。
「怪我治ってんの?」
「バッチリ。元のメニュー普通にこなせるようになったもん。・・・まあ、ドーンて来たらまたポキっと行くかもしれないけど、その時はその時じゃない?」
「お前さぁ、自分で『私ふつうの女の子なのに〜』とか言ってなかったっけ。」
「言ったような記憶はあるけど、いやあ・・・何?その、面白そうだし・・・」
「バカ。」
「残念だがこれはバカじゃなくてオタクの一種だ。」
「ブタ君予備群・・・」
「何とでも言いたまえ。えーと予備の靴下どこだっけ」
「・・・」
どうせ長く滞在するんだから、必要なものはあちらで仕入れてもいい。たくさん持って行く必要はないのだが、すぐにまともなファイトマネーが入るようになるとは限らない。むしろ逆の可能性が高すぎて泣けてくるくらいだ。何にしてもとりあえず二日分はあった方がいいし、一応女子としていつ見ても同じ格好というのも避けたい。
考えながらゴソゴソやっていると、斜め後ろの方で物音がした。キルアが椅子から立ったらしい。帰るの、と声をかけるとどっちつかずの生返事が返ってきたが、視線は感じるのできっと何かしら言いたいことがあるのだろう。――まあ、当然だ。私は六歳当時のキルアとでさえ腕力では勝負にもならないはずなのだから。――『いくらタフだからって、どうしてこの程度の奴を闘技場に行かせるのか』、といったところか。
「・・・・キルアって、試しの門いくつまで開くの?」
「え?・・・2だけど、それが何。」
あ、まだ2だったんだ。その驚きはあったがとりあえず笑って、スポーツ用によくありそうな素材のレギンスをあるだけ隙間に詰め込む。
「私は一生がんばっても1の門すら開かない。ていうか大抵の人間はそうでしょ、ふつうはハンター試験に素で受かるくらいの実力がなきゃこの山には入ってこれないものらしいし。」
振り返って、そうでしょ?と首を傾げてみると、キルアは考え込むような顔でまた椅子に座った。口を開く気配はないので、続ける。
「・・・だから、私さっさと分相応の場所に行った方がいいと思うんだよね。少なくとも野垂れ死にはしないくらいにしてもらったし、実はここらが潮時なんじゃないかなーって。」
「じゃあ、戻ってくる予定はないの?」
「よくわかんない。」
「はぁ?」
あ、どうしようそろそろバッグきついかも。なんだかんだ女子だなあ、こんなんで荷物増えまくるとは。べつにドライヤーも化粧品も詰めてないのにな。
右手で左の頬を掻いて、ひとまず似たようなデザインの二着のジャージを引っ張り出してみる。うーん、捨てがたいんだよな、この二つどっちも好きだから。
「一応、“ハンター試験に合格できるくらいになるまで修行”って話だから。でも限界ってやつもあるわけでね?現実的に考えたら一生ここに居候することになっちゃうし。」
「一生・・・うわぁ」
「それは流石に色々と問題あるじゃない。個人的にはここ、結構好きなんだけどさ。」
「・・・・それ、マジで言ってんの?」
心底訝しげな声にちらりとキルアを窺えば、一体何を見てるんだ、とでも言いたげな目が私をじっとりと見下ろしている。予想通りの反応に私は少しにやついて、それから人差し指を立てて尤もらしく言う。
「だって、普通に暮らしてたら武器とか拷問具とかそうそうナマでは見れないじゃない。」
「・・・お前、もしかして武器オタク?」
「違うよ、なんかそういう感じのものにとめどない情熱がこう・・・」
「やっぱブタ君予備群だな。」
はぁー、というあえて作ったような溜息を耳に、口元を緩めたまま、取り出した二着を膝に置いて一旦バッグの中を覗き込む。ジャージ上下揃いのものがひと組、上だけが今出した二着とパーカー一着、下はハーフパンツと、ジャージとはまた違った素材のショートパンツにジーンズ、あとはインナーのTシャツが四枚と下着類がとりあえず五日分くらい。――と、これか。
「・・・(ほんっとボロいなぁ)」
一番下に詰めた懐かしい芋ジャーの袖をつっと引っ張ってみる。擦り切れているのはもちろん、所々引っ掛けてほつれている上、袖口も名札部分もボロボロだ。毎日見ていた時は気にならなかったが、こうして見るとかなりギリギリの状態である。膝の上のジャージと比べるとまさに月とスッポンだ。
「それ、お前の?」
「うん。着古しだけど、一応私物だから持ってく。」
芋ジャーを押し込んで、膝の二着の素敵ジャージも詰め込んでしまう。――選択肢のどちらも捨てがたいなら捨てないか、どっちも捨てるかにしろ。とは我が兄貴の言葉である。詰めてから思い出したけど。
「――すぐ飛行船出してもらえるらしいから、これ詰め終わったら行くね。」
「オレも行く。」
「え、見送り?おねーさん嬉しくて涙が」
「ちげーよバーカ、冷やかしに決まってんじゃん。あ、そーだ。カルトも呼んでこよっと」
「ちょっ・・・最後かもしれないってのに何その仕打ち!」
まあ、来期のハンター試験受けに行くんだからまず高確率で最後ではないけど。―――なんてことをうっかり口走って仮にキキョウさんか誰かがどっかで聞き耳立てていたりしたらキルアの家出を私のせいにされかねない。全力で黙ろう。
身震いしつつ精一杯口を噤んでバッグに圧力をかけ、最後に例の黒セーラーをなるべくきれいに畳んで入れる。着る予定はないが、キキョウさんが唯一見せてくれたまともな好意、という意味では大事な服だし、せっかく私に合わせたのだから持って行けとも言われている。
「・・・あ、ところでキルア、今選んだ服八割方君から借りパクしたやつなんだけど、持ってっちゃっていいかね?」
「おま・・・見たことあんなーと思ったら・・・」
「君が良いジャージたくさん持ってるのが悪いよ!」
「あーはいはい、勝手に持ってけっつーの。別に減るもんじゃねーし」
「なんだと・・・!確実に君のジャージが数着減ってるってのにこのお坊ちゃんめ・・・!!」
だが貰えるものは有難く貰おう。いや、くれとは言っていないが、私のことだから全部例の芋ジャーレベルまで着古すに違いないのだ。そうなったら返すに返せないし、キルアだって返されても困るだろう。それにこの様子ならこのまま本当に借りパクしても痛くも痒くもなさそうだ。
そんなことを考えながらバッグのファスナーを閉めているうちに、キルアは宣言通りカルト君を呼びに消えた。ああ言いはしたが、カルト君にも何かしら挨拶はしておきたかったのですんなり見送り、バッグを肩にかけるとクローゼットの扉の内側についた鏡の前に立ってみる。まずこの半年間伸ばしっぱなしの髪が目についた。次に左頬の傷跡と、以前よりは引き締まって隙がなくなったような頬や手足が他人事のように認識される。
そうしてしばらく自分と睨み合ってから、私はクローゼットを閉じ、机の上に準備しておいた比較的小振りなリュックと上着を取って踵を返した。
――名残惜しい、と思う。折角の居場所を手放してしまうのが寂しいのは、まず間違いなく事実だ。
それでもここは私の居るべき場所ではない。嫌いではないのだから今さら違和感は感じないけれど、時間が経つにつれ少しずつはっきりしてきた。
やはりどう足掻いても、私は違う場所の人間なのだ。いくら馴染もうと、ここには絶対に同化しない。決定的に何かが違っている。私はこちらの人間にはなれないのだ。――でもだからといって、元に戻れるわけでもない。
闘技場に興味がある、単に修行の一環として適当である、というのも純粋な理由だ。――だが、私が名残惜しさや愛着を振り切っても今ここを離れるべきだと思う潜在的な理由は、恐怖心に違いなかった。
ホラー映画を観て演出に背筋が冷えるのとは違う。虫の知らせを聞いた時のような、形のない恐怖そのものが足下で息を潜めているような感覚。――それを認識するたび、このままでは最悪の結果が待っているような気がして、ひどく不安になる。
「・・・いや、大丈夫。」
言い聞かせるように呟きながら扉を開け、私は片手で電気を消した。
