大方イルミさんとの組手で悶絶したか気絶したかだろう、とあたりを付けて二つの空席のうち一つを眺めながら、難儀なことだなと息を吐く。
私が見る限り、十歳のキルアも十二歳のキルアも実力にそこまでの差はない。彼が一番伸びるのはG.I編だ。あそこで得る軽く化け物レベルの力の規模を考えれば、今現在と287期試験の彼の実力の差など微々たるものだ。その微々たるもののために悶絶したり気絶したりを繰り返しているのだと思うと、難儀だなという言葉しか出てこない。もちろんどんなに少しでもレベルが上がることは無意味ではないが、彼の教育にはもっとゆとりがあってもいいような気がする、というのが私の素直な感想だ。ゆとり教育の弊害を受けた一例としては全否定することもできないが。
考えながら、カートから昼食が乗った皿を取ってテーブルに並べていく。逆に迷惑をかけても申し訳ないのでしばらく手伝いを中断していたが、ギプスがとれて三日ともなれば、今度は手伝いをしないでいるのが申し訳ない。いつも通りずっしりと構えたシルバさんの横からピラフ的なもの(向こうでは見たことのなかった料理だ。)の皿を差し出すと、彼はふいに私に視線を向けた。座っているのに見降ろされているのにはもう慣れっこだ。
「調子はどうだ?」
「良好です。完治するまでには左も戻せると思います。」
「そうか、ならいい。」
そう言ってまた視線が離れていくのをじっと見ながら、改めて左腕に意識をやってみる。――まだ力は入りづらいが、それでもギプスを外した日よりはマシになっている。
見た目には分かり辛いとはいえ、全く変わらないわけでは決してない。自分に言い聞かせるように考えていると、横から視線を感じた。反射的に目を向ければいつもの顔のイルミさんと目が合う。特に声はかけられなかったが、目を逸らされもしないので少し困って首を傾げ、そのまま視線をカートにやると、もう残っているお皿はなかった。仕事を済ませたメイドさん達が静かに厨房の方へ消えていくのを横目にもう一度イルミさんを見る。やはり目が合う。・・・な、なんだろう。
「(何かしたっけ私・・・)」
いや、してない。断言できる。ここのところの行動範囲はいつも以下なのだ、するはずがない。あまり動き回ったり好き勝手にしたりすると変な骨のくっつき方しそうで怖いし、勉強の合間にキルアのところに遊びに行っても漫画を読んだりゲームの対戦相手になったりしているだけだ。じゃあなんだろうこの視線。
なんとなく逸らしてはいけないような気がしながらも、用意が済んだならそろそろ食事が始まる。せめてイルミさん側を通らない方、シルバさんの後ろを通ってカルト君の横から、また部屋に引きこもっているミルキの席と、キルアの席にはさまれた殺風景な一角に腰を下ろす。イルミさんはまだ見ている。ヘルプの視線をゼノさんに向けると、何か心当たりがあるような様子だったが特に指示らしきものはなかった。なるようになるということだろうか。
そして私の疑問は、私が空になった食器を下げるのを手伝おうと立ち上がったその時――細かいことを言うなら、イルミさんに名前を呼ばれた一瞬後、かつ彼がその次の台詞の前半を占める固有名詞を口にした瞬間に、時々迸る我が理解力によって、瞬時に解消された。
「天空闘技場、って知ってる?」
「・・・、お前なんでそこにいんの」
「キ、キルア先輩おはようございまっす・・・お勤め御苦労さまっす・・・」
そうだ、キルアに泣きつこう。と思い立った瞬間それを実行に移したのだが、キルアは案の定と言えば案の定まだ気絶していた。が、私がそのベッドのそばで膝を抱えてガッカリしている間に起きてくれたようだ。偶然なら嬉しいが、気配に気づいたのなら脱帽である。どちらにしても起きてくれてありがとう、という気持ちを込めて口にした台詞は何か間違えていたが、そんなことは問題ではない。
「・・・なんかあったの?」
「先輩・・・聞いてくれるんすか・・・」
「まずセンパイって何だよ。」
「いや・・・あの・・・」
――天空闘技場の。
その六文字、ハンター文字にして十一文字の言葉がのどにつかえて出てこない。どんだけビビってるんだ私は。自分に呆れたような、あまりに突拍子のない宣告に色々通り越して呆れたようなで結局溜息を吐くと、キルアに額を小突かれた。いや殴られた。
「痛っ!痛いよ何すんの!」
「お前がわけわかんねーからだよ・・・オレ寝起きなんだからもっとわかりやすく話せよな」
「(そういやそうだった)す、すんません・・・とりあえずまた謎の宣告をされたことだけ報告しておきます。」
そう言うとキルアは全然わからない、という風に首を傾げた。私は少し悩んで、やっぱり十一文字(名詞だけだと十文字か)は恐ろしくて言えないのでソフトに付け足す。
「前回の社会科見学に続き、また外に出なければならないようです・・・」
「ふーん・・・誰についてくの?」
「いや、一人で。しかも長丁場なんです・・・」
正直年単位でかかるんじゃなかろうか、と呟いて遠い目をすると、聡明なキルアはあっと思い出したような顔で私を見た。それからまさかな、という風に眉間に皺を寄せて窺うような素振りをする。まあそうなるよな。だっておかしいもん。
「・・・先輩、自分どうしたらいいっすかね。」
「・・・とりあえず兄貴に正気かどうか訊いてみたら?」
「訊いた。マジだった。」
「・・・お前は行きたくないんだろ?」
「・・・実はそういうわけでもない。」
「はぁ?」
キルアは何かしら釈明を求めるような調子で私を見、厚手の掛け布団を突っぱねると胡坐をかいてこちらに向き直った。私はそれに合わせて、彼と向かい合う形に正座し直す。先輩後輩と言うよりは師弟の関係みたいだな、とどうでもいい方向に思考が逸れたのを頭を掻いてもとに戻し、相変わらずの猫目を見上げる。
「べつに説明するほどのことじゃないんだけど・・・ただちょっと行ってみたいなってだけ。」
「バカ、天空闘技場だろ?ふつーは素人が行くとこじゃねーっつーの。」
「まあ、うん。わかってる。だから困ったなあ、と・・・・」
目を逸らして笑うと、拳のような何かが左側からきれいな放物線を描いて素っ飛んできて左側頭部を強打した。が、悶絶するとかいうほどの痛みは無い。それでもびっくりして状況がよくわからなかったが、たぶん殴られたんだろうなと理解しつつ、若干ぐらつく視界にキルアを捉えてさっきと全く同じ文句を言った。唐突ではあったが、この話題だとどこかしらで殴られそうな気はしていたので怒りはしない。キルアは少し変な顔をしたが、すぐに腰を浮かせた姿勢からさっきの胡坐に戻った。
「・・・ほんとタフだよなお前。」
「今のところそれだけが取り柄だもん。」
「まぁ、そうだよな。だから闘技場なんじゃない?」
「たぶんね。・・・キルアから見て、どうよ?」
「どうって、何が?」
「私でも勝てそうな人いると思う?」
「・・・」
「ちょっ・・・そこで沈黙されるとおねーさん辛いから!・・・あーっ!いい!大丈夫!絶対行けって言われてるわけじゃないし!どっちにしろあと二ヶ月は身動きとれないし!だいじょーぶ!」
左胸のあたりを軽く叩いて立ち上がると、キルアはまた実に微妙な顔をした。
「今のやつ。」
「はい?」
「今殴ったの、べつに手加減とかしてないよ。」
「え?・・・えっ酷い」
「それにお前、一回ちゃんと戦ってんだろ。アレで自己判断しろっての」
「・・・」
アレ。右手にナイフの感触を思い出すと、頭の芯で何か囁かれたような気がした。しかし気を取られる前にキルアがベッドから私の目の前に移動してきたのではっきりとはわからない。彼はいつの間にかほんの少し上になった目線から私をまじまじと見てくる。
「・・・やっぱ普通に見えんだけどなー。」
「そうでしょうとも。」
「隠してるわけ?」
「・・・なんかそんなニュアンスのこと、イルミさんにも訊かれたなあ・・・」
また頭を掻いて、それとなく後ずさる。――まさか10歳児にこう易々と身長を抜かれるとは。この世界の身長設定についてはもう慣れたが、いちいち首を痛くしたり覗きこまれたいわけでもない。微妙な気持ちになりながらも、私は珍しく器用に本題についてもちゃんと答えを述べた。
「“本当のことは言ってない”って答えてるよ。でもよく考えたら普通のことじゃないかなー、いちいち本音言う人なんて中々いなくない?」
そう言うと、キルアは少し納得したような顔で視線を右に切った。それを見ながらまた一歩下がる。
「――前キルアに話した身の上話、あれぜんぶ本当だよ。だけど普通の人よりは頑丈。けど石橋を叩いて渡らなきゃ、帰るっていう目標達成できないから、ビクビクしてるわけ。・・・自分のこと、本当に弱いと思ってるわけじゃないんだよね。正直言うとさ。」
念能力者が世界の人口のほんの一部でしかないこと、そしてそのまた一部だけが戦闘に特化しているのだということを考えると、私が勝てるかもしれない人の数は意外に多い。特に発を使えばその数はさらに跳ね上がるだろう。人体の急所という急所を能力の基礎プログラムに組み込んでおけばいいだけの話なのだ。体術系のチャンネルさえ作ることができれば基礎的な戦闘はほぼ自動になるのだし、肉体操作で多少威力が増しているなら、多少のダメージ増は望める。逆に私は非能力者相手ならばダメージというダメージは中々受けない。もちろんキルアクラスを相手にとろうと思えば話が違ってくるが――と、言ってみても机上の空論なのである。だから私は試してみたいのだ。
体術の修行、と言ってもこの家でそれをするのはそもそも資質に恵まれていない私にはハードルが高すぎる。しかし天空闘技場なら、キルアはああ言ったが、一般人と比べれば強い、とかいう程度の連中もいるだろう。特に一階や十階クラスにはたくさん。そういうのでいいのだ。
鍛えたと言ってもこの期間で、それもこの資質で、その上それに重点を置いていたわけではないのだから、私にある力はせいぜい、部活に青春を捧げた少女の高校二年の冬、くらいのものだ。ようするに年相応である。この家の方針が子供の教育に関してを除けば実に合理的であることを考えれば、もしかするともう少し希望を持ってもいいのかもしれないが。――ただ、そういう希望的観測をするとあとで現実を見た時辛くなる可能性が大いにある。
「私は現実を直視しておく必要があると思う。」
例文じみた硬い口調に自分でも驚いたが、握り直した両手がじっとりと重いことに気付いて緊張しているのだとわかった。たぶん、試したいのは本音だ。わくわくしてないと言ったら大嘘である。でも死んではいけないから怖い。死ぬのが怖いのではない。死んだら父に会えると芯から思い込んでいるらしいから、私が怖いのはきっと、私が死んだ時の家族だ。
自分で言うようなことではないが、私は愛されている。一人になることも多かったが、だから飢えているということはない。母とゆっくり話せたことがないのはほとんど本能的に寂しく思っているが、それだけだ。いい歳だというのに今も(少なくとも私の中の時間では今も)彼女が働き続けるのは明らかに私のこの先のためだし、兄貴夫婦が実家で二人家族を続けているのも似たような理由である。義姉さんはいつも、私はあなたの姉だから、と言っていた。彼女は兄貴の妻と言うより、私の姉として家にいるのである。
これであちらの世界に未練がないと思う方がおかしい。そして死んでも良いなどとは到底思えるはずもない。死そのものに関しては恐怖心がないとはいえ、生理的なものではない恐怖というのは、いつ足元をすくわれるかわからなくて余計に怖い。
改めてにじり寄ってくるような冷たい気配を感じたが、キルアに一度ならず二度までも性根をちらつかせるのは癪だ。・・・いや、語弊である。弱味を見せるのは私のポリシーとプライドが許さない。
私はいきおいすぐそばまで迫っていた壁を左拳の横で殴り、適当な挨拶とともにキルアの部屋を出た。キルアはわけがわからなかっただろうが、私も私でどうしてあえて左手を使ったのかわからなくて混乱した。ドアが閉じたのを確認してからぐっと蹲る。
「・・・さ、鎖骨痛ぇ・・・!」
骨折はもう二度とするまい。あとよくわかんない暴力はもう二度と振るうまい。心に誓って廊下を下り階段の方へ進むと、なぜかいつだったかの兄貴の台詞がよみがえった。「俺を殴ってもお前の拳が傷つくだけだ・・・まぁ殴りたいなら殴ればいいがな!」
この兄あってこの妹である。いや、私の病気が彼にまで伝染していただけか。
どっちにしてもなあ、と溜息ながらに笑うと、どこからか冬のにおいのする風が吹き込んできた気がした。
そういえば、世間では286期ハンター試験のエントリーが始まっているらしい。ヒソカが20人ほどの受験生をサクサク再起不能にする姿をアニメの絵柄で想像し、それから来期の試験で彼はどのくらい人を殺すんだったかと考える。よく思い出せないが、大量虐殺と呼ぶほど殺してはいなかったような気がする。せいぜい10から20の間だろう。結論付けたが、どうにもリアリティのない想像だ。しかし彼に関してはリアリティのないままでいてほしいなと思う。ゾル家は一応常識があるので案外安全だが、彼が案外安全ということはまさかあるまい。
ぼうっと考えながら階段を降りようとしたら一段踏み外した。――今日はいいことがない。
