筋トレ、嫌いじゃないけどキツイんだよなあ。と溜息を吐きながら、まだ堅く固定されている左半身を軽く叩くように触って、さらに苦い顔をした。痛み止めは効いているが、正常な状態でないのがいやによくわかって気持ち悪い。
――鎖骨で一か所、肋骨二か所の骨折。その他肋骨であと三か所と、左の橈骨、尺骨は亀裂骨折。加えて折れた肋骨が胃に刺さって穴が開く、とかいう私史上では少年漫画でしか見たことがないようなダメージを喰らってしまったため、例の日――仕事を見学した11月の第一水曜日からきっかり一ヶ月経った今も、私はいまだ安静を言いつけられていた。
ずっと絶でいるので経過は良好と言えたが、それでも全治三カ月の大怪我である。亀裂骨折した部分はもう全て治っているし、そのほかの骨折もゾルディック家の正しい処置のお陰で大方くっついてはいるようだが、肋骨の方は複数折れている上、いかんせん周りの損傷が大きい。くっ付いたと言ってもすぐに回復とはいかないのだ。
「(やっぱり突っ込むんじゃなかったなー)」
今となっては後の祭だが、ただでさえ大したことない筋肉がこうも落ちてしまうとげんなりせざるを得ない。あのよくわかんない機械を、たいして外見に出ない筋肉のために延々ガシャコンガシャコン言わせなければならないわけか・・・うわあ。
左腕を色々と動かしてみながら、どこも違和感がないことを確認する。ヒビが入っていたのはすべて前腕で、ギプスも服の上からではわからないくらいのものだったので、関節が硬くなるような症状は出なかった。ただ、折れた鎖骨も肋骨も左側なのでそちらが完全に治るまではあまり重いトレーニングはできない。仕方ないのでこの間メイドさんが無言で置いて行ってくれたハンドグリップをギチギチ言わせているが、先述したとおり左腕は見事なまでにげっそりしている。二三日で元通りになっても気持ち悪いが、それでも早く直れと思うのが人情というものである。
と言う割に枕元に置いたハンドグリップには触れずさっさとベッドを降りて、私は机に置いた分厚い本とノートに向かった。せっかく時間があるのだ、曲がりなりにもハンターを目指す者として、それ相応の知識は身につけておきたい。とりあえずはどのハンター試験でも必要になるであろう基本的なサバイバル知識から始め、今はこの世界の地理的・地学的な知識――の、ほんのさわりの部分を重点的に収集しているところだ。
この「詳細全世界地図(解説つき)」の厚さは、痒いところに手が届く、シンプル且つ詳細な図と丁寧で親切な解説の厚さであり、日本の平均的な高校生である私には到底理解できないような難解な理論が書き連ねられているわけではない。とても優秀な教科書、と言えば的を射ているだろうか。
ちなみにこれは「一応地歴公民の基本的な知識は持っておきたいんですけど」と溢した翌朝、簡単そうな世界史と政経の本と一緒にここに積んであった。そのあとイルミさんが「オマケ」と言ってノートを五、六冊持ってきてくれたのでサンタ模倣犯の目星はついているが、なんにしても有難い。流石にバカではない自信はあるが、賢いかと訊かれたらいいえと答えるしかない程度の脳味噌しか私の頭には入っていないのだ。最近割と回転するようになった気もするが、そうでもなかったから胃に穴が開いたのである。――そしてこれも、私があえて勉強をする理由に含まれる。
チャンネル・ミミックはほとんどオートの能力である。リモコン操作以外では、私が逐一操作する必要はない――というか、そういう器用なことができないからあえてオートにしたとか、むしろオートである必要があったと言った方が正しい。
まず前提として私は何の心得もない一般人なのだから、アクロバットな動きはおろか、護身のためのちょっとした反応すらできない。それどころかむしろ当たりに行く性質だ。
それに加えて武器も使えない。ナイフや刀や弓なら辛うじて触ったことがあるからなんとかなりそうなものだし、実際なんとかなった例もあるが、私が知っているのは実際に戦うための動きではない。使いこなすに至るにはかなりの時間を要するだろう。ここで比較的訓練の手軽な銃を取るとしても、接近戦を避けられるだけの敏捷性がないのだから、結局同じことだ。私は絶望的に“動けない”のである。
だからそれを克服しなければならない。知っての通り筋力は微々たるものだし、鍛えていっても展望はないだろう。ならばもう念で底上げするしかない。しかし私は強化系ではなく操作系だから、肉体機能自体を補強するためには自分を操作するしかない。かつ、反射神経も動体視力も一般的なレベルのものしか持っていないから、いちいち操作するのでは反応が遅れるのは明らかだ。オート、という結論に至ったのは必然と言ってもいい。
――とか言うととても理論的に能力を開発したようにも聞こえるが、私のことなので結果として上手いことまとまっていただけであることは言うまでもなかろう。そこまで緻密に考えられるなら、あの時の動作不良だって予想できていたはずである。私の頭はそんなに優秀ではない。
そう、優秀ではない――何を隠そう、これが私がチャンネル・ミミックを扱う上で、最大のネックだったのである。
チャンネル・ミミックというのは、私自身をテレビに見立ててリモコンでチャンネルを選び、その番号に保存した技術や能力を番組として放送、つまり使用する能力である。――それでどうして頭が必要になるのか。オート、ようするに私の意識から離れて動く部分が多いのに。
簡単な話だ。私はテレビである。ようするに機械だ。機械にはそれぞれスペックというものがある。
この能力を作ったことで、私には“機械”を錆びつかせないことや、常にアンテナの範囲を拡大すること――換言すると“常に一定の努力を継続すること”、“常に己の向上を志すこと”、という義務が生じた。そしてこの義務を果たさなければ、私はチャンネルを受信――つまり使用する権利を失う、という制約になっているらしい。
まあ、権利を失うというのは大袈裟な表現か。NHKが受信料を要求する程度のものだと思うと近いかもしれない。
どちらにしても作り付けたつもりのない制約だが、テレビを素材にした時点で、どこかでは「テレビならあれはできるがこれはできない」という思考があったのだろう。テレビ様様という生活が記憶の一番最初にあるだけに、それに対しての思い入れは深い。
とはいえ面倒くさいのは事実である。本の文字列を追いながら要点をノートに写し、そういえばこんな課題やったことあったな、と頭を掻く。もとからそう勤勉というわけでもないので、制約に縛られているとはいえこの状況には違和感を感じざるを得ない。いや、確かにこのあたりの知識は必要だし、この程度の勉強は制約がなくてもするつもりだったが、なんだろう、お母さんに「あんたちゃんと勉強してんの?」「来週テストでしょ、いつまでもテレビ見てんじゃないの!」と、よりによってちゃんと勉強してる時に言われたあの感じというか、なんというか―――
「・・・・めんどくせぇ能力・・・」
もしかすると某カイト氏あたりもこんな気持ちなのかもしれない。彼の能力と違って意思を持っているわけではないが、めんどくささの度合いは似たようなものだろう。切り替えが自由な分、使い勝手は私の方がよさそうだが。
溜息を吐いて、それでも少し笑う。――これで能力は本当に完成した。まだチャンネルがないから戦闘という戦闘はできないが、チンピラAに絡まれて「キャー!誰か助けてー!」と泣き叫ぶ通行人Bの立場は脱したのだ。私は今や「キャー助けてー!」に「お嬢さんもう大丈夫ですよ!」と颯爽と現れる方、ようするにヒーローCになることも可能なのである。
「ふふ・・・よろしく頼むぞ、ミミックさん。」
チェーンを通して首から提げたリモコンを服の上から握ってニヤニヤしながら呟き、しばらくしてから自分の顔面の状態を想像して、慌ててきりっとさせた。いかんいかん、ヒーロー!とか言いたいんだったらもっと精悍な顔つきをしていないと。
しかしジャージの襟元からリモコンを取り出して相変わらずの重量を手にすると、私は前言をマッハで忘れてニヤリとした。
――これを受け取った時、ミルキは出世払いについて「べつに期待してない」とか言ってたけど、今の私にも稼ぐ方法はある。念でぼろ儲け作戦とか、能力で芸の一つでも覚えるとか。
「(なるべく近いうちに支払いたいなぁ)」
いかにもなメタルブラックのボディに鮮やかなライムのボタンとライン。色については何も言わなかったが、かなり好きな配色だ。これだけのものを作ってもらっておいていつまでも料金未納では申し訳ない。ただでさえこの家にはお世話になっているのだから、そういう意味でもさっさと試験に受かってさっさと出世するのが望ましいだろう。
リモコンを懐に戻して、改めて机に向かう。――さて、がんばるか。
「の経過はどうだ?」
キルアとの組み手を終えたところで、親父は急にそう切り出した。俺はちらりと床の上で気絶しているキルアに視線を走らせ、それから少し考えて答える。
「問題無い。いつの間にか吹っ切ってたし、治りも悪くはないみたいだよ。」
「そうか。」
親父はそう呟いてから目を逸らして、何か考えるような間を取ると、また口を開いた。
「もっと引き摺るかと思ってたが、案外平気らしいな。」
「あれ?始めから人殺しだろうが別に何とも、とか言ってたんじゃなかったっけ。」
「そうだが、まさか言葉通りとは思わなかった。期待の裏切り方としては良い方だがな。」
良い期待の裏切り方、か。――そういえば、ナイフの扱いは思ったより上手かった。ベッカーに攻撃するのも思いのほか躊躇わなかったし、殺し方にしてもあのやり方は予想だにしなかったものだ。カルトに手を出さない彼女が、あそこでああも思い切った行動に出られると誰が思うだろう。
「あんまり予想外の成長されると、ちょっとびっくりするよね。」
「お前にもわからないか?」
「の思考回路はちょっとよく。・・・でも、」
台詞を切って、またキルアを見る。まだ起きる気配は無い。
「俺達に不利益なことはしないと思うよ。多分彼女のポリシーだから。」
キルアの腕をとって背に担ぐ。まだの方がいくらか重いようだ、と頭の隅の方で考えて、扉の方へ踵を返す。親父は扉とは離れた壁際でまだ何か考えている様子だったが、俺が扉に手をかけるとまた声をかけてきた。
「あいつの体術の修行はどうするつもりだ?」
「うーん・・・正直よくわからないんだよね、教えれば覚えはするだろうけど才能があるかどうか微妙だし。とりあえず体力は可能な限り付けさせるつもり。」
「そうか。――まあ確かに今のままじゃ、実戦は容易じゃないしな。」
その通りだ。先月の戦闘もたまたま相手が武器を使わず、が武器を、とりわけ刃物を持っていたからこそああいう結果になっただけで、実力で勝ったというよりは運の要素が大きい。もし相手が武器を使っていたら失血死したのはの方だったはずだし、ナイフを持っていなければ彼女に反撃の手段はなかった。
「イルミ。」
「何?」
思考を一旦切って親父の方を向いてみたが、視線は合わない。また何か考えているようだ。
「あいつがひと通りの戦い方を覚えるのに、どのくらいかかるか分かるか?」
「覚えるだけなら一週間もいらないんじゃない?パターン化すれば彼女の能力でカバーできるし、もとから覚えは良いから。」
「なるほど。・・・ならあの手が使えるな。」
そう言った親父の視線がキルアに向く。――あの手、とは何の話だったか。記憶を手繰ってひとつ思い出したが、それを実践するのはどうだろうか。しかし親父は喉で笑いながら言う。
「この際体力強化は本人に任せて、天空闘技場にでも放り込んだらいいんじゃないか?」
「・・・面白そうだけど、彼女十中八九凄い顔するよね。」
その凄い顔を想像してみると中々どうして面白いわけだが、死んだら意味がない、と重ねて言った彼女を思い出して少し考え込む。が、あまり悩まなかった。
「うん。丁度昼だし、話してみる。」
「ふ・・・えっくしゅ!!・・・・痛たたた」
くしゃみの勢いで何か折れた気がする。いやたぶんそういうことはないが――なんだろう、風邪かな。メンタル的なことを差し引けばものすごく健康的な暮らしなのに?うーむ。
「・・・噂かな?」
そういえばどこかでくしゃみ一回は悪い噂だという話を聞いたかもしれない。まあ所詮は迷信だが、あるとすればカルト君あたりだろう。いつものことだから私はもう気にしない。
ふと卓上のデジタル時計を見ると、時刻は十一時五十分を示していた。――もうお昼か。案外集中できるようになってたんだな、と軽く背伸びをして立ち上がり、私は食堂に向かうべく部屋を出た。
