遠くの方でゴウンゴウン、と低く鈍い音を立てるエンジンに耳を傾けながら、私はぼうっとベッドに座っていた。少し離れたところにあるソファではキルアが頭の後ろで手を組んで寝転がっているが、たぶん起きているだろう。規則的とも不規則とも言い難いオーラの揺らぎを目の端に捕えたままにしておくと、彼は不意に立ち上がった。

「・・・お前、寝てなくていいの?」
「うん、しんどいわけじゃないし。」
「ヒマじゃない?」

よくわからない。暇かどうかすらも考えていなかった。とりあえず「ぼーっとすることに忙しい」と答えておいて、そういえばキルアはいつ入って来たんだろうと今さら首を傾げた。絶をした方がいいのはわかっていたが、なんとなくそれをする気にもならなかったので、本当にただぼうっとしているだけだったのである。その状態で普段から静かな彼に気付くはずは無い。

私がまた黙りこくると、キルアは何か言いたそうに傍へ来て、組んだ両腕をベッドの縁に乗せて床に座った。なんだか可愛いな、と思ってつい笑うと、怪訝そうな猫目がこちらを見る。

「お前ホント意味わかんねー」
「な、何でよ。普通にしてるじゃん。」
「それが意味分かんないんだよ。」
「は?・・・」

条件反射的に訊き返した口の形のまま、私はつい昨日の出来事を走馬灯のように思い出した。しかしやはり、予期していた以上の動揺は起きない。目を閉じて、溜息を吐きながらまた開くと、いやに真摯な眼をしたキルアが見えた。それから思わず目を逸らすと壁の時計が目に入る。秒針を無意味に目で追いながら、私はぼうっと思考を遠くへやった。

――私はあいつを殺した。殺さなければ死んでいた。あのタイミングでイルミさんが来てくれなければ恐らく、あいつを殺しても死ぬかそれに近い状態になっていた。

そういう瀬戸際に居たのだ。あれは正当防衛としか言いようがないし、更に言うならここはゾルディック家だ。そもそも殺しは一種当たり前とも呼べる行為であって、少なくとも今現在この場でお咎めを受けるようなことは有り得ない。程度の低い言い訳に聞こえるかもしれないが、私にとってはそれだけが事実である。人を傷つけることに対する生理的な嫌悪感こそあれ、倫理的にどう、道徳的にどうという考えはそう簡単には浮かばない。たったあれだけの距離にいたとしても、私にとって彼は結局赤の他人であり遠くの人間で、私の同情が及ぶ範囲には到底居ないのである。

だから、平気――と言っては語弊だが、ともかくそう堪えてはいない。今こうしてぼうっとしているのはあくまで、キャパシティオーバーで混乱しているだけなのだ。――と言って言い訳がましいのは仕方がない。これは単なる出任せだ。

またぼうっとしていると、キルアの手が目の前でひらついた。よく見ればさっきまで横にいたはずの彼が目の前にいる。ここで「うおほ」とか変な声を出して後ずさったらきっと微妙な顔をされるんだろうなあと思ったのだが、それをする気にはならなかったので黙ってその手のひらに拳を叩き込んだ。思いのほか強く打ち込めたが、キルアはハイタッチでもするような軽さで受け止めている。そしてそんなことは何でもないようにその手を下ろすと、私の顔から少しだけ目を逸らしながら、やや小声で訊いてきた。

「・・・はそれでいいの?」
「いいんじゃない?」

何も考えずに即答する。キルアは無言で私の顔を見た後、よくわからない顔をして廊下に消えてしまった。


そう広くはない部屋に、私はまた一人になった。しばらくは閉じたドアを眺めていたがそのうち諦めて時計に目をやる。それからこの飛行船に乗り込んだ時間をどうにか思い出して到着予定時刻を割り出し、向こうに着いてからのスケジュールの調整についても軽い足し算や引き算を済ませると、埋まるように布団を抱き込んで横になった。そして今度こそ絶をして、遠くで鈍く響いている音に首を凭せ掛けるように耳を傾ける。

――乳幼児はアナログテレビの雑音や高架下の鈍い轟音に類する音で胎内を思い出して泣き止むらしい。深いところであれだけ揉めていたのに今はやけに落ち着いて、あっさり眠りに落ちかけている自分の意識はどうやらそんな程度のものらしい。

そう思うと私はやけに安心して、今度こそ何も考えずに、薄暗くて温かい方に意識をやった。
息を吐いて鼻まで布団の中に埋もれると、ゾルディック家に充満する無機質なにおいが肺に渦巻く。私はそれをゆっくりと吐き出し、恐らくそのあたりで完全に意識を手放した。









「どうだった?」
「べつに・・・いつも通り。最初俺に気付いてなかったみたいだけど、そんだけだよ。」
「そう。」

イル兄はそう言って、特に何と言う風もなしに廊下の方に歩いて行った。たぶんのところへ行くのだろう。角を曲って姿が見えなくなってから、そばにあるソファに座る。

――あいつ、イル兄になら何か話すのかな。

そうふと思って、そうだろうなと自分で頷く。あいつが俺に話したことと言えばぼんやりした“ここに居る理由”と“持論”とかいうものだけだが、兄貴は明らかにそれより多くの情報を把握している。
別にのことが知りたいと思うわけではない。でも、ここに来て段々とあいつの妙な部分が浮き彫りになっている気がするのだ。目につくのは仕方ないと思う。

はよく、自分は普通だと言う。たぶんそれは嘘じゃない。泣きごとを言いたいのか強がりたいのかよくわからないトーンで俺に愚痴を言ってきたあれは、すごく普通だったと思う。でもそれがずっとそのままだったわけじゃないはずだ。

「・・・人殺して、自分も大ケガして、・・・にしてはなあ。」

――あいつ、あんなに素っ気ない奴だったっけ。

カルトに対しても、最近じゃやり返すようなそぶりすらない。カルトを助けに飛び込んでああいうことになったのに、そのカルトがまた喧嘩を売った時、あいつは怒るどころかたいした反応すらなかったと、カルトから聞いた。

これが人を殺したことにショックを受けて、とかいうのならまだわかる。でも違う。あいつの素っ気なさはもっとずっと前から少しずつ表に出て来ていたのだ。イル兄の次くらいには喋ってるだろう俺でも気付かないくらい、ものすごく、ゆっくりと。

――『馴染んでんじゃないの?』

「・・・馴染むわけないんだ。」

あいつは、違う。変な奴だ。でも別に違和感があるとかいうわけじゃないし、あいつが何度も主張してた通り、普通の人間だとは思う。けど違う。今はもう細胞レベルで意味分かんないと言ってもいい。何かが違う。違和感はないのに、違うと思う。
もしかしたらただ俺に何も言ってないだけかもしれない。その可能性を考えても、やっぱりあいつは変な奴だとしか言えなかった。








ノックの音で目を覚ました。
眠っていたのは居眠り程度のごく短い時間だと感覚でわかるのに、なんだかとても深いところにいたような気がする。起き上るだけ起き上ってまたぼうっとしてしまっていると、音を最小限に抑えたようないつもの動作でイルミさんが入って来て、そのまま立ち止まらずにベッドの縁に座った。まだ仕事着だが、雰囲気はいくらかやわらかい。まあ実際にはそのあたりの違いなんてわかったような気がするだけなのだが、女の勘とかいうものが私にもあることを期待してそうだと言い切っておこう。手持無沙汰に後ろ髪を手ぐししていると、彼はくるりとこちらを向いて数秒黙った。な、なんだこれ怖い。

「・・・体調は?」
「あ、はい、問題無いです。」
「なら、とりあえずはいいや。」

――とりあえず?
なんだか引っかかる言い方だ。少し首を傾げると、イルミさんが珍しく矢継ぎ早に訊ねてきた。

「君は、嘘は吐く?」
「え?・・・ああ、まあ・・・本当のことを言わないことはけっこう多いですけど。」
「じゃあ、今嘘を吐いてる?」

私は沈黙した。それでもイルミさんの目を見て答える。

「・・・本当のことは言ってません。」
「事実を話すと何か支障でもあるの?」
「下手すると死にます。」
「死ぬのが嫌、か。」
「そうですよ、帰るのが目的ですから。死んだら意味ないです。」

似たようなことを何度か言っているので、またこの話題か、と少し笑うと、彼が首を傾げるような仕草をした。私はそれですぐにカルト君のことを思い出し、何か訊かれる前に答える。

「でも、死ぬのがそれほど悪いとも思ってないみたいです。」
「・・・それがカルトにやられても怒らないわけ、と取っていいみたいだね。」

イルミさんは何か溜息でも吐きそうな声でそう言った。そしてまたすぐに訊いてくる。

「そう思う理由は?」

真っ黒い、奥がないようにすら見える目がこちらだけ見ている。今はそれほど高い位置にはないが、これが完全な煽りの画になると、もっと兄貴の、私が最後に見たあの顔に似るのだ。これまで何度も思ったことなので特に感慨もなくその猫目を見返して、何を言えば適切なのかわからないままに、ただ口を開いた。

「父さんが、・・・?」


『お父さんは遠くに行っちゃったよ。』
『帰って来れないくらい遠くだ。』


――遠く?・・・帰って、来れないくらい?

「(それって)」
?」

呼ばれてはっとし、同時に爪先から這い上がってくる嫌な冷たさに目を細める。

「・・・父が死んだのを、長いこと“遠くに行った”と理解してたので」

一息置いて、イルミさんの顔を見ずに呟く。

「自分はもう死んだようなものだと思ってるのかもしれません。」


イルミさんは何も言わなかった。
遠くの方で鈍い音を立てるエンジンは相変わらず私をじわじわと暗くて温かい方に引き摺っていく。ぼうっとしながら「そういう考え方もできるってだけですけど」と付け足すと、イルミさんは何か言って部屋を出ていった。何を言ったのかちゃんと聞きとったはずだったが、私はもうほとんど寝ていたらしく、次に起きた時には覚えていなかった。




written by ゆーこ