鈍く唸るような音がゆっくりとした速度で刻まれていく。
不思議とどこも痛まなかった。ただ音だけがゴツゴツと響く。しかしその音も十秒ほどで消え、今度は完全な静寂が訪れた。

――ああ、終わった。

自覚すると奇妙な安心感が爪先の方から順に押し寄せてきて、喉元のあたりで一度つかえ、それから焦れるほどゆっくりと、意識が黒く塗り潰されていく。その黒さは灯りをすべて消した修行場のそれに似ていたが、決定的に違うのは、奥がないことだった。どちらかというと怒った時の兄貴とか、イルミさんの目の方が近い。

しかし、正しくは、私はその色を見てはいなかった。黒がどうとかいうのは想像の話で、実際にはひどくゆっくりと意識を失っただけだ。そして完全に現実から切り離されたところで、私は唐突に目を開いた。



そこは広い部屋だった。覚えのある場所だ。本物より随分間延びしているが、確かに父さんの通夜で親戚中集まって騒いだ我が家の和室兼仏間である。
そこのやけに長くなった座卓に寄り掛かって、母さんが一人ウィスキーを傾けてぼうっと座っていた。その目は赤く充血し、睫毛はすっかり涙の重さにしな垂れて正しい位置にない。弱々しい手首がその目元を拭うのを眺めながら、私は座布団に座った。半端に冷えた布地に膝を揃えると、母はほとんど氷だけのグラスをカラカラ言わせながら、ぐったりした目でこちらを見た。

「・・・私ねえ、死ぬなら、格好良く死にたいのよ。」

声はひどく掠れていたが、確かに母のものだった。改めて聴くとやはり親子であると自覚せざるを得ない。お祖母ちゃんなんて電話口で毎回「あら、どっちかしら?」と訊いてくるし、母さんの友達に母さんと間違えられたまま話を進められてしまったこともあった。
言葉は聞き流して声に口元を緩めると、彼女はまたかすれた声で続ける。

「働いて働いて・・・うわぁそりゃ死ぬわ!って、くらいにさぁ・・・生きてから。・・・だから、あの人根性なかったなあって、思うわけ。」

母はそう言って薄暗い仏具の山をいとおしげに眺める。私もつられて視線をやれば、父の遺影は相変わらず若く、やつれても影が差してもいない。無論、予想していなかった人の場合、遺影の写真というのは生前のものから選ぶので、死に顔とギャップを感じるほどに生き生きしている場合がほとんどだろう。しかし、そうとわかっていても不思議に思ってしまうくらい、私は彼のことを、特に彼の死を、全く知らなかった。

「あんたは、ちゃんと長生きしなさいね。それで真っ当に死になさい。でも早死にするなとは言わないわ。好きなことしなさいよ。」

遺影を見たまま、横に母の声を聞く。――私は真っ当に死んだだろうか。

「だけど、いきなり居なくなるなんて嫌よ。そしたら葬式なんて、挙げてやらないんだから。」
「・・・母さん」

ずるり、と視線が傾く。座布団の感触がぼやけて、母さんの左手とグラスと黒い着物だけちらりと目の端に留め、私はそのまま下へ落ちて行った。



次に見たのは、絵に描いたような三途の川だった。なんとなく重苦しい灰がかった赤紫の空の下にはとても綺麗とは言い難いくたびれた花畑が広がっていて、その中に一本の川が流れている。流れは穏やかで、幅がかなりあるようだが、不思議とそれほど広大な印象は受けない。遠近感のない場所だった。
その緩やかな川の上を、頼りない渡し船が一艘行き来していた。その順番を待つ死に装束の列は私のいるところから遥か遠くにあるようだ。

そこでふと自分の着ている服を見る。どうしたことかキキョウさんチョイスのセーラー服のままだった。こんなに黒くてはあの列には並べまい、と辺りに何か代わりになりそうなものがないか探してみると、私は背後に丁度よさそうな白い服を見つけた。――これを借りよう。

手を伸ばして引き寄せ、袖を通そうとして、私はやんわりと止められた。頭の上から額のあたりに覚えのある質量がとんと乗り、目の前にあった白い服の中に濃いグレーのスーツが現れる。ネクタイはいつもの紺で、白衣の胸ポケットにはペンが三種類差してある。そのうち一本は私が普段ラインマーカーにしていたのと同じ種類だ。それをじっと見ていると、頭の上の手は私の髪を一回り掻き回すように撫で、よし、とでもいうようにひとつごく軽く叩いていった。

「お前はまだこっちに居な。」

しんと馴染んで行くような声色に、私は思わず顔を上げる。兄貴は気の抜けた顔で笑いながら、私の肩を押した。やけにリアルな質量にひやりとする。

「ほら、さっさと戻れ。」
「でも」
「いいから。」

兄貴の手がぐっと私を地面に押しつける。瞬間、先程と同じように私の視線はずるずると落ちて行った。必死に上を見ても視界はぐらぐらと不安定に揺らぐだけで何も見えない。諦めて目を閉じると、頬にじわりと温かいものが滲んだような感覚がした。



「(・・・・あったかい)」

目を閉じたまま息を吐き、探るようにオーラを蠢かす。それからようやく現状を思い出して、動かない男の下から這い出ようともがいたが、どうやら自由になるのは右の肘から下と首だけらしい。それ以外は痛いか動かせないか痺れているかだった。怪我はもちろん、たぶん完全に男の下敷きになっているのだろう、と冷静に判断しながらも、吐き気に変わるほどの痛みに顔をゆがめる。――やばい、これは駄目だ、動けそうにない。薄目を開けて回りを見ると、男の脇の下あたりから外が見えたが、相変わらず遠くで派手な戦闘音が聞こえてくるだけだ。――で、戦闘が終わっても、もしかしたらこのまま放置かもしれない。
――い、いや。たぶん誰かしらが気づいてくれるさ。ゾル家といえど常識人は存在する。それでも連れて来といて放置なんてオチだったら、とりあえずゾル家の次男が前にキではじまってモでおわる二文字の言葉がついても仕方のないレベルのオタであると言いふらしてやる。今回全く罪のないミルキになぜか白羽の矢を立てつつ、私は再び目を閉じた。そしてぼんやりと考える。

「(・・・何か、兄貴の夢見たなあ。母さんもいた)」

撫でる手の感触の名残はもちろんない額を少しだけ傾け、うつ伏せた頬が男のものだろう血の海に溺れていたのを浮かせる。瞼がぬるま湯に浸かったような感触は無視した。今さら血くらいで騒いでも仕方がない。

「・・・」

口で息をして、もう一度身体を持ち上げる。――痛い。重い。眠っている人間が重たいのと同じように、死体もまた重いのだろう。それによく探ってみれば、どうしたことか私のオーラはいつもの半分も出ていない。纏もまともにできていない状態だ。言わば防御がゼロに近い。これでは潰されるままになるのも仕方ないだろう。

「(・・・いや、それより、何でオーラ減ってんの)」

辛うじて動く右半身で探り、はたとポケットの違和感に気付く。手を伸ばしてみると、どうにか痛みが増さないうちに機械的な熱に指先が触れた。リモコンだ。

「・・・うご、いてる?」

――チャンネル・ミミックは基本的に自動操作オートの能力である。しかしだからといって私の意思を離れて動くほど確立されてもいない。それがどうして私の知らないうちにオーラを食うほど動いているのだろう。

思えば、予想した通りに動かなかったところからおかしかった。――いや、それについては他にも色々と解釈の方法はあるが、とりあえずこの場合に限定して考えるとおかしい。私はこの能力の開発に必要な修行はまんべんなくこなしているはずだから、まず動かないというのは納得いかないし、そもそも、電源は入るのにそれから先がないという状況も変だ。念がなければ単なる金属と樹脂の塊であるコレで私本体の電源が入るということは、つまり念として作用しているということである。ずっと思っていたように、使いものにならないにしても、そういう中途半端な使えなさは少し理解に苦しむのだ。

私はポケットの中でリモコンを引きよせ、電源ボタンを押してみた。鈍く振動するような音のあと、雀の鳴き声を倍速再生したようなチュン、という音がして頭の奥が暗転する。――電源はもとから入っていたようだ。そういえば切らないでポケットに突っ込んだような記憶がある。
あのときの男も腕が飛んでたっけ、と思い出して口を噤むと、薄暗い視界で辛うじて見えるオーラがふっと膨れ上がり、同時に思考が途切れた。――というか、痛みで一瞬気を失った。

「ッ――――!!??」

声にならない声を上げ、我慢する暇もなくかっと熱を帯びた目もとをぎゅっと押し込めながら、死に物狂いで男を撥ね退ける。高さで既に私の倍はある彼をほとんど右手だけの力で動かせるはずはもちろんなかったが、そうする以外に痛みからの突破口が見つからなかったのだ。これはもう、力を込めたら痛いとか、体勢を変えたら痛いとか、そういう次元の痛みではない。こんなに痛くては、多少痛みが増しても早いところ抜け出さないとショック死するんじゃないか、と、実際にはこれほど冷静な思考はできていないが、だいたいそんなことを考えて、私はもがいた。

「(やだやだやだやだやだやだ痛い痛い痛い痛い痛い!!)」

口からぼたぼたと鉄くさいものがこぼれていく。――まだ止まらないのか。どうなってるんだろう、そんなに派手な穴が開いたんだろうか。塞がるのかな。内臓に刺さった骨ってどうやって抜くんだろう。やっぱり体を切るんだろうか。また縫い目増やすなんて、どちらへ転んでも怖い結果が待っているようだ。
もう何がなんだかわからない。顔から落ちていくのは赤黒い血のようにも思えたし、涙とか鼻水とか鼻血なのかもしれない。痛みはもう痛みを通り越して単なる形容し難い苦痛に変わっていた。私自身、もがいているのか無駄な動きをしているのかよくわからなくなっている。そしてどちらにしても意味はなさそうだ、というのが悲しい事実だ。
しかし、実際の私はやはりそんな風に冷静には思考していない。ただ苦痛から逃れようとじたばたしていただけである。こんな悠長なことを考えたのは、視界がふっと明るんで、痛みが半減したその後だった。

「お疲れ様。随分頑張ったみたいだね。」

唐突に降ってきた声。次いで隣でドサ、と鈍い音がし、私の上半身は少しだけ高いところに移動する。生ぬるい液体から掬い出された頬に、冷たくてさらさらしたものが触れた。閉じていたのか開いていたのかもわからない目を辛うじて動く右手首の袖で擦ると、真っ黒いネコ目が見えた。
――ああ、イルミさんだ。ぼうっと考えながら、しばらくの間は自分がこのほんの数十秒の間に置かれていた状況を改めて再生して思考しなおし、それが落ち着いてからようやく何か御礼を言わなければならないのだと気付いたが、私が口を開くより先に彼がいつもの単調な口調で訊ねてきた。

「息は大丈夫?」
「・・・苦しくは、ないです。」
「じゃあ肺には刺さってないか。鎖骨折れてるみたいだから循環器系の方が危なかったと思うけど、運が良かったみたいだね。」

左の鎖骨のあたりを軽くなぞりながら彼はそう言い、そしてふと私を見る。

「通信機、なんで使わなかったの?」
「・・・・忘れてました」
「・・・それもどうかと思うけど、親父の指示で下に行ってこうなったんだから、あとで文句言っときなよ。普通の敵ならともかく、こんなでかい念能力者溢すなんてどう考えても親父と祖父ちゃんの職務怠慢。死ななくてよかったね。」

イルミさんはそう言って、子供でも抱くように右腕一本で私を抱え上げた。おいおいちょっと待てこれ絵的におかしい、とは思ったが、この世界ではこういうビックリドッキリな筋力が有り得るのである、と適当にそれっぽいモノローグをつけて目を閉じ、彼の肩に頬を預けて大人しくした。

「でも、どっちかっていうと死ぬかもしれなかったのはカルトの方か。」

――せっかく大人しくしたのに突然耳もとで喋らないで頂きたい。
シルバさんのしっぶい声ほどではないにしても、こう近くで声出されるとぞわぞわする。別に悪い意味ではないが、今はどう考えてもそういう状況ではないため、無言で首を竦めるに留めた。

は人助けが趣味なの?」
「・・・そういうわけでは」
「じゃあ、俺達を助けるのはどうして?」

体を起こしてイルミさんをちらりと見ると、彼の横顔はひどく真面目だった。といっても無表情なので厳密にはいつもの顔なのだが、声色に皮肉とか、こちらの反応を窺うような様子がないのでそう判断した。真面目というか、素なのだ。その疑問は至って自然に湧いて出たように思える。
私は数秒考え、そして頬をそっともとの位置に戻した。

「・・・はっきりした理由はないです。」

好きだから。知っているから。世話になっているから。条件反射で。全て事実だったが、それではどれも少し的から外れているような気がするし、なんとなく、と言っては身も蓋もない。ぼかした表現で答えると、イルミさんは数秒何か考えるように中空を眺め、それからさらに一拍置いて、私の頭をぽんと叩いて言った。

「・・・その怪我治ったら体術やってみる?能力使えば良い線行くんじゃないかな。」
「だと、いいですけど。」

へらりと笑って、そのまま目を閉じる。痛みは変わらず頭の奥まで響いてきていたが、人肌の温度はひどく安心する。

「眠いなら寝てもいいよ。」
「・・・お言葉に甘えて」

返事を呟くと、じわじわと眠気がやってきた。――そういえば、一人でない眠りは久し振りだ。向こうでも一人部屋になって長いし、もう十年以上こんな距離では眠っていない。
その久し振りの誰かがよりによってイルミさんとは、なんだか変な感じだ。ゾル家にはもうほとんど慣れ切ってしまったから今さら威圧感がどうとかいうことは無いが、普通に考えれば恐ろしいことこの上ない構図である。それだけに美味しくもあるわけだが、痛みでそれどころではない。もっと余裕のある時に堪能したかった。痛みに集中しないよう思考をを遠くへやって、項垂れる。背を丸めると少しだけ痛みが和らいだ。

「(・・・イルミさんも大概“お兄ちゃん”だよなあ。)」

そんなことをぽつりと考え、一瞬瞼を浮かせて、また閉じる。妙な安心感に埋もれながら、私は思考を手放した。





written by ゆーこ