「・・・」
しんと静まり返った広い部屋の隅に寄せた家具をひとつひとつ確認し、収まりが悪くて置いたついたてに映る間延びした影を動かしてみたりしながら、少しずつ重たい瞼を持ち上げる。欠伸をして伸びをして、ひととおりの柔軟体操をしてみると、眠気はあらかた吹き飛んだ。早速ベッドからずるずると降りて、つい一週間ほど前メイドさんが無言で設置していってくれたストーブを点ける。このだだっ広い部屋を暖めるにはこれ一つでは明らかに足りないので、私が生活スペースをおいたのとは対角線の角と入口付近にもひとつずつ似たようなストーブを置いてもらっているが、普段稼働しているのは今のところこれだけだ。この部屋はどうやら山の腹を彫り込んで作った中でも一番奥にあたる部屋らしく、夏涼しく冬場はそれなりに温かいのである。丁度よく湿度もあるので実に快適だ。べつに特に寒さに弱いわけではないし、貴重な資源を一人で無駄に消費する必要はない。だんだんオレンジに光りはじめたストーブを眺めながら、こっちの世界でもガソリン値上がりとかあるんだろうか、と考える。単に暦で言うならこちらは向こうより十年ほど遅れているので(冨樫さん頼むから頑張ってくれ)単純計算で十年後にはそうなるはずだが、この世界は経済!経済!という意気込みがそれほどないような気がするので、割ともつのかもしれない。――そうだ、仮にもハンター目指すんだから、そういうことも勉強しておかないと。
考えているうちに付近は大分暖かくなった。ストーブのツマミをひねって火力を弱め、またしばらくぼうっとしてから、クローゼットの前に立つ。
「・・・水曜日だよ!ご開帳!」
ええい!と軽い扉を開けると、借りパク勢に紛れて一着、妙な威圧感を醸し出す服がある。――そう、アレだ。月曜の拉致監禁事件で、あのあとがっつり三時間を要して選び抜かれた、私の一張羅(仮)である。
五秒ほど間をおいてからそっと取り出し、そっとベッドに置く。そしてじいっと見下ろし、さらに十秒ほど間をおいて、それからようやく手に取った。
不幸中の幸いと言うべきか、キキョウさんはセンスがよかった。あの部屋にあるカルト君の服も、カルト君がかわいいからって無差別に選んでいるわけではないようで、どれも彼に当てはめると驚くほどしっくりくる。最近ハマったという着物も、ものすごく高価そうなものがずらりと揃えてあったが、黒地や赤地のしっとりとしたものが多いのに対し、よくあるごちゃっとしていて派手めな柄物は全くない。
と言ってもカルト君である。あの可愛さでは似合わないものの方が少ないのは事実だ。そういうわけで、カルト君のために、彼の成長をある程度見越したところまで揃えられたあの大量の服の中には、ごく稀にだが素顔の私が着ても衣装負けしない程度には体裁を保てるものもあった。中でも違和感なく着られそうなものが、普段から着慣れていた制服類と、先に挙げた着物だ。
着物なら丈の融通も効くし、自国の伝統衣装でもあるので断る理由はなかった。が、当日はカルト君も着物の予定だそうで却下だ。着物を着る機会など無に等しいので少々残念ではあったが、よく考えたら動きの鈍さに拍車が掛かるだけで特にメリットもなかったのでよしとする。
というわけで自動的に選択肢は制服類のみになった。まあ、制服と言ってもご存じの通り一口には言えないので実際には結構な種類があったのだが、着せられ脱がされを繰り返して、最終的にはあっさりと一着に絞られた。それがこれだ。
簡潔に言うならセーラー服。黒地にほとんど紺に近い青のライン、同じ色のリボンで、こんな色合いの制服を高校受験のときに見かけているのでなんとなく馴染みはある。中高とブレザーだったのでセーラーに対してはあこがれもあるし、別に着るのは嫌ではない。――問題はこの何かがチラッとしそうな丈だ。
はじめ試着したときはこれも膝上程度だった。カルト君もあれで男の子なので、ズボンならまだしもスカートでの生足露出はあまりないらしい。が、キキョウさんの突然の謎の指示によりメイドさんによってその場で裾を切られ、その結果がこの丈である。この掠り傷だらけの足を出して何が楽しいんだ、と思っていたらタイツを渡されたが、どっちにしろ出ていることには変わりない。そこで「スースーします(笑)」とソフトに苦情を言ってみたところ、やはり無言でもこもこした一部丈のオーバーパンツを渡された。確かにこれで私の色気のない何かがチラッとすることはなくなったが、まだ丸出しの足について何も解決していない。
その未解決事件を着込み、タイツともこもこパンツと小学校の入学式で似たようなのを履いた記憶のある靴を装備する。見た目は革のようだが滑ったりつんのめったりせず無駄に歩きやすい。これではうっかり何かを避けそこなったときの言い訳にもならないだろう。
そこでようやく部屋の入口にあるスイッチのところまで行って電気をつける。――明るいところで見るとさらにきわどい丈だ。クローゼットまで戻って扉の内側についている鏡で見たが、踝から太腿までの空白(真っ黒だが)地帯がとても気になる。
「・・・スースーしますよ奥さん」
蹲ってみたらもこパンが見えた。・・・暗殺の現場覗きに行くってのに、なんてガードの薄い装備なんだ。
「全員揃ったようじゃの。――行くぞ。」
いつもと全く変わらない様子のゼノさんが顎をしゃくって合図するのに皆が従う。私はそれに遅れないようついて歩く。
着替えてから一時間ほど部屋をうろうろして、羞恥心とは別れを告げてきた。もういい。見たい奴は見るがいい。その代わり目が腐っても私は一切責任を負わんぞ。はん!と音は立てずに鼻で笑いながらインナーの上につけたホルダーのナイフを確認し、ついでに袖やスカートの裾もいじってみたりして、ゆったりとした歩みの彼らを早足に追う。
しばらく追い続けると、やがて飛行機の搭乗口のような通路に入った。ここに来た日にも一度小さな飛行船に乗せてもらっているが、あれとはまた違う飛行船のようだ。自家用機というだけで庶民とは既に世界が違うと言うのに、それが二機、あるいはもっと沢山とは。一体どこまで住む世界を変えれば気が済むのだろう。もうちょっと庶民的でもいいんじゃないか。
考えているうちに飛行船内の通路を抜け、ホールのような開けた場所に出ていた。そこでまたゼノさんが口を開く。特に大事な話ではないのか、半分背を向けたままだ。
「目的地に着くのは今日の午後四時過ぎ。各自気を緩めんように。」
その言葉に、シルバさんは無言、キキョウさんは微笑んで、カルト君はその陰にそっと隠れるようにしている。なんか可愛い。キルアははいはい、と小さく呟いて、めんどくさそうにそっぽを向いていた。マハさんは・・・宇宙人だ。あれは笑っているのか、素なのか・・・
「おいカルト、娯楽室行こうぜ。」
「はい、兄様。」
「も来る?」
娯楽室なんかあんのかよ!というツッコミをいつ入れようか迷っていたのだが、どうやらタイミングは完全に逃したらしい。私は一瞬かつての生傷たちを思い出して迷い、しかしこちらを窺っているカルト君の目に特に嫌悪のようなものが見えなかったので、頷いて彼らに続いた。
娯楽室というクラシックなネーミングの割に、その部屋にあるものと言えばキルアがやっていそうなゲームや地元の古本屋で見たことありそうな古めの漫画が主で、チェス盤や将棋盤は隅に追いやられて寂しげに佇んでいる。この様子だと、きっと普段は暇潰しくらいにしか使われないのだろう。それでもかなりきれいになっているのは流石だ。使用人さん方は本当によく働く。
漫画だらけの本棚からなんとか探してきたあまり面白くないSF小説を読みつつ辺りを眺め、ぽつりと訊ねてみた。
「ゼノさん『気を緩めんように』とか言ってたけど、これって気緩んでないの?」
「べつに。いつもこんなんだし。」
なあ?と同意を求められたカルト君は一瞬考えて頷き、サイコロを振って駒を進めた。キルアが舌打ちして駒を下げる。どうやらこれは戦争に見立てた双六らしい。駒を数個とり、その駒をいくつかのルートに分けて進めていく。地雷マスや攻撃マスが点在する中、先に敵陣を占拠した方が勝ち。というわけだ。最初にとった駒が多くても攻撃マスの種類によっては全滅することもあったり、相手の駒をとって自分のものにしたりもできるらしい。
「(・・・にしても可愛くない双六だなぁ)」
和気藹々としているようにも見えるが、題材が戦争ではほのぼのした状況とは呼べまい。それでも楽しそうにサイコロをふる二人にゾルディック家の恐ろしさを感じる。丁度小説に飽きたので返却がてら本棚を確認してみたが、だいたいが殺戮漫画だった。ハンターハンターが好きなのだから私はこのくらいどうということはないが、なんとまあ、情操教育に悪い家なんだ。
「・・・キルア、カルト君、私寝ますんで、ちょっとしたら起こしてもらえます?」
「んー。おやすみ」
サイコロを振りつつ手も振ってくれたキルアに「どうも」と返し、二人から一番遠い、奥のソファに横になる。見えるとアレなので腰に膝掛けをかけてから目を閉じると、案外すぐにうとうとし始めた。――やはり二時起きは無理があったようだ。埋もれるように背を丸め、深く息を吐いたあたりで、私の意識は完全に途切れた。
「連れてきてよかったのか?あいつ。」
依頼主から送られてきた資料を捲りながら、特に気にかけている様子でもなくシルバは訊ねた。
今回の同行を決めたのはイルミだ。彼女の修行をすべて見ているあやつが「問題無い」と言うのだから、そうなのだろう。
確かに、彼女の防御力や危機管理能力は高い。特に気を割かずとも自分の身くらいは自分で守るはずだ。「ただでは死なない」という意思の強さもある。――まあ、意地を張りすぎて無理をすることもあるようだが。
カルトとの一件を思い出し、溜息を吐く。戦闘放棄してイルミにでも助けを求めればいいものを、明らかに挑発である決闘に乗るとは、義理がたいと言うか馬鹿と言うか。これで決着がついたからかカルトがを特別に敵視することはなくなったので結果オーライと言えばそうだが、無謀とわかっていて首を突っ込む度胸は考えものである。
しかし、あれはカルトと決着をつけなければ事態の収拾がつかなかったからこその行動のはずだ。今回は特に謎の度胸を発揮することはなかろう。イルミがどこをどう判断したかは分からないが、概ね問題無いのは確かである。
「まあ、大丈夫じゃろ。少しでも危険だと思ったら消えるよう言っておくつもりじゃが・・・今回は数が数だからのォ、逃げたつもりが袋の鼠ということもなくはない。」
「その場合、どうするんだ?」
「近くにおれば手は貸すわい。あやつが出て行こうとしたのを引き留めたのは、他でもないワシじゃからな。――近くに誰も居らなんだら、それはもう仕方ないがな。」
今まで見ていた窓に背を向け、傍の椅子に座る。メイドを呼んで緑茶を頼むと、シルバも資料を置いて同じものを頼んだ。もう読み終えたらしい。
「・・・カルがな。」
「ん?」
「あいつは何者だ、と訊いてきたんだ。あの決闘のすぐあとに。」
「ほお。・・・で、お前はどう答えたんじゃ?」
「裏の事情は知ってるが、もとはただの一般人だと言っておいた。・・・だが、カルトがわざわざ俺に訊きに来たのが気になってな。何か気になることでもあるのかと訊いたら、なんでも決闘の最中イルミと同じ目をした、とか。」
「・・・練の圧力ではなく、か?」
「ああ。キキョウも様子を見てたんだが、ずっと纏しか使ってなかったそうだ。・・・まあ、もとからの兄がイルミと似てるとか、言っていたからな。単に表情の問題かもしれないが・・・」
メイドが茶を運んできた。受け取って啜りながら、湯気越しにシルバを見る。向こうは一口啜るとすぐに湯呑みを置いた。
「キキョウが言うには、その“目”とやらでカルトが一瞬怯んだらしい。だがあいつが素人の単なる睨み付けに怯えるとは考えにくい。」
「は中々いい人相しとるしな。」
「ああ。見た目だけで恐怖心を煽ることができるとは思えない。・・・親父はどう思う?」
「さあな。ただ、あやつは成長しとる。」
湯呑みをテーブルに置き、シルバの前から資料を取る。
資料にはこれから潰すことになる組織の判明しているメンバーのうち、念能力者がリストアップされており、これも判明している限りだが能力の概要も書いてある。それによると中々厄介そうな者が数名いるが、あとは雑魚だ。無論ここにある以外にも念能力者がいる可能性はあるが、急成長しているような組織であれば、いちいち爪を隠している余裕はあるまい。
「あやつに一般人という言葉はもう不適切かもしれんな。もとから吸収しやすい性質じゃ、ワシらが思っとるよりずっと、こちらに引き込まれとるのかもしれんぞ。」
それが良いのか悪いのかは、断言できないが。それだけ言って部屋を出た。
――はキルア達に付いて娯楽室へ行ったんだったか。忘れないうちに指示をしておこう。
「・・・ボクの勝ち。」
「ちぇー、いいとこまで行ったのになあ。」
カルトの駒で埋まった自陣にがっかりしながらも、あともう少しで勝てただろう駒の配置を見るとこれで終われない気がしてくる。負けた原因もはっきりしてるし、ここでやめるのはもったいない。
「おい、もう一回やろうぜ。今度俺がそっち側な。・・・カルト?」
反応がないと思ったら、カルトは部屋の奥で眠っているを見ていた。――そういえばもう三十分は経った。しばらくしたら起こしてくれとか言ってたから、そろそろ起こし時だろうか。
「・・・・いーこと考えた。カル、ダーツやろうぜ。の頭の上に的置いて!」
「・・・いいけど、あいつ怒らない?」
「んー?怒るだろうけど、マジでキレたりはしねーよ。手出してきても全然痛くねーし、そもそも怖くもないしな。でも反応おもしれーから、やろうぜ。ほら。」
双六を手早く片付け、ダーツの道具を探す。確かどこかの本棚の上にあったはずだ。あまり使われないものは全部上の方に仕舞われている。
「えーっと、どこだったかな・・・」
抜き足での寝ている方へ近づき、慎重に本棚をよじ登って上を探す。二つ目を調べたところで、一番角に目当ての箱を見つけた。が、そこはちょうどの足元だ。静かにやらないと起こしてしまう。
「よっ・・・と」
そっと箱をとってカルトに投げ、自分は静かに本棚から降りる。その時左肩がの爪先にかすった気がしたが、引っ掛けたわけでもないし、起きるわけはないだろう。気にせずカルトのもとへ戻ろうと立ち上がると、ぎぎ、と何かが軋む音がした。次いでドアが開く。
「あ、祖父ちゃん。」
「はおるか?・・・なんだ、寝とったのか。」
「すみません・・・何か御用ですか?」
ぎし、とソファを軋ませながらが立つ。――うそだろ、さっきので起きたのかよ!俺が驚いているとはこちらをちらりと見て、少し眠たそうに笑った。そしてすぐに祖父ちゃんに視線を戻す。
「いや。用というほどのことではないが、今日のことで少しな。」
「はあ・・・場所、変えた方がいいですか?」
「構わん。“少しでも危ないと思ったらすぐ逃げろ”というのを言い忘れとっただけじゃ。あとは・・・そうじゃな、いざとなったら躊躇わずに殺せ。どの道誰かに殺されるんじゃからな。」
「・・・いざとならないように全力で逃げます。」
「かといって逃げっ放しじゃ着いて来る意味がなかろう。」
「じゃあ全力で隠れます。」
「隠れると逃げ場がなくなるのは痛いほどわかっとるじゃろが。」
「うっ・・・と、とにかく、善処はします。」
「心配するな、死んだらちゃんと葬ってやるわい。」
真面目な顔でそう言う祖父ちゃんにものすごく微妙な顔をしたを、俺はじっと観察する。――べつに、いつもと変わらない。着ているのが珍しくオレの服じゃないくらいだ。表情を見ても特に緊張している風もないし、至っていつも通り・・・
「(いや、それが変なんだ。)」
俺達にとってはちょっと規模が大きいだけのいつもの仕事でも、はこれでおそらく初めて、目の前で人が死ぬのを見ることになる。想像力がないとか言っていたが人並みに死への恐怖心はあるらしいし、ならこの余裕はおかしい。――でも、ちょっと爪先を掠ったくらいで起きるくらいには神経張りつめてるのか。いや、それにしたって今の状態は余裕すぎる。どっちにしろ、何か変だ。
考えているうちに祖父ちゃんは帰って行き、は奥のソファの膝掛けだけ元に戻すと、はじめ座っていた方のソファに戻った。目を擦ったり欠伸しているあたり、まだ完璧に起きたわけではなさそうだ。じっと見ていると、視線に気づいたのかがこっちを見た。
「・・・・どうかした?」
「べつに。もダーツやる?」
「んー・・・やったことないから今はいいや。あとで気が向いたら誘ってよ。」
「そ?」
――やっぱりいつも通りだ。眠そうなせいで余計拍子抜けするへらへらした顔を横目に、どこか腑に落ちないまま潰れかけの箱を開けた。
