「さて・・・と。」

家具の移動もすっかり終えたところで、私は懐からいつものグラスを取り出し、もとから修行場に置いてあった台に乗せて、さっき厨房で貰ってきた2Lペットボトル入りの水道水を半分くらいまで注いだ。葉っぱは取りに行くのが面倒なので、この間庭で拾った見知らぬ鳥の羽毛を浮かべることにする。何度か試したが反応の出方は変わりないので問題ないだろう。心成し腕に集中させた練を翳していくと、まずはその羽毛がひょこひょこと浮き沈みし、それから沈みきって、グラスの底で踊るように旋回しはじめた。

――私が部屋を移した理由としてキルアに話したのは決して嘘ではない。あれもあれで事実だが、理由の最たるものはこれだった。

水見式はオーラの特性を高めたり、練そのものの強さや持続性を高めるのが目的であって、外へ働きかけることはあまりない。今念を知るべきでない人達にオーラが見えないなら壁があればそれでひとまず問題なかったのだが、この四大行としての発は先日あっさり及第点を貰ってしまった。となれば、もう次の段階――「念能力」としての発の開発に進むしかない。

色々考えてはみたが、やはりいくら少年漫画大好き症を患っていると言っても、平和主義国家の治安の良い街で人並みに守られて生まれ育った一般人が、静かに修行できないような攻撃的な念を扱える可能性は低い。カルト君に色々と嗾けられた今ですら板についているのは防御ばかりで、思えば反撃らしい反撃をしたことはないし、したところで高が知れている。体術の修業は形ばかり進んで、攻撃力という点に於いては全く進歩がないままだった。
が、やはり破壊力は欲しい。防戦一方ではいざというとき勝ち目がないのは、疑いようのない事実なのである。

となると、私は自ずから攻撃力を上げにかからなければならない。しかし、筋トレは欠かしていない割に相変わらずの成果だし、そういう地道な努力を続けたとしてもたいしたプラスになる気はしない。
ならば、念の方で底上げするしかない。扱えようが扱えなかろうが、もう攻撃的な念を作るしか手がないのである。


練をやめて、台を壁際に寄せる。それからグラスを下ろして下に置き、代わりに厨房から貰ってきた痛んだトマトを置いた。そして数歩下がり、置いておいた木箱に胡坐をかいてゆっくりと深呼吸する。

――私の系統は操作系。隣は放出と特質だ。特質の方はやりようがないが、放出ならビスケちゃんの修業でゴンがやっていた。

力みすぎないように注意しながら、指先にオーラを集めていく。はじめはビー玉程度。それを、少なくともゆっくり三十数えるまでは保たせたいのだが、そもそも指のオーラと切り離すのが難しい。――やっぱりゴンは補正かかってるからなあ、と頭の隅でぼんやり考えながら、じっと指先を見詰める。回数は数えていなかったが、三十回はやり直したところでようやく指から離れた。焦らないよう意識しつつ、ゆっくりと数を数える。一回目は五秒で消えた。しかしすぐに二回目の球を作り始める。そうして回数を重ねていくと、徐々に球体が安定するようになってきた。

意識を指から剥がして、持ち上げ、切り離す。それだけのようで難しいので中々厄介だが、こうして集中していると不思議と気持ちが落ち着く。――ここは根気強く行こう。急ぐ気持ちはあるが、急いて手を抜いたところで良い結果は生まれない。
深く息を吐き、ゆっくりと吸いながら、オーラの球を浮かべる。時折歪に揺らぐのを睨みながら、透かすようにトマトを見る。――急がず根気強くとは言っても、なるべく近いうちに最低でもあれを落とせるくらいにはならなければ、念としては使いものにならない。

さて、一体どれだけかかるのやら。消えてしまった八個目の球を横目に、兄貴の顔を思い出す。怒って表情が死んだあの顔ではなく、普段の柔和を体現したような顔だ。しかしふとした拍子に怒り顔がちらつく。普段イルミさんばかり見ているから、どうもあの手の無表情の方がイメージしやすくなってしまったらしい。九個目が消える。

十個目の球を作りながら、私はふと随分昔のことを思い出した。
兄貴がまだ高校生で、私もそれなりに小さかった頃のことだ。空気を読んで周りに溶け込むのは昔から得意で、友達は少なくなかったが、急に放り込まれた保育園は別に好きでもなく、私はいつも兄貴とばかり遊んでいた。というより、特撮ヒーローが世界の中心だった当時の私の「遊び」と言えば第一に寸劇、第二に寸劇で、ついて来れる人が同年代にはあまりいなかったのだ。その点兄貴は役の理解に事欠かないし、園児とは比べ物にならない演技力も当然ながらあった。ノリがよかったのである。
しかしそんな兄貴も一度だけ、付き合う素振りも見せてくれなかったことがあった。徹夜明けだったのか何なのか、疲れた様子で学校から帰るなり、居間でソファに転がって眠り込んでしまったのだ。私は納得いかないながらも、とりあえず寝室から掛け布団を引き摺ってきて掛け、テレビを見ながら起きるのを待ったのだが、結局ほとんど丸一日起きなかった。それも、心配した母さんが何度も声をかけたり、揺すったりしてやっとだ。

今思えば、カルト君との決闘後私が眠りこけたのも同じような状況だった。疲れが溜まりすぎると長く眠ってしまう。もしかすると遺伝的な体質だったのかもしれない。性格や外見では似ていないところの方が多い兄妹だが、体質的にはよく似ているといつか兄貴が言っていた。
そこまで考えて、私は一旦オーラを消して深呼吸をする。そして脳裏に浮かんだことをそのまま口にした。

「・・・・兄貴も案外こっち来てたりして。」

十分有り得る話である。私が来れて、兄貴が来れない道理はない。
まあ、だとしても探しものは探しものだし、早めに力をつけたいのも変わりない。急がずじっくり、でも迅速に。壁際のトマトを眺め、また人差し指の先にオーラを寄せた。――十一個目。







が見てくれより随分賢いらしいことに気付いたのは、つい最近のことだ。
と言っても計算ができるとか頭の回転が速いとかいう賢さではない。いや、そもそも「賢い」という表現も的確とは言い難い。だが、彼女は決して俺達の想像の範疇には収まっていなかった。

がじっとトマトと対峙する様子を眺めながら、俺は半ば裏切られたような気分に浸っていた。
“異世界”という括りにあって、念については使えないくせやけに博識という妙な存在であることはわかっているが、ああも高度に、そして概ね的確にものをこなしているのを見ると何か腑に落ちない。もっと手古摺って迷走するかと思っていたのに、と軽く感嘆とも落胆ともつかない息を吐き、腕を組む。

彼女がこれから何をするつもりなのかは聞いてある。それが恐らく無謀であることも聞いた。その理由として彼女は「器が足りない」とか「単に素質が足りない」などと並べたが、ああして的確な修業を自分で選べるのだから、とりあえずは心配ないと思う。ここに来て集中力が跳ねあがっているようだから効率も悪くはない。形になるのは時間の問題だろう。

――時間の問題。
俺は頭の奥で繰り返し、音を立てずに溜息を吐いた。

彼女には念の才能がある方だと言える。実際に例を挙げるなら、四大行を覚えるのはミルキより早かったし、応用技の理解もそれなりにいいペースだ。ただ、瞬発力がないためカルトとの攻防でも攻撃に回ることができず、結果的に防御に偏りがちなのである。まあそれは得手不得手というやつで、もともと瞬発力とは掛け離れたスロースターターなのだし、そのくらいは許容できる偏りだ。
偏りなく、と口で言うのは簡単だが、実際にはそれは難しい。希代の鬼才として期待されるキルアですら集中力や精神力にはある種看過し難い問題があるし、俺にももちろん苦手分野がある。得手も不得手も生まれつきで、そういう先天的なものを克服するには並みならぬ努力と時間が必要だ。「時間の問題」どころではない。

――そのはずなのに、ここのところのはそのあたりの過不足をさも簡単であるかのようにうまく調整してきて、決まった型のあるものであれば最後にはきちんとそれにはめてくるのだ。得手不得手は間違いなくあるのに、もちろんペースに差はあるが、それでも「時間の問題」でこなしてしまう。


無論彼女についてはわからないことが多い。訊いてみても彼女自身そのことを理解できていないのであまり意味がないし、俺としてもそこまで踏み込む必要はないと思っているのだが、最近の彼女は明らかに妙だ。変化している――あるいは、もとからそういう性質だったのをここに来て露見させたか。どちらにせよ機械的に対応するには状況が変わりすぎた。

しかし、こちらに影響を与えまいとする姿勢だけは相変わらずだ。キルアとは軽口を叩くような仲だが余計なことは決して言わないし、「線」も踏まない。そればかりかこうして自らキルアとカルトの間から抜けてきたのだから、やはり危険視する必要はないのだろう。


――それでも、予防に越したことはない。ようやくオーラを空中でまともに留めるのに成功したを眺め、そっとその背後に寄る。彼女はまだ俺がいることに気付いていないはずだから、ここで肩に手を置いたらきっと面白い反応が返ってくるのだろう。まあ今はやらないが。次失敗したらやってやろうかな。そう思った矢先、ビー玉の倍ほどのオーラの球がふっと消えた。よし、と手を伸ばしかけて、視線を動かすと、の手が止まった――というより、すぐに次の球に移らないのに気づく。おや?と首を傾げてひとまず手を空中で止めると、しばらくして彼女は呟いた。

「・・・兄貴も案外こっち来てたりして。」

――そういえば、彼女には兄がいるという。そしてその兄の存在が、彼女をこうして急がせる要因の最たるものなのだそうだ。そのあたりを詳しく聞いているのは親父や祖父ちゃんの方だから俺はよくわからないが、何でもときどき表情が俺と被るらしい。
瞬時に考え、と同時に小さな肩に手を落とす。はぴたりと動きを止めた。もしかして死んだんじゃないかと思うほどの静寂が広い部屋にしんと浸みわたる。

「・・・・・・・だーれだ。」

生死確認のためにぼそりと問うてみた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イルミさんですか。」

随分遅れて答が返ってきた。多分今顔を見たらものすごいじと目をしているんだろう。予想は付いたが覗きこんでみると、やはり思った通りの顔だった。寝込んで調子が戻ってからいくらか軽そうになった瞼が寝る三秒前のように重く伏せられている。

「や。うまく行ってるみたいだね。」
「お陰さまで・・・あの、つかぬことをお聞きしますが、いつからそこにいらっしゃいました?」
「いつだったかな。えーと・・・あ、そうそう。トマト置いたあたりだ。」
「・・・飽きませんか?」
「べつに。考え事してたから。」
「なるほど・・・」

やや納得した、と言う風に答えた彼女は再び姿勢を(と言ってもオーラの、だが)整え、指先から小さな球を生み出していく。集中力が跳ねあがっていることはここに特に強く現れている。未完成の技を、オーラを抑えているとはいえ他人がそばにいる状態で同じようにこなすのは、並みの集中力では難しい。それが普通にできるようになったのだ。

「(成長と言うべきか、変化と言うべきか・・・)」

どちらにしろ害はない。強くなろうとするならいずれ通る門なのだ。一般人の彼女が戦闘で少なくとも死なないようになるには成長するしかなく、性質や考え方を含め、変わるしかない。

ただそれが奇妙なものに思える。これを何と表現すればいいのかよくわからないが、ともかく、真っ当なことのはずが、彼女がすると真っ当でなく見えた。

なぜだろう、と割と真剣に考え込み、天井を眺めてしばらくぼうっと意識を遠くへやる。それからまた視線を戻し、彼女の背が身じろいで揺れるのが見えるのとだいたい同時に思いついた。

――彼女には芯たる芯が見えないのかもしれない。本来成長の基準となるはずの芯が。核として彼女の源たるものがあろうと、そこから一本の芯は伸びていない。むしろ四方八方に好き勝手に伸びていて、しかしどこかではバランスをとっている。否、バランスをとるために四方八方どこであろうと伸ばさなければならない。成長の基準がありすぎてどこへでも好きに伸びられる半面、偏ればもうそれは彼女ではない。――つまりは。

「(この子は“誰でもない”のか。)」

一人で納得して、なるほどなと首を縦に振る。道理で「安全」なわけだ。これでは確かに影響など与えてくる余裕はなく、彼女が変化していく理由もわかる。 無理矢理理解する必要のない解答に我ながら感心し、と同時にに対して僅かに興味が湧いた。

――果たして彼女はどこまで変われるのか。絶対的な苦手分野は存在するのか。影響を受けやすく、ある程度多方面への対応力があるのなら、さぞ面白いものを見せてくれるのだろう。

俺やゾルディックに関係のないことではあった。しかし興味がないと言えば嘘であり、また興味を持ったところで問題のない存在であることも確かだった。
柄にもなく口角を上げ、丁度手を伸ばしやすい位置にある頭頂部を見下ろす。娯楽と言うのはこういうものなのだな、とようやく理解した気がして、何かどこかの隙間が埋まったような気すらした。






written by ゆーこ