水見式を始めてから、気づけば一週間と二日が過ぎていた。

補正例しか知らないので何とも言い難いが、この短期間でよくやったと思う。葉は自分の意思で動かせるようになってきたし、操作に熱中するうちに練も持続するようになった。お陰で堅も一瞬と言わず十秒くらいなら完璧にしていられる。――聞こえは悪いが、もともと錬が弱々しかったことを考えれば十分な進歩なのである。
加えて、先日の会話以降はカルト君も私をじっと観察したり時々瓶の蓋を投げてきたりするくらいのかわいらしい態度になっているし、なんとなく不眠だったのもけろっと治って体調も一気によくなるし、私にとってはまさに激動の約十日間であった。

しかし、その激動には無論マイナス要素も含まれている。
例えば、体術は恐らく向いていないであろうこと。これは本格的に修業を始めたわけではなく、最近メニューが変わって空き時間が合うようになったキルアに個人的に見てもらっただけなので決めつけるのはまだ早い。しかし、格闘に必要な力がそもそも足りていないのは誰がどう見ても明らかだった。その上私は筋肉が付きやすい方でもないらしい。苦労するね、と他人事のイルミさんが笑っていた。

念能力としての“発”もあまり良い方には進んでいない。一週間以上かけてじっくり考えて、かろうじて決まったと言えるのは方向性くらいなものだった。


――せっかくの「操作」なのだから、一番馴染んだものを操作した方がいい。そうは言っても、私にはイルミさんのように愛用している武器はないし、これから作っても使いものになる可能性は高くない。かといって、どこぞのシャルナークさんのように携帯を媒介にするには私は携帯不携帯者すぎるし、そもそも私がこちらに持ってきたのは芋ジャーとTシャツと家の鍵とジュース買ったおつりの八十円とこの身だけである。犬を操作する能力者も居たが、それほど信用を置いているような動物もいない。じゃあ、何を操作すればいい?

自分だ。自分自身を操作すればいい。

論理的に十分可能であることはわかっている。イルミさんの顔面変形もどこぞのシャルナークさんの自動操作もその括りに入るものだ。そして私の特技である物真似もある種の自己操作である。
と言っても、単に誰かのモノマネしてたって仕方ないし、印を結んで影分身の術!とか言ってみても影分身自体は具現化系の技である。いくら模写しても、他の能力への対応力がないなら形を真似るだけの無意味なものになる。いくら見た目を凄そうに繕ったところで、中身が無いのでは何にもならない。方向性としては私にこれ以上なく合っているが、原案のままではお世辞にも実用的とは言えなかった。せめてもう少し煮詰まらなければ話にならない。


――もう少し悩もう。それでいい答えが出るとは限らないが、どの道今は決められない。
水の入ったグラスを手に取り、時計を確認して部屋を出る。そろそろキルアも部屋に戻っているはずだ。






「というわけでまた稽古つけてもらいに来たよヒャッホウ」
「えぇ?お前、体力なさすぎて話になんねえからとりあえず腹筋でもして出直してこいよ」
「イエッサ」
「いやそこですんなって」

つーかいいかげん真面目なのか不真面目なのかハッキリしろよな、とぶつぶつ言いながらも床で腹筋をはじめた私をどかす気はないらしく、キルアはそのまま何事もなかったようにメニュー画面にしていたゲームを再開した。話になんねえと言われるのは(出端を挫かれたのは初めてだが)毎度のことだし、彼がゲームの手を中々休めないのもこれが初めてではない。初回は面白がって付き合ってくれたが、それからはよっぽどすることがないか、機嫌がいいかしないとフルでは付き合ってくれないのだ。流石変化系、気まぐれである。

「・・・なんか今失礼なこと考えなかった?」
「すみません、でもそんなキルアがダイスキダヨ」
「全っ然心こもってねーし」

心を読まれるのはもはや常である。もう気にしないことにした私はケラケラと笑い、すでに腹筋がキリキリ言い始めているのに苦笑した。分かっていたことだが、なんという体力のなさだ。調子こいてスピード出してるのも悪いのかもしれないが、なんにせよスポーツテストすっごい頑張ってギリギリBランクからの進歩はないようだった。
しかし、考えてみればおかしな話だ。こんな現状維持ではなく、少しくらいは筋肉がついていてもいいのに。――いや、というか、力はついているはずなのだ。

当たり前、というか予想通りだったので特に騒がなかったが、ここの家の物はだいたい重く作られている。生え抜きの彼らには差し迫ってトレーニングする必要がないからか非常識に重たいわけではないが、日用品のうち重くすることにメリットのないもの――要するに、彼らの仕事の性質上軽い方が都合のいい衣類とか、手にする時間の短いタオルなどの布類とか、持ち上げる機会のない食器。そういうもの以外はみんなある程度重い。そういう環境でも違和感を感じないようになってきたのだから、私はある程度の筋力を手に入れている、はずなのである。

腹筋をやめ、相変わらず傷跡の残る腕を曲げて力瘤を作るようなしぐさをしてみる。余計な肉は減ったようだ。しかし、猫背になりながらゲームをしているだけのキルア君十歳の特に力の入っていない腕と比べても、筋肉は格段に少ない。むしろ一般人そのものだ。これはなるほど、大変である。私も他人事のようにへへっと笑い、上腕をべしべし叩く。

こうなると腹筋よりも上腕筋の方が気になってくる。私は仰向けからうつ伏せに転向し、せっせと腕立て伏せを始めた。とりあえず疲れ果てるまで続けてみよう。それを何日かやって、それでも見た目に効果がないようだったら、やっぱりこれは体質なのだ。まあ、いいじゃないか。全然力がつかないわけではないのだし、見た目にわからないムキムキも中々いい気がする。しっかり鍛え上げた身体も無論魅力的だが、これもこれでアリだ。アリ。

「・・・、ここ筋トレルームじゃないんだけど」

そういやそうだったね。






その後も何度か同じ台詞を言われたが追い出されるまでには至らなかったので、腕立て伏せと腹筋、背筋、その他諸々身一つでできる筋トレを手当たり次第、体力の許す限りやり尽くすまで、私はキルアの背後でヒーヒーフーフー言い続けた。決定的に迷惑そうにはされなかったので実際はもう少し静かだったのかもしれないが、体感としては既にお祭り騒ぎ状態だ。深夜のテンションとか、ランナーズハイとか、そういう類の。

全身心臓になったようにドクドク言っているのをぼうっと聴きながら床にへばりついていると、今までこちらに見向きもしなかったキルアがおもむろに立ちあがって私に何か投げた。が、当然ながら私は極限状態にあるためうまく捉えられず、結果顔面でそれを受け取ることになった。騒ぐほど痛くはなかったが、一応「ぶぎゃ」と鳴いておく。

「お前・・・いや、いいや。」
「あれ、鳴き方悪かった?それともコレがダメですか、床冷たくて気持ちいんですけどダメですか。」
「いや、ダメとかそういうんじゃなくてさ。・・・なんでもないって。」

まあそう言うなら無理には訊くまい。私は口を閉じて、顔面キャッチしたスポーツドリンクを開けて仰向けで一気飲みした。500mlのペットボトルはすぐに空になり、代わりに身体が楽になっていく。水分は偉大である。

「・・・。」

――そういえば、なんだか今日のキルアはやけに静かじゃないか?
思えば出端を挫かれたあたりから既に怪しかった。彼は律義で真面目だが気まぐれでノリがいい。ああいう反応は普通ならあまりしないのだ。うざったがるならもっと徹底的に拒否するから、機嫌が悪いわけではないはず。仕事で何かあったか、訓練で何かあったか。気を使うべきだろうか、とは思うのだが、空気を読みすぎて逆に彼のプライドを傷つける可能性もないわけではないと判断して気付かないふりをする。彼のようなタイプと関わるのには、少しばかり決断に困る時があるようだ。そりゃあいつも楽しいだけの人なんて逆に面白くないが、少し悩む。空気を読むのは日本社会を生きるための基本スキルだが、案外、神経削るからしんどい、のである。

そう考えている間も、キルアはゲームに没頭している。私は横目で見るのをやめて起きあがり、髪に手をやりながら訊ねた。

「どうかしたの?」
「・・・何で。何もねーよ。」
「(今の反応カルト君と似てたなー)そう?こないだ喜んでもらったお礼に、聞き役くらいはやるけど」

言いたくないなら無理には言わせることもあるまい。汗で額についた前髪を掻き上げてぼうっとしていると、ぽつりと小さな声が聞こえた。

「・・・こないだの仕事でさ。オレと同い年くらいの奴、殺したんだ。」

――やっぱり何かあったのか。
ストレートな表現に息が詰まりそうになるのを音を立てない深呼吸で抑えながら、極力その画を想像しないように瞼を伏せ、聞き役に徹するべく黙って頷く。

「簡単だったよ。気付かれないように殺ったから、泣きも叫びもされなかったし。」

ゲームの音が消える。電源を切ったキルアの指が床を滑って、私の方を向いた。

「でも、違和感みたいなのが手に残ってて、ずっと気分悪いんだ」

彼の右手の指をじっと眺め、私は静かに頷く。
キルアはまたしばらく黙り込んだ。私には何も言えることがなかったので、黙って視線を動かしながら彼の言葉を待つことにした。そして私の目が自分の手に行ったところで、キルアは再び口を開いた。

って、ハンター試験受けたいんだっけ?」
「うん。なんとかして受かって、ライセンスとらないといけない。」
「ハンターってアマチュアとかいるじゃん。あれじゃダメなの?」
「うん。資格があると情報収集とか移動とかしやすいしね。」
「・・・何か探し物?」
「そう、だね。探し物。」
「ふーん・・・」

キルアは興味なさげに相槌を打ち、後ろ手をついて足を投げ出していた格好から、ゲーム中と同じあぐらに戻った。かと思うとさっとこちらを振り向く。よく動くよなあ、と半ばたじろいでその様子を眺めていると、彼の猫目が私を真正面に捉えた。捕まったような錯覚に少し身体を引くと、相変わらず十歳児とは思えない迫力で彼は言う。

「でもハンターやるからには、生かすか殺すかって場面に出会うこともあんだろ?」
「・・・だろうね。試験だって殺し合いみたいなもんだし。」
「お前、そうやっていつも平気そうにしてるけどさ、いざって時、やれんの?」
「・・・。」

どうだろう。考えていなかった。否、考えたくなかった。
家に帰ることを考えるのなら、手を汚すようなことは極力避けたい。しかし、確かにキルアの言うとおりだ。ハンターになれば、私にライセンスを仕舞い込んで使わないということができない以上、肩書きを隠すことはできない。情報網が恐ろしく高性能であることは情報社会とまで呼ばれた社会に身を置いていれば嫌でもわかる。そして隠せないなら、どこかからは狙われる。きっと私は見た目から弱いし、この目的でまさか誰かと手を組むこともないだろうから、狙われやすい部類にも入ってしまうだろう。――しかし、念と、ハンター試験に受かる程度の実力があれば、ライセンス目的で襲ってくるような奴らにはきっと負けない。それが手加減できる程の差であればいいのだが、実際はそうもいかないはずだ。そうなれば否が応でも殺す気でかからなければならなくなる。――私は、そこでどうするだろうか?

「・・・やれるか、って言うより、やっちゃうんじゃないかな。」
「・・・それ、人としてどうかと思うけど。」
「私はむしろ、本能的にやっちゃうんなら、生物としては“らしい”と思うよ。」
「・・・。」

キルアは少し面食らったような顔をして、それからばつが悪そうに目を泳がせた。私はそれを視界の隅に置きながら、次の言葉を考える。

「いざ自分の命が危なくなったら、たぶん何だかんだ手が出る。相手が知ってる人だったら話は別だけど、自分と関係ない人がどうなったって関係ないし。迷いもしないかもしれないよ。」
「・・・それ、非道って言うんじゃねーの?」
「生憎、どっか遠くの痩せた土地で誰かが飢餓に苦しんでるーとか言われてすぐにその場面想像できるほど心豊かな人間じゃないんだよね。」
「・・・なんか、お前がここで普通に暮らせてる理由わかったかも。」
「想像力のなさって嘆かれるけど、便利な時もあるのよねー。」

へらりと笑い、私もあぐらをかいて、姿勢を少しくだいた。ふと見ればキルアは何やら微妙な顔をしている。それを見て私はもう一度笑った。

「――あのさぁ、私の持論なんだけどね。」

原作でああなっている以上、今の彼もある程度はその職業に何かしらの疑問を持っているのだろう。慰めなんて大仰なことは言うつもりもないが、本当に聞くだけでは年上としての面子が立たない。まあもともと立てるような面子もないのだが、べつに見栄を張るわけでも、入れ知恵するわけでもない。ただのひとり言だ。これくらいは許されてもいいはずである。

「たとえば、強盗に襲われて、成す術もなくあっさり死んじゃった人がいるとするじゃない。その人は相手を殺そうとしなかった、つまり潔白なわけだけど、それは殺せなかっただけで、殺したくなかったってわけじゃない。たとえば戦争があって、武器が尽きたら降参するしかないように、たとえ負けたのであっても負けたかったわけではない。・・・」

口調がいやに改まってしまった。息を吐いて気を取り直し、続ける。

「全部逆転があり得るわけで、その時はたまたまそういう力関係になっただけ。可能性の世界には別の結果があったかもしれない。
ようするに、なっちゃったらなっちゃった、やっちゃったらやっちゃったでそれはもうしょうがないわけ。」

人差し指を立てて、いかにもそれらしく言い切ると、キルアはぽかんとしたあと、やはり微妙そうな顔をした。私もこんな雑な理論に納得してもらおうとは思っていないので、その反応に満足して笑っておく。

「やりたくないし、やれるかわかんないけど、やっちゃったら、諦めるよ。特に命は取り返しようがないし。」

一瞬父の遺影が脳裏を過る。それに合わせて泳いだ目にキルアがじっと考え込んでいるのが映った。きっと彼には悪いように聞こえたのだろう。聞こえの悪いことを言った自覚はあったので、フォローしようとさらに口を開く。

「人生取り返しのつかないことだらけだよ。なんでもかんでも取り返しついちゃったら、それこそおかしな世界になるじゃない。そういう意味で、人は死ぬのが妥当。だから知らない人がいくら死んでもそれは“妥当”な結果で、私が気にかける必要はない。目の前でそうなったときどうなるかはよくわからないけど。」

ペットボトルのラベルをいじりながら、尻すぼみに言う。――実際、目の前で人が死んだり、殺さなければならなくなったりしたら。こればっかりは想像できない。
ただ、考えるまでもなく確かなのは、それは取り返しのつかない結果であり、そこで命を落とした人に近しい人は、とても悲しむということ。


――ふと、父さんがいるくらい昔に兄貴とテレビに齧りついて見た、大きな川の堤防が大雨に圧されて決壊した画が脳裏に流れた。
何だろう急に、と首をかしげるやいなや、耳もとに生ぬるい筋が伝う。――しまった、と思った時には、キルアは驚き顔でこちらを見ていた。とりあえず力づくで視線を外させ、何だよいきなり、だの、わけわかんねえ、だのと喚くのを、一発引っ叩いて牽制する。八つ当たりに近かった。

「・・・キルア、君は何も見なかった。むしろ今日私はこの部屋にこなかった。いいね?」
「って、お前今けっこう本気で殴っ・・・、は?」
「いいね?」
「・・・うん」

力任せに涙を拭いて、なかったことにしよう、とこれまでの会話を記憶から消去すべく両頬を思い切り叩き、勢い込んで立ち上がる。

「じゃあさらばだキルア君。君のことは忘れないよ」
「いや意味分かんねーよ!」
「ははははは」

背中でドアを押し開けて、悪役じみた高笑いとともにその場を去る。廊下の空気は少し湿っていた。






そういえば兄貴も一回だけ、何針も縫うような怪我したことあった。勢い余って塀にぶつかったと言っていたが、あとで喧嘩に巻き込まれてそうなったのだとわかってひどく驚いたことを覚えている。
兄貴は正義の味方みたいで、曲ったことが嫌いそうな印象があったけれど、なんだかんだぶっ飛んだ性格の友達が多い。平和であればそれでよい、といつも言っていたけれど、それはつまりそういうぶっ飛んだ人がいくらいようが、戦火がいくら上がろうが、深刻な被害がなければそれでよいという意味である。まあ、ブリザード吹き荒らす時点で既に何かがおかしかったのだが、ともかく兄貴はそういう人だ。気長で面倒見のいい兄であるがゆえに、人の有り様に関しては、途方も無く寛大なのである。

――そう。だから兄貴はきっと、私がどうなっていようが変わらず迎えてくれる。

くだらないことに悩むのは止そう。今私がしなければならないのは、帰った後の心配ではない。ハンター試験を乗り切るだけの強さとえげつなさを手に入れるための、修業だ。

私は乱暴に自室のドアを開け、冷たくなった目元を擦りながら先程仕舞ったグラスをポケットに突っ込むと、またすぐに部屋を出た。






written by ゆーこ