珍しく集中なんてものをしたからか、はたまた練で精神力を消費したからか、気分はどうにも上向かない。だが、念法はやはり肉体の強度やらも左右するようで、風邪を引いた、とかそういう感じではなかった。調子がいいとは言えないが、大丈夫だろう。そんなに引きずる方でもないし、ちょっとしたホームシックのようなものだろうからすぐ治るはずだ。テンション下がるほど帰りたいなら、それをバネにすればいい。ポジティブに考えるか、考えるのをやめるかしないとうっかり死にそうだ。
「・・・。」
そう考えているとちょうどカルト君の部屋の前に差し掛かった。一瞬通り過ぎようとしたがふと思い立って立ち止まり、腕が震えるのを全力で無視してドアをノックしてみる。私が寝ていたのが本当に三日だとすると、彼らが仕事に出てから二日経っていたとしてもおかしくはないのだし、もう夜だ。もしかしたらいるかもしれないと思ったのである。
しかし、よく考えればさっき「皆席についてる」と言われたばかりだった。思い出してはっとし、苦笑する。なんだ、ドキドキして損だった。
腕を引っ込めて五、六歩歩き、隣のドアを開け、電気をつけて壁の鏡を覗き込む。キキョウさんが余っているからとくれたもので、普段は見ないが、頬のことが少し気にかかったのだ。
――ここ二カ月で、生活には大分慣れた。完全にではないし、慣れ切ってしまいたくもないが、とりあえず日常生活で首をかしげる場面はもうない。諦めたとも言う。怪我をすることにもそこそこ寛容になった。寛容と表現すべきかはわからないが、いちいち気にするようなことはもうあまりない。
だからすぐには気にならなかったのだが、この傷は少々まずかった。
例のうちの兄貴だが、実は近所の薬局で薬剤師をしている。しかしそれは経済的・学力的な釣り合いを見て決めた道であって、彼の第一志望ではないことを私はよく知っている。彼が本当に目指していたのは医者だ。それも外科医。
もともと世のため人のため、というスタンスが似合う人だし、適性もあった。手先は器用だが神経が図太く、大抵のことには動じない。グロやスプラッタも、私がビビりながら見ている横で優雅にコーヒーを啜っているくらいだ。激務に耐え得る肉体資本もある。
しかし、予期せず母子家庭となった我が家は、貧乏とまではいかなくとも、決して裕福とは言えない家庭だ。父の死亡保険は下りたが、母さんの職が安定するまでの生活費と兄貴の学費、と考えると残りは微々たるもので、切りつめても、補助金を計算に入れても、医学部は望みが高すぎた。
とは言っても、性に合っているのはやはり医学なのだろう。今の仕事を不満に思っている様子はないが、たまに薬学とはあまり関係なさそうな医学関連の本を読んでいるのを見かけるし、怪我や病気に関してはやけに目敏いところがある。
――そう、目敏いのだ。やたらと。
たとえば母さんは割と不器用でよく怪我をするが、その傷が何で出来たものかは兄に見つかった時点ですぐにばれる。もともと頭が良いせいか、状況証拠や物証をすぐに見つけて推理してしまうらしいのだ。何よりも問題は、ほとんど外れたことがないという事実である。
つまり、この傷もばれかねない。「刃こぼれナイフで掻っ捌かれました」、と。
恐ろしい。恐ろしすぎる。
兄貴は温和だが、だからこそ怒ると怖い。怖いどころかブリザードが吹き荒れる。深夜に近所を徘徊していただけでアレなのだ。刃こぼれナイフで顔掻っ捌かれたとか両手がハリセンボンとかいうファンキーなことをしていたと知れたときの彼の顔がもはや想像できない。「ああイルミ兄さん似だなあ」どころではなくなるに違いない。
私死んだ。これは死んだ。死亡フラグっていうか、死んだ。既に死んだ。
ずるずるとクローゼットの前に移動し扉を開け、腹からもそもそとグラスを取り出して使用頻度の低い棚にそっと置く。それからパーカーとキャミソールを脱いでTシャツに着替え、ズボンも替えた。髪が濡れているのはシャワー室からタオルを引っ張ってきて適当に拭いておいた。そして盛大な溜息を吐く。
どうしよう、帰りたいけど帰りにくい。もちろんこんな傷程度で帰りたくない、なんて言い出すことはしないが、ちょっと怖くなってきた。もともと怖かったけど、これは怖すぎる。
一人でガクガクしながら、今度は極力鏡を見ないようにして部屋を出た。ご飯食べて忘れよう。お風呂入って忘れよう。寝て忘れよう。修業に打ち込んで忘れよう。
そうだ、忘れよう。ぐっと拳を握りしめて上を見上げたりしてみたが、やっぱり膝が笑っていた。
「調子でも悪いのか?」
フォークを口に入れたまま固まっていると、シルバさんがそう言った。名前は呼ばれなかったが、キルアは元気だし、イルミさんが調子悪いというのはちょっと想像がつかないし、ミルキは見たいアニメでもあるのか部屋に閉じこもっていてここにはいないから、たぶん私に向けて言ったのだろう、と(ずいぶん時間をかけて推理して)顔を上げて苦笑しながら首を傾げると、彼は少し考えてから、続けて尋ねてきた。
「辛いか?」
シンプルな問いだ。だからこそ含みが多くて、またしばらく考え込んでしまったが、私もシンプルに答えた。
「いいえ。」
そう言っておくのが無難だろうと思った。確かにガクガクしてはいるが、辛いです、と言うほど堪えていないし、もちろんカルト君のお陰で日々死にかけているが、修業自体は念だけなのでそれほど辛くない。普段の生活で使うものがやたら重いのも、そういうものだと思い込めばまあなんとかなるものである。
「そうか。」
シルバさんは頷いて、食事を再開した。私もフォークを握り直してパスタを口に運ぶ。
いつもであればここで何かしら薬くさいとか、舌に違和感を感じたりするはずだった。しかし今日は何もない。完全に無味無臭の毒なんていうものが本当に存在するのか私にはわからないが、どうもその類ではない気がする。本当に何も入っていないんじゃないだろうか、これは。
再び考え込んでさっきと同じ姿勢で固まりながら、ううむと内心で唸る。――やはり三日寝っぱなし、とかいうすさまじい記録を叩き出したあとだからだろうか。三日空くと身体に残る薬も少なくなってくるだろうし―――いや、そんな程度で耐性が消えてしまう毒なら、わざわざ毎日身体に入れる意味がない。私の場合いつまでいるかもわからないのだし、あまり長期計画でやっても完成しないで終わるはめになるだけだ。そもそも薬物、毒物耐性というのはそう簡単につくものではないはずである。
まあ、いいか。安心して食べられるのはいいことだ。お粥はいきなりすぎてあまり感動がなかったし、お昼は誰も食堂に集まらなかったので厨房からもらってきたパンを少し齧った程度で毒があろうがなかろうがあまり関係がなかったので、ようやくこの喜びを文字通り噛みしめる。――ずっとこんなだったら、体力づくりとかももっと気楽にできるんだけどなあ。呼吸するのと何ら変わりなく溜息を吐いて、空いたままのカルト君の席をちらりと見る。この間、修行場で見たときはかなり周波数が合っていた気がするのだが、やはり私と彼は根本的に相性が悪いのだろうか。何を考えているのか全く分からなし、タイミングも合わない。
いつ帰ってくるんだろう、とか、問い質すにしてもどうやって切り出そう、とか、考え事は尽きないのでそのままつらつらと思考していたらいつの間にか食器は空になり、その時にはもう、席に残っているのは私とイルミさんだけになっていた。
まあ、こんな状況はよくあることだ。この中では私が圧倒的に食べるスピードが遅いし、団欒の時間とは言ってもここはゾルディック家である。和やかに会話するような雰囲気ではない。
というわけで私も黙ったままだ。食器を下げに来たメイドさんを手伝いながら、ちらりとイルミさんを確認する。――どうしたんだろう。食事は終わっているようだが。
「イルミさん?」
呟くように訊ねてみる。どうかしたんですか、とわざわざ聞くのは野暮ったい気がしたのであくまで名前を呼ぶだけだったが、彼は視線をこちらへやって、「いや、別に」と答えてくれた。私の本音がわかりやすいのはもはや常である。取り立て隠すべきこともないので便利と言えば便利なのだが。
「お皿、下げますね。」
「うん。」
前を失礼してパスタ皿をとり、他にもごたごたと並ぶ小皿を高く重ねて、背後にあるワゴンの安定しそうな場所に適当に置く。すると待っていたようにワゴンが動き出した。メイドさんの仕事は決して几帳面ではないので所々倒れそうなところがあるのだが、そこで倒さないのは流石と言うべきだろうか。雑然とした皿やコップの塔の様子にふと一瞬中学の給食風景を思い出して、おかしくなった。――そういえば、皿やお椀を嵩張らせて重ねた塔を作ったことがあった。配膳室で業者の人に変な顔されたからすぐに直したが。
ほんの少し懐かしい気持ちに浸りながら、ぽつんと残されていた台布巾でテーブルを拭いていく。ある時期から義姉さんが嫁いでくるまでは家事全般私の分担だったので、こういう作業は割と慣れている方だ。小さな食べこぼしを見逃さないよう視線を走らせながらテーブルを一回りし、またイルミさんの前を失礼して、拭き終える。あとは何かすることがあったろうか。
「発はどう?」
「はい?あ、ええ。・・・まあ、ぼちぼち、ですかね。」
布巾を畳み直して握り、ぼそぼそと答える。
――それなのだが、正直なところ、あまり進展はなかった。多少あのぴょこぴょこいう動きが大きくなったような気はするが、それだけなのである。能力のネタ探しに出てみた脳内自分探しの旅もあまり役には立たなかった。
少し恥ずかしくなってつい愛想笑いを浮かべ、そそくさと厨房の方へ逃げる。途中でメイドさんとすれ違ったので、布巾を渡してそのまま部屋の方へ戻った。
「・・・発、かぁ。」
薄暗い廊下をとぼとぼ歩きながら呟く。発。水見式をやっているうちはまだいいが、念能力開発と考えるなら状況は変わってくる。これまでやってきたものと違って、単純にシステムとしての完成度が要求される分、プレッシャーも大きい。別に、プレッシャーに弱いとかストレスに弱いとか、そういうのを特に感じたことはなかったのだが、得意でもないのだろう。今あまり元気そうにできないのはそのせいなのかもしれない。
「・・・このままじゃいかん!」
両手で頬をぺしっと叩き、そのままの姿勢で地団駄を踏むように突き当たりの階段を上りながら、最近はめっきり使わなくなっていた呪文をぼそぼそと唱える。私はいい子凄い子頼れる子。いい子凄い子頼れる子。いい子凄い子――
ふと、何かに服の裾を掴まれたような違和感を感じた。気のせいかと思ったので構わず最後の段に足をかけたのだが、どうも気のせいではないようで、引かれて張りつめたTシャツが私のまな板にぴっちりとはり付いてくる。それをまじまじと見下ろして悲しくなったがそれはさておき、嫌な予感はするがそれもさておき、ぱっと振り向く。
「・・・・・・・やあ。」
「・・・。」
軽く手を挙げた私をまじまじと見上げてくる彼に若干たじろぎながら、やっぱり相性はあまりよくないのだろうな、と苦笑した。それでも決めたからにはやるしかない。さて、どう切り出そうか。
しかし、そうして迷っている間にも彼――カルト君はどんどん不機嫌そうな顔になっていく。反応が薄かったのが気に入らないのだろうか。確かに乾いた返り血が顔にまでかかっていて、明らかに私へのあてつけだが(前キルアにもやられた)その手のスプラッタは現在進行形でなければあまり怖くない。もともと女は血に強いというし、残念だがそれでは決め手不足だ。いや、別にそういうつもりじゃないのかもしれないけど。
それから思考をもうひと巡りくらいさせた。それでもあまりまとまらなかったが、そろそろカルト君から来る殺気がひどいことになってきたし膝も砕けそうなので口を開いてみることにする。
「・・・あの。」
カルト君の視線がやや揺れる。私の左頬を見たらしい。
「・・・えーっと・・・」
「・・・。」
視線が痛い。思わず手で隠して、笑った。
「あの、さ。・・・その・・・・・・君の、勝ちだよ?」
――ああ、駄目だ、何が言いたいんだったっけ。全然わからない。
「・・・もう、いいんじゃないかな。」
「・・・。」
真っ黒な、それでもイルミさんほど黒目がちではないきれいな丸い目が、痛いくらい直視してくる。殺気はいつの間にか消えていて、代わりにシャツの裾を引く力が強くなった。
「・・・どうして?」
「え?」
ふいに呟かれた言葉に頭が付いていかず、思わず首を傾げる。するとカルト君は何か言いたそうに視線を逸らし、シャツに深い皺ができるほど掴んでいた手をぱっと離して、階段を一段降りた。それからいくらか沈黙したあと、ゆっくりとこちらを睨み、そして口を開く。
「・・・なんで、怒らないの?やり返さないの?ソレだって、兄様は絶対怒るって言ってた!」
ソレ。ちょうどやっていた手で左頬をすっとなぞりながら、ついぽかんとしそうになるところを必死で引き留める。――答えなくちゃ。なんて言えばいいんだっけ。
「・・・怒ったら、喧嘩になっちゃうでしょ?」
「・・・」
「喧嘩するよりは、我慢した方がいい。私はカルト君とは喧嘩したくないし、まして理由もわからないのに怒るなんてできない。」
思ったより言葉になった。ほっとして、続きを口にする。
「君が私を嫌いなのはどうして?直せることなら努力するよ。直せなくても、果たし合いで負けたんだから、君の言うようにするくらいの覚悟は持ってる。」
大和魂。武士道精神。そんなものを私のどこかから引っ張り出してきて、それらしく背筋を伸ばしてみせる。
そんな様子をカルト君はちらりと目だけで見て、一瞬何か言いたそうに口を開いた。しかし何度かそれを繰り返しただけで、結局そのまま踵を返してしまった。――拍子抜けしたような、安心したような。ほとんど走るように離れていく背中をぼうっと追いかけ、ついに折れてしまった膝に任せてその場に座り込む。
「・・・でも、まあ。」
カルト君かわいかったから、いいか。
ふふ、と声を上げて笑ってみて、立ち上がる。――よし、がんばろう。
