あにき、あにき、おとーさんは?
お父さんは遠くに行っちゃったよ。
とおくって?いつかえってくる?
すごくすごく遠く。帰って来れないくらい遠くだ。
えー、やだ!
大丈夫だよ、お前もいつかは行く所だ。お父さんはちょっとせっかちだったんだよ。
おねぼーさんなのに?
寝坊して、慌てて会社に行くだろ?行き過ぎちゃったんだ。
うっかりさんだねえ!
そうだね。
あにき、あにき、おかーさん泣いてる
どうしてだと思う?
おとーさんいないから
当たり。も泣くか?
んーん、なかない。
ふーん、なんで?
つよい子がすきって、おとーさんいってた!
そっか。
「・・・おはよう」
「・・・おはようございます」
目が覚めるとイルミさんと目が合った。ぼうっとする頭で返事をしながら瞬きを繰り返して、眩しく目を刺す光の正体を探ると、東側の窓から朝日がゆらゆらと差し込んでいる。
――確か、私はカルト君にシメられて沈んだはずだ。あれは間違いなく昼前だった。しかしこの窓は間違いなく東向きである。まさかあれで一晩ぐっすり寝こけたと?そんなバカな。疑問と動揺にとりつかれそうな鈍い頭でぐるぐる考えを巡らせながら、とりあえず身体を起こす。眩しくて目がうまく開かないけれど、ここが私に宛がわれた部屋であることも直感通り、間違いなさそうだった。
「疲れてたみたいだね。」
イルミさんがいつもの調子で言う。私は苦笑して肯定し、手足を動かして調子を確かめた。寝起きで感覚はぼけているものの、随分軽くなったようだ。顔も腹も思ったよりは痛まない。絞められた首も問題ない。ひと通り確認して手持無沙汰になると、それを待っていたようにトレーを手渡された。食事らしかったが、お粥と飲み物が載っているだけの、質素でこの家では見慣れないメニューだった。いつも割とごてごてしているのは毒の味を隠すためだろうと見当がついていたので、これは毒が抜いてあるのかな、と考えながら受け取る。しかし何か妙だ。疲れていただけであって、別に私は病人ではない。怪我も大したことはないようだし、まして衰弱しているわけでもない。
少しだけ首をかしげていると、イルミさんはなぜか私の頭をがさがさと撫でた。そして言い聞かせるように言う。
「食べ終わったら修行場に来て。食器はそこに置いとけばいいから。」
「あ、はい」
「うん。」
表情は動かないが何か満足そうに頷いて、彼は去って行った。――誰だろうあの人。私が寝てる間に何があったんだ。
「・・・まあいいか」
不自然でも、やさしくしてもらえるのは嬉しい。まあ元から然程ハードにしばかれていたわけでもないので彼の怖いところと言えば無表情なところと無表情なところくらいなのだが、風邪を引くと家族がやさしい、というのを思い出して、少し微笑ましくなった。
そういえば、いつもは仕事第一の母さんも、私が風邪をこじらせれば一日くらいは看病してくれたものだ。と言っても林檎剥いてくれたり冷えピタ換えてくれたりアイス買ってくれるくらいだったけれど、普段いない人だから、それだけで嬉しかった。
はっとして白い蓮華をとり、ろくに冷ましもせず口に運ぶ。それからしまった、と頬を引き攣らせたけれど、舌が痺れることはなかった。既に丁度よく冷まされていたらしい。
――なんだか今日のゾルディック家は妙にやわらかい。これが天変地異の前触れか、と軽く唸りながら、私は黙々と蓮華を動かした。
食事と身支度を済ませてから修行場に入ると、イルミさんが腕組みして待っていた。その傍らには見慣れないテーブルと、水の入ったグラスがある。――ああ、見たことあるぞ。扉を入ってすぐのところで一礼してから早足で歩み寄り、一メートル半ほど距離をとってグラスを眺める。葉っぱが浮かんでいるのも、記憶通りだ。
「纏・絶・練・凝・円・堅は教えた。あとは発・隠・周・硬・流。でも理屈はわかってるんだよね。」
「はい。」
発を除けばあとは全て応用なのだから、基本ができれば私でも形くらいは繕える。これまでもずっと「教わる」というよりは「アドバイスをもらう」体で進めて、数週間で無様でない程度にまとめてきたのだ。これからだってできる。できなければ。はっきりと頷くと、イルミさんは「じゃあ」と両手を軽く広げてグラスに翳した。
「水見式ってわかる?」
「はい。」
「じゃ、説明なしで」
彼の両手を覆うオーラがふっと広がり、密度を増す。特に溜めることもないのは流石としか言いようがないだろう。ついわくわくしてしまうのは例の病気なのでさて置き、彼の手の間でせわしなく揺れ始めた小さな葉に意識を注いだ。――わかっていたことだが、操作系の反応。プロペラのように回る葉が止まると、イルミさんは無言でやってみるよう指示した。私は頷いて、少し遠慮気味に手を翳す。こうして改まると練のタイミングが計りにくいのだが、数秒もたついただけですぐ反応がはじまった。丸い水面が僅かに波打ち、少しずつ動いていく。
「・・・操作、だね。」
うーん、と顎に手をやりながら、イルミさんが呟く。どうやらそうらしかったが、なんだか私が思っていた動きとは違うようだ。と言っても葉は確かに動いている。操作系なのは明らかだし、他に何か変化があるわけでもないが、左右に動くとか回るのではなく、やけに申し訳なさそうに浮き沈みしているのである。ちょっと可愛い。
「イルミさんと同じですか?」
練を続けながら見上げて尋ねると、彼はなぜか腑に落ちないといった様子で頷く。
「はとことん手が掛からないな・・・まあ、俺は教えやすくて助かるんだけど」
言われてみれば、多少足踏みすることはあってもあくまで時間が掛かるだけだし、知識も元から備わっている。とはいえ実際に見なければ完全に理解することはできないのだが、それでも概念が既にある分、ゼロから教えるよりは楽なのかもしれない。
「じゃあ、今日から一週間くらいそれで発の修行。その反応がもっと顕著になるように。グラスはべつにその辺のコップでもできるし、葉っぱも観葉植物からとっていけばいいから。」
「はい。」
「うん、今日はこれで終わり。」
「(あ、もうなんだ)はい、ありがとうございました!」
押忍、のかたちで礼をして、一歩下がろうとしてから、ふと思い出した。――カルト君は、どうしているのだろう。
いくつか答えを予想していると、また顔に出ていたのか、イルミさんが教えてくれた。
「カルトなら母さんと仕事に行ってるよ。」
それを聞いて、私は少し肩を落とす。ようやく自分が何をしたいかわかったというのに、タイミングが悪い。いや、あそこで沈んだ私が悪いし、ゾルディックにはお仕事が付きものだが、ちょっとばかし舌打ちしたい気分になったのでわざと顔を歪め、すぐに戻してお礼を言うと今度こそ踵を返した。
――カルト君が帰ってきたら、今度こそ理由を聞こう。今度は、今度こそは、何が何でも答えてもらわなければならない。
まあ、その前にまずキルアを後ろ盾に付けておこうか。背中に変な汗が滲んだ気がしたが、気づかないふりをして重たい扉を押し開けた。
