――朝。
朝だけは元の世界と変わらず、毎日平穏に過ごしている。
目覚まし時計より少し早めに起きて、布団の中でごろごろして、もそもそ出て行って、顔を洗ったり髪を梳かしたりして、着替えて、少しゆっくりして、ごはん。こちらでは朝食作りの順番が回ってくることはないけれど、それだけだ。この家にしては珍しく、何の文句の付けようもなく平和だったのである。

――――今朝までは。

「・・・・は、た、し、・・・じょう?」

枕もとにある白い紙の上のハンター文字をのろくさと追いかけ、目を擦る。は、た、し、じ、よ、う。はたしじょう。果たし状。――ああ、あれだ、バトルのお申し込み。納得しながらも首を捻り、そんなものを誰が私にするんだろうかとぼそりと呟く。すると唐突に思い当たった。

「あ、カルト君か。・・・・・・・・果たし状?」

血の気が音を立てて退いた。







「――ふむ、ようやく真っ向から来よったか。素直になったのォ。」
「いい加減死にそうなんですが・・・」

ゾルディック家の管理能力の賜物か、今のところ調節はできているが、肉体的にも精神的にもかなりいい線まで来ているだろう。胸のあたりを押さえながら緑茶を頂き、落ち着かない気分を申し訳程度に紛らわす。ゼノさんはというと、向かいのソファにいつも通り座って、別段見るともなくこちらを向いている。私の生命の危機にこれといったご関心は無いご様子である。

「・・・それで、お昼前に呼び出されてるんですよね。必ず、って言われてるので行かないのもまずいですけど、行ってもまずいですし。」
「まあそうじゃろな。お前さん、まだ防御以外できんじゃろ?」
「凝で殴るとか、ちょっとだけ肉体強化、とかは、まあ・・・相当な余裕があれば」
「無いな。」
「ですよねー。」

凝は苦手意識を持っていないというだけで、べつに得意なわけでも、まして天才的にできるわけでもない。肉体云々も同じだ。非力なつもりはないが、映画館や劇場の扉を三割増し程度重くしただけ(とキルアが言っていた)の修行場の扉を開けるだけでも疲れを感じるし、オーラを巡らせて強化したとしても大した差は無い。何より、攻撃に使えるような能力があったとしても、いきなり実戦で使いこなせるわけがないのである。

「カルトも一般人からすれば強いからのォ。喧嘩慣れでもしとれば少しは違うだろうが・・・」
「してませんからねえ・・・」

感情に任せて殴り合いに水を差したり、兄貴を背負い投げしようとしたことはあるが、前者は花瓶やゴミ箱という名の武器を振りかざしていたし、後者は体格的に無理があったので未遂に終わっている。他にもいろいろやったような気がするが、それは主に特撮ヒーロー系ごっこ遊びの記憶であろう。それも保育園・小学生時代の話である。記憶が遠すぎる上、私が重きを置いていたのは変身ポーズだ。

どうしたものか、と私がいよいよ困り出すと、ゼノさんは今まで握っていた湯呑をとんと置いてその手をこちらに向け、文字通り目にも止まらない速さでオーラをそこへ集中させた。一瞬「凄まじいポテンシャル!!」というセリフとデコ包帯が過ったが、ここでそれを発言するとなんだか色々まずそうなのでぐっとこらえて、独特の圧迫感から逃げるように身をよじる。

「・・・あの?」
「いざとなったら、こうすればカルは退く。お前さんの実力ではこのあたりの小細工で限界じゃな。」
「(いちおう本気の本気で念修行してるんだけどな)」
「お前さんが本気なことはわかっとる。」

表情を変えたつもりはなかったのに、そんなに不服そうにしていたんだろうか。慌てて頬を両手で押さえこんでみたが、いかんせん見えない部分はうまくいかない。とりあえずできるだけ真面目な顔を作って、オーラが退いたのを見てもとの姿勢に戻る。ゼノさんはやれやれとでも言いたげだ。

「本当に落ち着いとるのか落ち着きないのかわからん奴じゃのォ・・・」
「どっちもですよ。」
「人はそれを性質が悪いと言うんじゃ。」

それを暗殺者に言われたくない。私は至って普通だ。と、また言おうとしていたのをなんとかやめて苦笑する。妙な口癖ができてしまったものだ。

「なんにせよ、無理して戦おうとせんほうがいい。」
「生兵法は怪我のもと、ですね。わかりました。全力で“参った”します。」
「ワシがこう言うのもなんじゃが・・・お前にゃプライドっちゅうもんがないのか?」

無論無いわけではない。しかしそれ以上に、私は帰りたいのだ。我が身一つ守れないくせに勝とうとするなんて馬鹿馬鹿しいことこの上ない。無理を通して得る物もあるかもしれないが、負けを認めてしまった方が失うものは少なく済むだろう。それらしく言えば、むしろプライドがあるからこそ負けに行くのである。

生真面目な顔から少し笑んでゼノさんを正面に見ると、彼は何かを見定めるようにこちらを見つめ返した。しかしやがて呆れたように表情と姿勢を崩すと何やら溜息を吐いて、まだ湯気の上がるお茶を静かに啜った。

「・・・ま、せいぜい死なんようにな。」



そうこうしている間にも、時計は着々と進んで行く。
とは言え、私には準備もへったくれもない。せいぜいボロにしても怒られなさそうなジャージを選んでよく準備運動をするくらいしかないのだが、いざ時間が迫ってみると手持無沙汰が心許ない。まるで課題消化率零パーセントで迎える夏休み最後の一週間だ。
などと考えて、結局夏休みの宿題に関しては十年かけてもあんまり進歩しなかったな、と走馬灯じみた思い出に浸っているうちに、とうとう時刻は約束の十一時を回ってしまった。

私はおずおずとカルト君が示す扉をくぐり、揺れる振袖をちらりと目で追う。――ちょっと目を離した隙に、随分と本格的に可愛らしくなってしまったものだ。つい数日前までは一応男の子として通る格好か、あっても時々落ち着いた色合いの小袖を着ているくらいだったのだが。それよりもまず、なぜその明らかに動きの邪魔になる服を選んだのだろう。もしや服が何でも別段邪魔にならない程の技量を既にお持ちなのだろうか。
勝手に悶々としている私に構わず、彼は部屋の中央付近に立った。私はその数メートル手前でまごつきながら立ち止まり、気休めに深呼吸をして居直る。カルト君の視線が鋭く私を掠めた。

「逃げないんだ。」
「・・・まあ、ね。」
「根性は、認めてやってもいい」

こちらをじっと睨む大きな猫目は、やはりキルアとよく似ている。思いの外冷静に頭一つ弱小さい彼を見つめ、それからふと部屋の様子を再確認して、私はむしろそちらに慄いた。正々堂々と果たし状を送り付けてきたのだから、決闘は決闘らしく広くて何もない場所を選ぶものだとばかり思っていたのに、連れて来られたのはまさかの拷問部屋だったのである。拷問部屋だったのである。大事なことなので二度言っておく。

ちなみに拷問部屋という名称は推測だが、鉄の処女や明らかに手錠の位置がおかしい固定器具やチェーンソーの歯にしか見えない鞭がごろごろ置いてあって、しかも床に血の跡やら何やらがこびりついている部屋を他に何と呼べばいいのか私は知らない。あえて呼ぶなら十八歳未満閲覧禁止部屋だ。よって私やカルト君はここにいるべきではない。離れて見物しているキルアも即刻退室すべきである。

「・・・あの、彼は何ですか?」
「判定要員」
「なるほど・・・」
「イル兄様はの味方するから立ち入り禁止」
「(ねーよ)」

イルミさんはゾル家第一だ。今は売った恩があるだけで、生き死にの関わった状況からカルト君か私かという二択を迫れば間違いなくカルト君を選ぶだろう。いや、まあこの場合私の命が一方的に危ないだけなので、もしかするとカルト君の言うような状況も生まれるのかもしれないが。

「質問はそれだけ?」
「・・・制限時間は?」
「お昼まで」
「勝利条件は?」
「相手が負けを認めることか、致命的なダメージを負わせること。もういい?」
「うん。」

補足だが、もういい?のときのカルト君は紛う方無き殺人鬼の目をしていた。本当は「棄権ってアリ?」と「負けたら罰ゲーム?」も訊いておきたかったのだが、彼の視線が許さなかったのである。今更ゾルディック家の恐ろしさを垣間見てしまった。

「ちなみに反則は無し。ここにあるものも使えるなら使っていい」
「(それは一生のトラウマを作ってやるぜという意味だろうか。)」
「キル兄様、おねがい」
「・・・ああ」

キルアの何か言いたげな視線からゆっくりと目を逸らし、体の力を抜いて、纏を整え、深く深呼吸する。目を閉じると、もともと弱い光源のせいで、視界は暗室のように真っ暗になった。


戦う、つもりはない。いつもどおり受けて流すだけ。
かといって、ただ負けるつもりもない。


「(帰る 帰る 帰る 帰る)」


――死ぬなんて、怪我するなんて、冗談じゃない。



「――始め」


視界を光が裂いた。




written by ゆーこ