内装が漫画でちらっと描かれていたのと違っている気がしたが、まあ、変化系のことだ。気まぐれで模様替えしたりもするのかもしれない。と適当に結論付けて考えるのをやめた。というより、丁度そこで思考が停止した。
――あれは見たことある。ソファの横で、伏せたままこちらを見ている、熊サイズのやけに鋭い犬。・・・・犬?
「(えっ・・・)」
必死で目を疑ってみたが、めんどくさそうに欠伸をする姿や獣のにおいは確かに、紛れもない本物である。念のため改めてもう一度凝視してみたが、目が合って逸らすに逸らせない(逸らしたら負けだきっと)空気になったのでそうっと後ずさってその視界からフェードアウトした。どうやら本物らしい。
なんだかどうしていいかわからなくなった。いや、実際のところそこまで驚いてはいないのだが、改めてこの世界の理不尽さを実感したのである。流石は少年漫画、としか言いようがない。
まあとりあえず、なるほどこれをでっかくしたのがミケなんだな、と、言われてみれば狩猟犬らしい無駄な肉の落ちた体や、真っ黒で奥のない目や、とがった耳や鼻先とちらりと覗く牙をそれぞれ拡大したものを想像して、やっぱり思考停止した。考えない方がよさそうだ。
何やら攻撃力の高そうなインテリアと若干距離を取りつつ、すすめられた椅子に座る。そして向かいにどさりと座ったシルバさんをそっと見、落ち着けないながらに納まりのいい場所を探して姿勢を正した。距離自体は初めて話したときと同じくらいだが、オーラを感じ取れるようになったからか、並々ならぬ威圧感である。これだけ存在感があって暗殺者というのもなんだか変な話だ。
私が彼を眺めながらそんなことを思っている間、シルバさんも私を観察するように見ていた。それから一度姿勢を変えて、彼は話し出す。
「どうだ、うちには慣れたか?」
「は、はあ、まあ・・・」
曖昧に答えて目を逸らした。イエスと答えてしまえば嘘になる。
確かにもう大体のことには諦めがついたし判断基準もゾルディック節に流されかけている。しかしそれでも、カルト君はあれだし毒にも体が慣れてきただけで抵抗があることに変わりはないし、キキョウさん相変わらず何がしたいのかよくわからないのである。
ずらずらと理由を脳裏に羅列していると、シルバさんはうっすら笑って頷き、また口を開く。
「修行は順調らしいな。纏が随分良くなった。カルトに毎日やられていてほぼ無傷なんだから、堅もか?」
「ありがとうございます。・・・気合を入れないと死んじゃいそうですからね。」
そう答えて首を親指で軽く引っ掻きながら笑えば、彼も僅かに声を立てて笑う。――強面だしオーラも凄いが、強い人ほど擬態が上手いというのは本当なのだろうなとしみじみ思う。さっきまであった威圧感は、笑うごとに退いていた。
「カルは手強いか?」
「もちろんですよ。毎日死にかけてますもん。」
「そうか。なら、憎らしいか?」
「え?いや・・・正直腹は立ってますが、頭ごなしに、というわけには・・・」
いかないような、いきたいような。
変に余韻を残して黙る。これもイエスでは嘘になることも先程ぼやいたとおりである。
極端な話、カルト君がフレンドリーだったら私はもっと暢気にこの家を楽しんでいた。修行にも特別な緊張感はなかったろう。
そうだったなら、私はもしかすると今だに練をやっていたかもしれないし、発を後回しにするという提案は却下したに違いない。いくらゾルディック家といえども日常生活上で特に高い防御力が必要になるわけではない。毒にはむしろ絶の方が効くし、凝くらいは覚えておいて損はないとしても、隠なんて絶で代用できるじゃん不要の極みじゃん、と考えたのではないだろうか。実際には、カルト君の奇襲を効率よく回避するために気配を消したまま堅、というような技が必要になるのだが、平和なら平和でそれに順応したであろう私の頭がこんなことを予測するはずもない。
ぶつぶつ考えていると、シルバさんはまた私をじっと見ていた。珍しいものでも見つけたような顔。色の薄い目が瞬きに合わせてちらつく。
「真面目だな。」
「普通です。」
聞いたような切り返しをしてみれば、シルバさんは少し拍子抜けしたような顔をして、それからふっと笑い、面白いものだな、と目を細めた。
「同じ末っ子でも、とカルトじゃ随分性格が違う。当たり前だが、お前達を見ているとつくづくそう思う。」
まあ、そりゃ裏社会の王道を行く人たちと一般人中の一般人じゃあ差があって当然だろう。暗殺を肯定しておいてこう言うのはなんだが、ここは子供を育てる家庭としては決してよろしくないし、反して私は保育園で特撮ヒーローごっこ・家に帰ったら兄貴を怪獣に見立ててなんかのヒーローごっこ・晩御飯の材料を刻みながら必殺技連発と非常に平和な幼少時代を過ごしてきた。これで似ていたらむしろ怖い。
「・・・あ、でも。」
散々肯定したはずなのに、自分でも慌てるくらい、簡単に否定の言葉が出ていた。シルバさんは続きを促すようにこちらを見ている。私は一度浅めの深呼吸をして、よく言葉を選んでから、答えた。
「家族が大切って気持ちは、わかります。」
カルト君はきっと、家族のまとまりを崩されたくないのだろう。たとえ崩れることを許すとしても、それが私のようなぽっと出の一般人の手に因ることは許せないのだ。――もしかすると的外れかもしれないけれど、そんな気がした。
シルバさんは二、三秒私の顔を眺め、それからゆっくりと、わずかに頷いた。そうだな、と呟くような声が、幽かなのに耳に残る。
それから少しの間、薄い沈黙があった。
熊サイズの犬が一度大きな欠伸をし、細い尻尾をだるそうに振ったところで、私は思い出したことを尋ねる。
「・・・あの、“言っていなかったこと”って、なんですか?」
「そうだったな。」
忘れていた訳ではないのだろう。ただ姿勢を変えて手元に視線を落としたシルバさんをじっと眺めながら、改めて姿勢を正して言葉を待つ。ここでもあっさりとした沈黙が流れた。しかし彼の様子は、躊躇っているというよりは、何か別のことを考えているように見える。キルアより若干くすんだ銀髪の波を目で追っていると、彼はゆっくりとこう言った。
「うちは五人兄弟でな。」
イルミさんとミルキとキルアとカルト君と、あと一人。私は瞬時に引き算し、そしてなぜか少しひやりとした。言い含められた“何か”が、ちくちくと細かく肌を刺すようだ。
「今はちょっとした事情で居ないが、キルアとカルトの間にもう一人いる。・・・が使ってる部屋は、もとはそいつのなんだ。」
言われてみれば両隣はキルアとカルト君。もともと主のいた部屋ならば何かしらの作業は必要になるだろう。そのための二日。真新しい家具。珍しく凄まじい速さでそう思考し、今度は喉元がむずむずするのを感じた。落ち着かない。
シルバさんがそのあと何を言うか、はっきりとではないが大方予想は付いた。あまり安心できる話題ではないので、長引くのを恐れてそれを言おうとするのだが、口がうまく回らない。もごもごしている間に、おおむね予想通りのことを、彼は話し始めた。
「カルトはお前がアルカの居場所を奪ったと思っているようでな。もちろんそういうことではないんだが・・・
子供達にも、がここに居候する理由と目的は話してある。ただ、イルミ以外の兄弟はの出身について知らないから、そこに触れることは言っていない。憶測が妙な方向に行ったのかもしれないな。
害のない者に対して深く詮索する必要はないと教えているんだが、カルトはそこを割り切れていない。・・・不信感と敵意がすり替わってしまったんだろう。」
ショックではなかった。十分予想できたことだ。もしかしたらと、ちらとは思っていた。――けれど、何か胸が重い。
「カルトはまだ子供だ。あいつが本気を出しても今のお前に致命傷を与えることはできないだろうし、度が過ぎるようなら止めるようイルミやキルアに言ってある。それで納得できないなら反撃するなり練で圧力を掛けるなりするといい。
――だが、あいつは念を知らないからな。多少は容赦してやってくれ、と言うつもりだったんだが・・・どうやら必要ないらしいな。」
そうですね、と笑う。不思議と引きつらなかった。もちろんいきなりポーカーフェイスが身についたわけではない。
それから、とりとめのない話をぽつぽつと交し、彼の部屋に招かれてから二十分ほど経ったところで修行場へ戻った。
だらだらした動きで修行場の中央に立つと、私は珍しく纏を解いて、およそ修行の気色などないような状態でぼんやり天井を眺める。
――私は。
「・・・ごめん」
小さく気配が動いた。正直言うとそうだったらいいなと思っただけだったけれど、扉が動く音がしたから、たぶん本当にそこに居るのだろう。
私はおずおずと視線を下げ、廊下の心もとない照明が細く縦に伸びているのを見て、苦笑した。
――彼が、攻撃しないどころか、殺気も向けてこないのは初めてだ。
真っ黒の双眸と目を合わせながら、条件反射で堅の体勢に入るのをぼんやり感じて、これにも苦笑する。
「・・・何が?」
棘のある口調で彼は言う。私はなんでもないと首を振って、膝が笑うのがわからないくらい早足で扉に歩み寄ると、カルト君が開けたところから手をかけて扉を開け、抜け出すように修行場を出た。
ちらりと振り向けばカルト君の姿はもうそこにはなく、代わりによく磨かれたナイフが一本、扉に突き刺さっている。私はそれをしばらく眺め、結局手をつけずに背を向けた。
