中々いい投擲だった。しかし狙いを外したカルトは納得いかない風に俯き、最近のキキョウの気に入りらしい振袖を翻すとさっさと廊下の奥へ消えてしまう。――モニターに残るのは、こちらは相変わらずキルアの服を借りただけだ。彼女は隠で隠した堅を解くと(というより限界だったのだろう)脱力したようにその場に膝を付いた。
『・・・か、――て、れ・・・』
ぼそりと呟かれた言葉を辛うじてマイクが拾う。しかしこちらが何を言ったか理解するより先にはゆらりと立ち上がり、背後の壁に刺さったナイフを抜くと柄を軽くつまんでふらふらと揺らしながら、カルトと同じ方向へ歩いて行った。捲し立てるような足音が彼女の心境を問わず語りに語っている。
「・・・そろそろ、キレるかもな。」
キキョウがモニターの視点を変えるのを見ながら呟く。すると彼女は数秒カチリと固まって、それから半ば機械的に振り向いた。口元が少し歪んでいる。この分だとカルトを擁護するのだろう、と特に構えもせず脚を組み直すと、キキョウは案外落ち着いた声色でこう言った。
「あなた、カルトちゃんになんとか言って頂戴。もう二か月になるっていうのに、まともに話もしないでずっとあんな態度で・・・」
「・・・意外だな、に付くのか。」
また呟くと、キキョウはやや憤慨したように続ける。
「カルトが機嫌を損ねる理由はわかります。でもに非がないことは私が一番よく知っているつもりです。」
それは俺もわかっている。キキョウに至ってはほぼ四六時中監視しているのだから知っていて当前だ。しかし普段(といっても普段“部外者”とこうも深く関わることはないが)の姿勢から言えば、に与するような発言はまるっきり慮外だった。俺が驚きから抜けきれないでいると、まだ言いたいことがあるらしいキキョウはさらに続けた。
「そもそもカルトにはの事情は伝わっていないし、も自分の位置のことは知らないのよ。確かにあの子たちが腕を上げてるのはこのお蔭ですけど、このまま放っておいたら悪影響にしかならないじゃないの!」
「それは親父の提案だろ。俺がどうこうする問題じゃない。」
「・・・」
キキョウは閉口し、しばらくは何か言いたげにしていたが、やがて大型モニターの電源を落とすと無言のまま出て行った。俺はそれを目で追い、扉が閉まったのを見届けてからやれやれと息を吐く。
「――悪影響、か。」
それは恐らくないだろう。はある意味「ゼロ」に近い存在だ。善悪のどちらとも付かず、悪くはないが良くもない性質。どちらかといえば保守的で自己完結しがちなようだし、およそ影響を与えてくるようなタイプではない。親父もそう思ったから彼女をアルカの位置に置いたのだろう。まあ、カルトの反応は多少予想外だったが。
天井を眺めながらひととおり考え、しばらく目を閉じ、それからゆっくりとソファを立つ。
影響があるかどうかは別にしても、確かに今は鎮静が必要なのかもしれない。カルトにもにも言ってやらねばならないことがあるだろう。
父の勤め。――ふとそんな言葉が過って、少し可笑しくなった。
危うくハリセンボンになりかけた日から半月ほどして、傷はようやく塞がった。
とは言っても傷口の皮膚が完全に元に戻るわけではない。我ながらファンキーな両腕になったものである。
もちろん、女の子の自覚がないわけではない(兄貴にこの件で怒られたことを思うとそうでもないのかもしれないが)から、これ以上目立つような傷は増やしたくない。特にハリセンボン事件以降は纏と練を馬鹿の一つ覚えのように繰り返して、他にもやることはあったけれど堅の修行をさせてもらった。今でも鋭利なものを正面から弾くのは不可能だが、少し無理をして動けば軌道を逸らすくらいはできるようになったので、捨て身で受け止めるのがやっとだったときに比べればずっと進歩しているのだろう。
――そう考えると、不思議というのか皮肉というのか、私の成長のほとんどはカルト君のお陰だった。過程や状況はどうあれ、早く強くなればそれだけ早く目的に辿りつくことができることは紛れもない事実である。――しかし、彼が私を嫌いなのもまた紛れもない事実なのだ。帰ることが先決である以上、いつまでもこの状況を引き延ばすわけにはいかない。殺気に慣れ、怪我に慣れ、死にかけるのにももう慣れて、そろそろ死んだっておかしくない。
考えながら暗い廊下をすたすた歩き、回収したナイフをじっと眺めて息を吐く。――毒が塗ってあるのか、嗅いだ覚えのない臭いと妙な光を帯びている。私は肩を落とし、まだふつふつ言っていそうな腹のあたりをそっと撫でた。
この頃、ふとしたときに胃や頭が痛くなる。毒のせいかもしれないし、あまり考えなかったが、そろそろ肉体的にはギリギリなのかもしれない。体は正直なものだ。
階段の最後の五段を跳び降りて、足音がしんしんと響きながら吸い込まれるのを耳に、修行場の扉を睨む。そして、修行用に新たに考案した「呪文」を小声で唱えた。
―――帰る。帰る。帰る。死ぬなんて、怪我するなんて冗談じゃない。
三回繰り返して、立ち止まる。悪い意味でぞくぞくした。
不謹慎な話かもしれないが、いつも頭の隅に「帰れなかったらこの努力は無駄」という損得勘定がちらついてしまう。そしてそのあとになってぼんやり怖くなるのだ。でもすぐに馬鹿馬鹿しくなる。――考え込んで後ろを取られて死ぬ方が怖い。早く、もっと強くなろう。
ふう、と息を吐いて扉をぐっと押す。筋肉を意識してオーラを込めればある程度力が増すことは研究済みである。
重たい音を立てて開いていく扉の向こうは既に明るい。イルミさんがもういるのかと思ったが、いや、と首を傾げる。彼は昨晩仕事に出たはずだ。それに、彼は気配を消して待ったりしない。
「(誰だろ・・・)」
扉を持ったままでは首がうまく動かせなかったので、駆け込んでから顔を上げる。くるりと見回して、広間の名残だという向いの同じ形の扉の横に目をとめた。
「シルバさん。」
どうしたんですか、珍しいですね、という意味を込めて呼ぶと、彼は壁に凭れていた背を浮かしてほんの少し笑い、こちらへやってきた。突っ立っているのもなんなので私も駆け寄る。
「言っていなかったことがあると思ってな。」
何のことだろう。嫌な感じがするわけではないが、シルバさんの威圧感で自然と背筋が伸びる。良いのか悪いのかよくわからない悪寒が、ぞわりと背筋を走った。
