体力テストは調子に乗るとギリギリBというだけで別にそう大したものではないし、成績も中の中。いや全国平均ド真ん中の学校でド真ん中の成績とくるとある意味凄いような気もするが、兎にも角にも「平均」こそが私の代名詞である。身長に関して言えば平均値を下回った記憶しかないが――まあ、とにかく普通なのだ。顔も普通だし性格も普通に周囲の影響を受けてきた。普通に特技もあるし、普通なりに楽しい人生を送っているが、もちろん悩むこともある。まさに普通。ビバ普通。
私はそうして自分自身の潔白を必死で並べ立てることで、なんとか危機感の認識を拒んでいた。膝は相変わらずぎくしゃく言っているが、ポジティブキャンペーン中なので一応姿勢を保っていられる。
――が、目の前に聳える壁の如く立ちはだかる“旦那様”の恐ろしさには、どうしても太刀打ちできないのだった。
「うちの息子が世話になったようだな。」
笑顔である。笑顔だが、なぜか緊張感は解れない。私はやむなく愛想笑いを浮かべて、後ずさろうとする膝に必死で待ったをかけ続けた。――なんだろうこの感じ。身長の差は言うまでも無いしどうしようもないが、なぜかプレパラートに乗せられて顕微鏡で観察されているような、存在の根底から見下されているような、あまりいいとは言えない気分だった。カバーガラスに対物レンズがくっついて潰してしまったミジンコの拡大図がふっと脳裏を過る。
「そう身構えなくていい。少し話を聞きたいだけだ。」
大きな手と太い腕がぬっと伸びてきて、私の頭をがしがしと撫でた。割と痛いのだが、ぎこちない感じがあるのでもしかすると相当手加減しているのかもしれない。しかし恐い。すごく恐い。私がさらにおどおどし出すと、彼はわずかに申し訳なさそうな表情をした。イメージにない顔だったので呆気に取られて無言の抵抗をやめると、気付いた時には一人掛けのソファに座らされていた。小さなローテーブルをはさんだ向こうには三人掛けのソファの中央に座るシルバさんがいて、その視線は相変わらず私の目をじっと捉えている。また対物レンズとカバーガラスの恐怖を感じた。
それからしばらく沈黙があった。そして私が空気に慣れてきた頃合いを見計ったように、彼は静かに尋ねた。
「名前を聞いてもいいか?」
「・・・、です。」
「そうか。どこから来たんだ?」
「どこから、ですか・・・」
自然と眉が寄る。いきなりそう言われても困る。住所を言ったって仕方無いだろうし、どうやら本当にトリップしているらしいから「異世界」と言えばいいのだろうが、いきなりそれは唐突すぎやしないだろうか。唐突過ぎるに決まっている。まあ、念を知っている人で、“有り得ないこと”の存在も肯定していて、おまけに出来るのだから、そういう念能力が存在してどうこう、と思考することこそあれ根っこから否定されることはないだろうが、それでもその返答には不安がある。そんな嘘臭い真実よりは、真実味のある嘘の方がまだ安心して口にできるだろう。
しかし、何より沈黙を通すことの方が不安だ。私はつい泳がせた視線をシルバさんに戻し、先程と一ミリも変わらない表情をざっと確認してから一瞬俯いて、そのまま言った。
「よくわかりません。今はちょっと、整理がつかなくて・・・」
「・・・さっきあいつが一度起きてな。お前がいきなり現れたと言っていたが、確かか?」
イルミさん起きたのか。言い回しからして全快というわけではなさそうだが、ずっと意識不明よりはマシだ。ほっとして肩を落とし、少しだけ表情を緩めると、シルバさんが不思議そうに首を傾げた。私は慌てて姿勢を正す。
「た、確かだと思います。私もいきなり視界が変わったように思うので・・・」
「その前は何をしていたんだ?」
「え。えっと、それはその、ええと・・・」
私は視線を一周させ、引きつり笑いながらもなんとか答えた。
「あ、兄に説教を、されておりまして・・・」
「説教?何かしたのか。」
食いつく場所がおかしい。そこ食いついてほしくなかったのに!
すごく突っ込みたいのとこれ以上恥を曝さなければならないのかという恥ずかしさとで地団駄を踏みそうになるのをなんとか抑えながら、私は答えた。
「えっと・・・学友と深夜まで歓談しておりまして、つい楽しみすぎて帰りが零時過ぎになり、危ないだろ何考えてんだ、といった感じに・・・」
「ふむ・・・うちには息子しかいないからその気持ちはよくはわからないが・・・」
それはそうだろう。息子な上筋金入りの暗殺家系だ。ほっぽり出しても全くもって問題ない。
自分の恥を曝したのとリアルだと思うと改めてバケモノな彼らの存在にげんなりしたのとでどんよりしていると、彼は何か考えながら言った。
「見たところ、は普通の娘だろう?そんな遅くまで出歩くのは確かによくないな。」
「うっ・・・す、すみま・・・せん・・・」
なんでこんなすごい人にまで普通に叱られてるんだろう。なんで私謝ってるんだろう。
色々と疑問はあったがとりあえず苦笑しながら頭を下げて、次なる言葉を待つ。今のところ私から言わなければならないことは無い。
「・・・で、あいつを助けたのは何故だ?」
「え?」
・・・何故?
そうバッサリ訊かれてしまうとどう答えていいか分からなかった。先に述べたように、彼が倒れたから命拾いしたようなものだし、「イルミ=ゾルディック」は好きだ。そしてほんの少し兄貴に似ている。だから助けた。たぶん危害を加えられていたとしても助けを呼ぶくらいはしていた。――これをどうしたら当たり障りなく言えるだろう。やっぱり“義理人情で動いてしまった”?そうだな、このあたりか。
そう言おうとすると、それよりも先にシルバさんが口を開いた。
「あいつは、お前を殺そうとしたと言っている。殺意を向けてきた者に好意を持つのは不自然だと思わないか?」
「・・・好意でなくても、助ける理由にはなります。」
「理由?何が。」
口元が歪む。シルバさんはやけに楽しそうな、私は不愉快そうな顔をしていると思う。感情なんて隠さなくても、性格が歪んでさえいなければまあまあやっていけるから、ポーカーフェイスなんて高等技術は使えないのだ。
別に「人情」と言えば済むことなのだが、なんだか癪に触った。ゾル家は好きだ。だが、こういう無意味に掘り下げるような、反応を見るようなのは気に食わない。せっかく頑張ってそれっぽく答えたのに。と口を尖らせながら、わざと回りくどく答える。
「“理由”なんて、あってないようなものです。人が倒れたから手を貸した。それだけですが。」
「・・・随分、優しいんだな?」
「普通です。」
心外だというような口調で言ってみてから数秒して、はっとした。――なんか私態度でかい。しかし腹が立ったのは事実なので、意地を張って彼をじっと見つめ続ける。視線は揺れたが、兄貴に怒られた時のショックよりはマシだ。
「――まあ、どうあれ感謝はしている。お陰で早々に対処できたからな。」
対処。根本的な解決には至っていないと言っているらしい。ここで睨まれないあたり、変な疑いはかけられていないようだ。早々に一般人を肯定してもらえたからこれは間違いないだろう。
「ところで、お前は殺しをどう思う?」
「はい?」
いきなり何を訊いてるんだこの人。というか訊いて何になるのだろう。意図が分からなかったが、さあ?と答えるのもなんなのでひとまずは考えた。しかしそれらしい答えと呼べるものは一般論しか浮かばない。そんなわかりきったことを答えても仕方がないので、結局適当に答えることにした。
「いや、特にどうという風には・・・」
「では、俺達が皆人殺しだと言ったら?」
「別に」
「・・・」
・・・うっかり即答してしまった。私の少年漫画大好き症は思いのほか深刻だったようだ。血がペンキを撒いたような流れ方するとか、素手で腹を貫通とか、ズバー!とかビシャー!とかそんなものばっかり見ていて、その上慢性的な現実逃避癖のせいで時々素にまでそんな感じの言動がにじみ出てきてしまうのはわかっていたが、まさか、多少混乱しているとはいえまさか質疑応答でボロを出すとは――
でもまあ、全国平均脳みそにあまり高度なことを要求しても仕方ない。覆水盆に返らず。もう諦めよう。
「・・・ふっ・・・ククク、中々面白い娘だな。」
その面白いは褒め言葉なのか、皮肉っているのか。やはり意図が汲みきれなくてどきどきしながら、肩を揺らしていまだにクスクス笑っているシルバさんを眺める。
しばらく沈黙ではない間があった。それから彼の視線がまた私を捉え、私の背筋は自然と伸びる。
「人を助けるくせに殺しを否定しないとは・・・なら“普通”では意味が違うな。どっち付かずと言うんだ、そういうのは。」
・・・言われてみればそうなのかもしれない。人並み、ときどきは人並み以上に他人に入れ込むが、人並み以上に不特定の「人助け」には興味が無いところがある。人並みにホラー映画は恐いが、人並みにグロやスプラッタへの免疫はある。ケースバイケースだしデコボコしているが、改めて考えてみれば私が持っているのはだいたいそんな、矛盾だらけの論理だったような気もする。平均値を追いかけすぎて「どちらでもない」になってしまっているような。あまり自分らしさとか、そううものは考えない性質だが、言われてみればそれが「私」というものなのかもしれない。
しかしすぐに考えるのをやめた。なんにせよ平均は平均。間を取っているだけで、逆に言えば中途半端なのだ。まさかトリップ特典なんて気の利いたものがあるはずもない。となるとゾル家コースでは将来は絶望的だ。というか実際やるとなるとホラーゲームも真っ青の結末を迎えそうで怖すぎる。
――ううむ、とりあえずどうやって敷地出ようかな。
「変なことを聞くが。」
さっきから十分変ですけど。と思いながらも、「何でしょう」と淀みなく返事する。緊張はとれていないが、この状況でのやりとり自体には徐々に慣れてきたらしい。
「兄さんはどんな人だ?」
「・・・頭のいい人でしたけど、中の上とか上の下って感じですね。人がよくて、やさしいって言うか、いまいち詰めが甘いところがあって。野心もないし。・・・まあ、だからこその“いい兄”なんですけど、怒ると怖いです。」
「じゃあその怖い最中にいきなりここに来たわけか。」
「正直わけがわかりませんでした。実は兄の怒った顔が、息子さんとちょっとだけ似てるんですよ。一瞬目がおかしいのかと思って、でも気付いたら森の中で、見知らぬ人と立ってました。」
「なるほど。」
シルバさんは黙る。私も黙って、履き潰したスニーカーの爪先をそっと合わせてもっと姿勢を整えた。
「その似てる男に、もう少し手を貸してやってくれないか?」
「え?」
足が浮く。大きな手がまたこちらに向いていた。
「・・・あの、それはどういう・・・」
「珍しく
ことり、と音を立てて、踵が床につく。首を傾げたかったが、しなかった。
「・・・ことによりますが、できることなら」
「礼を言う。」
立ちあがったシルバさんのあとを追いながら、ぼんやりと兄の顔を思い出した。もちろん、感情的になるのを抑えようとしすぎて凍り付いた、最後に見たあの表情である。――いつもは怖くてたまらないのに、今はその顔すら恋しくて仕方が無いようだ。
「(兄貴。)」
――帰りたい。
――いや、帰ろう。
念じるように拳を握りしめ、私はしっかりと前を見た。
