面倒見がよく気長で、たいていのミスは水に流してくれるおおらかな性格の兄だが、彼も怒るときは怒る。(リアルに卓袱台を反された時はどうしようかと思った)人当たりのいい顔立ちだから目つきはいいはずなのだが、そんなときばっかりは某漫画の同じく兄キャラが脳裏にはっきりと浮かぶ。――ハンター×ハンターのイルミ=ゾルディックである。
「おかしいな、どこから入ったの?」
・・・・イルミ=ゾルディックである。
私はあらためて頬を抓った。無論痛い。しかし目の前にいるのはお怒りになった我が兄ではなく、まさに“イルミ=ゾルディック”としか言いようのない人形的な美青年だ。――おかしい。私は確かに兄貴に怒られていたはずなのに。
「(遂に幻覚見るほどドリームにやられたのか・・・)」
やっぱり頬を抓りながら、木の根っこに躓いて尻餅をついた体勢から呆然と目の前の長身の男を見上げる。――だめだ、どう見てもイルミ兄さんだ。うちの兄貴じゃない。
「あとで拗れてもめんどくさいしなあ」
声もアニメで聞いたのと特徴が似ている。淡々としているというか、表情が無いというか、とにかくイルミ声だ。聞いたことがあるような気がするほどイメージ通りの、しかし知らない声。違和感につい身じろぐと、男は無表情に私を見下ろしながら、左手をこちらに向けた。その指の間には見覚えのあるようなないような細くて尖ったものが光っている。
「動くな。」
いや動いたのあんたの声のせいですけどね。現状を把握し切れていないせいか、客観的に見れば明らかに命の危機に瀕しているというのに、思考回路は非常に暢気だった。しかしすぐに自分の状況を思い出し、今度は別の意味で身じろぐ。それからまた数秒かけてよくよく考え、逃げなければまずい、という結論を出したころになって、私はようやく慌て始めた。
――つねった頬が痛いのだから夢ではない。それでもこれが現実とは考えにくいが、このままぼうっとしていてはまずい。何がどうまずいって、もちろんサクッとバッドエンドを迎えそうでまずい。何が何だかよくわからないが、ともかくまずい感じだけはひしひしとするのだ。とにかく立ち上がろう、と足に力を入れると、それを見た男は何やら考えるような仕草をして、それから口を開いた。
「・・・まあ、逃げたいなら逃げれば?どうせ二、三日で死ぬし。でも今なら一瞬で殺ってあげてもいい。」
いやいやデッドオアデッドって聞いたことないぞ!
ビクビクしながらも一応(心の中で)ツッコミを入れて、さっと両手を上げる。こういうときはこのポーズだろう。ついでに「すみませんごめんなさい許してください」なり「降参です勘弁してください」なりと喋りたかったが、生憎喉が震えて声らしい声が出ない。とりあえず目で「命だけは!」と訴えてみる。
「命乞いは聞かない。」
「(バッサリだ!!)」
それから一拍遅れて言葉の意味をきちんと理解し、絶望――というよりはもう頭の中が完全にホワイトアウトした瞬間、彼の手がさっと構えられたのを見た。ピリッと走った緊張感に、思わず「ひゃ」だかなんだかと上ずった声を漏らす。心臓が痛いほど跳ねている。手のひらが熱くて、今どこを触っているのかよくわからない。バランスを崩して、浮かしかけた腰をまた地面に落とすと、それを合図にしたように彼の手が動いた。
――執行猶予もないのかよ!内心で喚いてみたが、勿論状況は変わらない。この際泣き叫んでみた方が効率的なのだろうか、と一瞬考えたが、生憎涙が出ない。怖すぎてなのか急すぎてなのかはわからないが、とにかく私には成す術がないということだ。もうどうしようもない。
今度こそ絶望して、それでもまだどこかで「これは夢の類だ」と思っている私が暢気に――いや、別の意味で緊迫した思考をふっと巡らす。
――兄貴に怒られてる最中にこんなことになるなんて、しかも早々に死亡フラグなんて、このままじゃ・・・このままじゃ兄貴に殺される!!
私にとっては超巨大隕石があと五秒で降って来ると知ったくらい凄まじい混乱のままに泳がせていた視線がふいに黒い双眸を捉え、一瞬息を呑んで身を固くしたが、私はすぐに異変に気付いた。動き始めたはずの腕が、一向に振り下ろされないのだ。
「(命乞いは聞かない、んじゃなかっ、た、っけ・・・?)」
目をぱちくりさせ、挙げたまま強張らせていた両腕をゆっくりと下ろす。男はぼんやりと立ったままで、私が身動きすることに関して何か言う気はないようだった。安心したわけではないがひとまず深呼吸をして気持ちを落ち着け、ゆっくりと膝立ちになる。――立ったところで私の劣勢に変わりはない。文句を言われる筋合いも無いだろう。そう決め込んで足の裏を地面に付けると、膝は笑っていたが、思ったよりしっかりと立ち上がることができた。
それから改めて彼を見上げた。身長は兄貴より十センチくらい高そうだが、彼よりいくらか若いように見える。害意はまるっきりなさそうな表情の作り方をしていたが、そのままかちりと固まって、本当に人形のようだ。首がかくりと機械的に傾く。
「・・・ん?」
動きが人間として有り得なかったような気がする。――いやそれより、様子がおかしい。
一瞬迷ってから喧嘩するように軽く身構えると、案の定というかなんというか、彼はゆっくりとこちらに倒れ込んできた。兄貴がキレて突き飛ばしてくるのよりは見るからにずっと軽いのでしっかりと捉えて受け止める。思いのほか体温が高いのに驚いたが、すぐに気を取り直した。
とりあえず、彼を支えたまま背を向け、腕を引っ張って自分の肩に脇を引っ掛け、自分より頭一つ、いやそれ以上大きな男をふらつきながら持ち上げた。身長の割、体重は案外ないらしい。最近背負い投げをしようとして兄貴に掴みかかった感触より軽かった。
――やはり彼はイルミ=ゾルディックなんだろうか。私はしばらく考えてから、大きく息を吸って大股で歩きだした。背負っても背負い切れない長身が地面と触れてざらざらと音を立てていたが、さすがにそんなところにまで配慮できるほどの余裕はない。
――お前はなんでそう女子の自覚がないんだ。こんな深夜までうろついて、何かあっても文句言えないんだからな。
「・・・兄貴」
最後に聞いた怒鳴り声が、重なりながらループする。
――そういえば、兄貴が結婚してからああいう風に叱られたのは初めてだった。やっぱ切れるとイルミ兄さん似だなあと思ったのも、久しぶりだ。
たぶん、あのまま普通に怒られていたら、久しぶりに「まったく」と言いながら叩くように頭を撫でてくれたのに違いない。
――でも、なぜか私はこんなところにいる。兄貴は兄貴違いだし、死ななかったけど、死にかけた。何が起こっているのか、私はこれをうまく形容する方法を知っているが、それは「お話」であって現実ではないという思いが強い。信じきれない。
しかし、もはや信じるほかなかった。夢だ嘘だと否定するばかりでは何も始まらない。仮に現実でなかろうと、目の前のことから逃避する気にはなれなかった。
そうやって強気になったはずだったのに、なぜか急に怖くなって、目頭がひどく痛んだ。昔から泣き顔を他人に見せるのが大嫌いで、無理にでも我慢するようにしていたら、いつのまにかこうなっていたのだ。あんまり泣かないので身体の方がせっついているのかもしれない。私はいつものようにまぶたを閉じ、息を吸って、一気に吐き出しながら目を見開いてぐっと足に力を込める。イルミさん、の足が地面と擦れる。しかし申し訳ない気持ちは押し殺して、一歩ずつずるずると進めていく。
立ち止まりながらしばらく引き摺り歩いて、私はもう一度前を見た。――幸いもう目的地は見えている。あとほんの少しの辛抱だ。引き攣りそうな肩に眉根を寄せながらも息を小さく吐いて、大きく吸い込む。
「手、貸してください!」
十五メートルほど向こうで、特徴的な髪型の女の子が肩をわずかに揺らした。雇い主が見知らぬ女に背負われているという未知のケースに動揺したのかもしれない。しかし優秀な彼女はすぐに駆け寄ってきて、強い口調で「私がお運びします」と言いながら私を払いのける。彼女の立場から言えば十分予想できる態度だったし、代わってくれるのは有り難かったが、気付くと私は彼女を睨んでしまっていた。しかしすぐに頭を下げる。
「お願いします。」
「・・・ちょっと、話を聞きたいのでこちらへ」
頷いて、踵を返したカナリアちゃんを追いかけた。私と違って要領がいい彼女は小さな体でも引きずることなくイルミさんを運んでいく。光景は異様なはず(もっと元気な時に見てたら爆笑していたかもしれない)だったが、私は相変わらず眉間に皺を寄せてじっと涙をこらえなければならず、それどころではなかった。
しばらくすると見覚えのあるような大きな屋敷に着いた。玄関先では気配でも感じたのか、ゴトーさんらしき長身の男性が待ち構えている。私がその五メートルほど手前で立ち止まっていると、カナリアちゃんは彼にイルミさんを預けてから振り向いて「早く来て」と急かした。私は膝が震えているのと、だんだん増してきた気持ち悪さを意識しないように、そしてやはりうっかり泣いたりしないように気をつけながらゆっくりと後を追う。イルミさんを背負ってこちらに一瞥だけくれたゴトーさんにはお辞儀だけしておく。何か言われたようだったが、ちょうど胃のあたりが痛んで目元が熱くなってしまったのでそれどころではなく、結果的に無視してしまった。まあ、いいようには言われていないだろうから問題ない。
玄関を入ったはいいがどうしていいか分からず手持無沙汰にしていると、カナリアちゃんがじれったそうに私の腕を掴んで引き、ソファに押し込んだ。見上げると彼女はどこか強張った顔で言う。
「ここで待っていて。じきに執事長が来るから」
「・・・、はあ。」
それだけ言うので精一杯だった。そのことに余計うろたえて、早くなんとかしようと思考の転換を図る。ネガティブじゃだめだ。もっと状況をプラスにとらえなければ。
そうだ、リアルトリップなんてそうそう有り得ることじゃない。良く言えば実に美味しい状況なのである。いきなりゾル家だとちょっと生存率は危ないかもしれないが、いいじゃないかゾル家結構じゃないかゾル家。三大王道の中で一番好きだぞゾル家コース。
それによく考えれば彼らにとって殺しはビジネスなのだ。こんなそのへんにいくらでもいる芋ジャー娘に労力を使ったりしない。といいなあー。
ちなみに王道残り二つは蜘蛛コースと主人公組コースだ。王道反王道の判断は私の独断と偏見である。
そこまで考えて、私はようやく落ち着きを取り戻した。違和感に震えていた胃袋も徐々に大人しくなり、吐き気はすっかり治まって、涙の方も引っ込んだ。ただ治らないのはもう笑っているなんてもんじゃない、大爆笑レベルの膝の震えだ。
「(・・・私はあと何分生きてられるんだろうか)」
自分で判断して行動したことだったし、彼を運んだことは別に後悔していない。怖くなったのはこれが現実だと信じ始めたからで、となると私がここに居るということは、私にとっては生身のままで高速道路を横切るようなことなのである。恐怖感に拍車がかかるのは仕方がない。それでも少しは落ちつけたのだ。膝が大爆笑するくらいは大目に見ていいだろう。
そうしてさらに自分を落ち着けたところで黒い服が視界を横切り、向いのソファに腰を下ろした。ゴトーさんだ。
彼は私のことを額に青筋を浮かべた、見たことあるような顔でまじまじと眺める。そしてほとんど間をおかず、笑った。・・・笑った?
「先程は坊ちゃんがお世話になったようで。」
「え?あ、いや。」
彼がぶっ倒れたお陰で命拾いしたようなものだし、キャラクターとして知っている「イルミ=ゾルディック」は好きの部類に入る。そして何より兄貴とほんの少しだが似ている。彼としても特に私に大して悪意を持っているわけではない・・・はずだから、あそこで実際危害を加えられていたとしても、そこまで痛くなければ同じようなことをしただろう。つい義理や人情で動いてしまうのは、私の長所であり短所だ。
「しかし、事態は深刻なようでしてね。・・・もしかしたら、目を覚まさない、なんてことになるかもしれないそうだ。」
というと、念が絡んでいるということだろうか。彼だって完璧に強いというわけではないだろうし、仕事で能力者との戦闘になったときうっかりカウンター型の能力でも食らったのかもしれない。それがどうして私を殺そうとしたとき都合よく発動したのかはわからないし、もといた世界であればもっと悩むべき問題なのだろうが、ここではとりあえずそれで片が付く。
考えながら視線でおずおずと頷くと、彼はやや雰囲気を重くして、噛みしめるように続けた。
「・・・何か、心当たりがあるなら、隠さず話して貰いたい。」
「私は何も・・・」
というかまず、普通に考えれば私は「今現在自分の置かれている状況を飲み込めていない」状態にあるべきなのだ。実際には運よく持っている予備知識のお陰である程度は把握することが可能だし、思い当たる節なら先に言ったようにないわけではないが、単なる想像であって心当たりではない。それに彼が欲しい情報は十中八九「お前がやったのかどうか」だ。ノーと答えておくのが賢明だろう。
・・・くらいの思考を答える前にできればもっと賢く見えるのだろうが、どうも私は頭が回るまでに時間がかかるらしい。いや、ここはポジティブにマイペースなのだと思っておこう。
ゴトーさんは私の答えの意味を探るような間をおいて、また私をじろじろと眺めてから、「失礼」と断って席を立った。こんな小娘にも礼儀正しくしているのを見るとなんだか気の毒だ。脚をぶらつかせて緊張を解そうとしながら屋敷を見回してふと気づく。――なぜだろう、他の執事がいない。カナリアちゃんはもとの位置についたのだと思えばいいだろうが、他の執事が引っ込む理由なんてあるだろうか。私のことを監視していてもよさそうなものだが。
「お待たせしました。」
背後に飾られた抽象画からいつの間にか戻っていたゴトーさんに視線を戻す。相変わらずの笑顔だが、ずっと見ているとなんだか不安になる。何か隠しているのだろうか。
「旦那様がお呼びです。」
――膝がついに硬直した。
私は「こちらへ」と手を引かれるままによたよたと歩きながら、ぼんやりと中空を仰いだ。
「(・・・帰りたい)」
ほんとうに、切実に。
written by ゆーこ
