2.壊れた時計
「いや〜〜〜わたし影うすくってよくファミレスでひとりだけ水出してもらえないんだよね〜幽霊かって話だよね〜びっくりしたよねごめんねバイバ〜イ!」
弁明するなら、私も私なりに頭を使ったし、出し抜こうという努力はした。
それがよくわからないことを捲し立てつつダッシュで逃げるというあまり美しくない方法であったとしても、結果的に相手を混乱させて振り切ることができたのだから不正解ではないはずだ。不正解ではないが、ジンに知られたらしこたまバカにされたうえで徹底的にシバかれるに違いない。
別の意味でどきどきしながら階段を下り、談笑するベルボーイたちの隙間をくぐり抜け、受付の背後を抜けて従業員通用口から事務所に滑り込む。
事務所の中では責任者らしい初老の紳士がひとり、コーヒーを飲みながらデスクワークをしていた。パソコンは彼が使っているもののほかにもう1台、あとは電話や書類が並んでいる。
紳士のポケットを探って名刺を一枚拝借し、空いているパソコンからネットマップにアクセスしてホテル名で検索してみると、どうやらここはヨルビアン大陸西部にある離島のリゾートホテルのようだった。
情報収集をするなら人の多いヨークシンあたりまで出たほうがいいだろう。交通手段は船か飛行船だが、それなりに広い島なのでどちらにしてもこのホテルからはかなり距離がある。歩けないことはないが、持ち出せそうな近郊地図は観光用のアバウトなものしか置いていないし、徒歩で空港にたどり着いても夜行の便に間に合うかは微妙なところだ。タクシーを呼んでもいいのだが、今は現金がない。ATMに寄ってもらうのも手ではあるが、そもそも観光地はぼったくられることもあるのであまり気は進まない。
今日はもう大人しく休んで、動くのは明日の朝からのほうがいいのかもしれない。どのみち飛行船のチケットを取るためのお金が要るし、明日になったらホテルの送迎車も動き始めるだろう。慌てて動いたところでジンが近づくわけでもない。急がば回れ、というやつだ。
ぱたん、とパソコンを閉じて振り向くと、いつの間にかそこにはさらさらした黒髪の青年が立っていた。彼はこちらを――というよりも、突然閉じたパソコンを見ながら固まっている。
いつの間に入ってきていたのかわからないが、おそらく"使える"ほうの人だ。今更ながらなるべく音を立てないように彼の死角まで移動して、机の影に隠れる。何か生温いものが背中に触れたので見てみると、デスクワークをしていたはずの紳士が頭を針山のようにしながらぐったりと机にうつ伏せていた。まさか私が一生懸命検索している横でこんなアグレッシブな殺人事件が起きていたなんて。ジンに知られたらめいっぱい罵倒された挙げ句海に投げられるかもしれない。
震えながらきょろきょろと周囲を再確認する。幸いドアが開け放してあったので、そこからするりと抜け出した。受付にはさっき見たのと同じお姉さんが座っていたが、彼女の後頭部にも前衛的な髪飾りのように針が散らされている。事務所の紳士と違うのは姿勢がいいことくらいだ。まさかこれで生きているなんてことは、と恐る恐るつついてみると、彼女はアンドロイドのような機械的な笑みを浮かべた。死んでいたほうがましだった。
「何かあったのか?」
――背後の気配が増えた。
なんとなく気になって今抜けてきたばかりのドアを覗くと、さっきの黒髪の青年のほかにもうひとり、大柄な銀髪の男性がひとり立っている。事務所の奥の通用口から入ってきたのだろう。あとちょっと遅かったら挟み撃ちにされていたところだった。
銀髪の男性の問いかけに、青年は少し考え込むように沈黙していたが、しばらくして首を振る。
「いや、気のせいだった」
「そうか」
どうやら気付かれてはいないらしい。凝も円も使っていない相手に勘付かれてしまったら透明人間の名折れだ。ほっとして胸をなでおろしながら首を引っ込める。
「とりあえずコイツ使ってターゲットに接触してみる。キルは?」
「ターゲットの息子と接触してるところだ。途中一般人に姿を見られたらしいが、問題ないだろう」
たぶんさっきの少年のことを言っているのだろう。一般人離れしたご一行様が他に何組もいれば話は別だが、そんなホテルは嫌だ。それに、ターゲットと言うからには彼らは何かのお仕事をしに来ているのだ。私とは無関係に違いないので、もう盗み聞きしている必要もない。
「その一般人も殺しといたほうがよくない?」
「必要はない」
青年のほうは物騒だが、おじさまの方は比較的冷静だ。少し安心したが、いずれにせよ、暗殺の人なら深入りは無用だ。こんな場面を見られていたと知れたら、それこそ必要に駆られて針山にされてしまうかもしれない。ホテルのどこかに隠れて朝を待つつもりだったが、ここは離れたほうがいいだろう。
身を引いてフロントを抜け出し、エントランスホールを抜けて玄関へ向かう。自動ドアがあるので一度透明化を解かなければならないが、背後の殺し屋たちのことを思うと不用意な行動はしにくい。
念のため、と身を低くして、近場の窓から外の様子を窺う。ドアマンはすでに業務を終えている。人の気配はない――と言いたいところだったが、植え込みを照らす洒落た間接照明の影に混じって、明らかに植物ではないものがこちらを覗いていた。
――別のところから出よう。
