1.狂った磁石



 参ったなぁ、と呟きながら豪華で広い通路をそうっと歩く。すれ違う人達はみんなきれいな格好をしている。私は至って普通の服装だけれど、だからといって悪目立ちすることはない。誰も気にしない。誰も私を見ていない。

 それでもやっぱり困ったなあ、と壁際に座り込む。今の状況を端的に、そしてわかりやすく表現する言葉が一つだけあった。

 迷子である。

* * *

 目を閉じてじっと気配を探る。人はたくさんいる。でも知っている人はどこにもいない。知らない建物だし、窓から見える街もぜんぜん知らないから、私はもうほとんど諦めていた。

 "とんでしまった"のだということには、はじめから気づいていた。

 私には制御できない能力がある。と言っても、最初にこういうことが起きると認識したとき以外はごくささやかなもので、家の中で本を読んでいたのにいつの間にか裏庭にいるとか、出かけようとして玄関で靴を履いたら屋根の上にいたとか、その程度だったからすっかり油断していた。本当はこういうふうに、とんでもなく遠くへとばされてしまうことだって起こりうるのだ。

 そもそも私の念能力自体、ほかの皆のように自分で考えたり、自分で決めて作ったものではない。私が念について知る前、ジンに会ったときにはもう既に完成していた。こういう場合、私が私であるために必要な要素が、たまたま念能力としての形になって出てきたと言ったほうが正しいらしい。そしてそういうタイプは大抵「無意識に制御できる<超能力型>」と「意識しても制御できない<能力独立型>」に分かれる。けれど私はどうやらどっちつかずのようで、気配を消してジンの顔にらくがきすることはできても、自分の身体がどうしてこうも曖昧なのか、そもそもなぜこんな超理論が普通に語られる世界にいるのかは全く見当もつかない。
 ひとまず、自分で制御できる気配の希釈に関する能力を<僕は透明人間スケルトン>と名付け、他のよくわからない部分は"幽体離脱エスケープ"と呼んでいる。弟弟子のカイトには区分けが雑すぎると苦い顔をされたものだが、死んだ身体がまったくの異世界でふつうに息をしているのも、軽い気持ちで大冒険を思い浮かべただけで見知らぬ土地に飛んでいってしまうのも、まあ似たようなものだ。


 気を取り直して辺りを見回す。やはり見覚えのないきれいな建物の中だ。廊下の突き当りの大窓からは静かな夜景が見えている。明かりは最低限で、物音といえば遠くの方で小さく流れているクラシック音楽くらいだ。振り向いてすぐ側にある部屋の扉を見ると、301と書かれた豪奢なプレートがついている。どうやらここはホテルのようだ。

 それなら出ていくのは簡単だが、出ていっても交通手段がなければまた延々徒歩でさまよう羽目になる。"幽体離脱エスケープ"は基本、私が意識して使おうとしてもウンともスンとも言わないやつなので、こういうときは全くあてにならない。
 まずはフロントあたりに忍び込んで住所や地図でも見させてもらって、それから考えよう。こんなことなら出し渋らないで地図アプリ見られる携帯に変えとくんだった、と軽く溜息をつくと、ちょうど携帯が鳴り出した。ジンだ。

「もしもしでーす。どうかした?」
『どうかしたのはオメーのほうだろが!今どこいんだよ』
「どこ……だろうね……」

 遠い目をしながら答えると、ジンはやれやれとでも言わんばかりの溜息をついた。

『まあ、そろそろ最後の課題出そうかと思ってたとこだし、かえって丁度いいな』
「課題?こないだカイトに出してたやつ?」

 尋ねると、ジンは少し考えてから「それでいいか」と頷いた。私も少し考えてから「なるほどー」と相槌を打つ。――たぶん本当は別の課題出そうと思ってたけど今急激に面倒くさくなったやつだ。ジンは私に対してとてもすごく雑になる瞬間がわりとある。

『じゃ、そういうことだからあとは頑張れよ』
「そっちこそ」
『カイトとどっちが先に来るか、楽しみにしてるぜ』
「ほいほい」

 適当に返事をしながら、大きな荷物を抱えてこちらへ向かってくるベルボーイを避けて廊下の端へ体を寄せる。ボストンバッグを2個抱えながら一生懸命にカートを押してきたせいか、制服の赤い帽子がいまにも落ちそうだ。そっと手を伸ばして帽子を頭の真上に戻し、既に切れている電話を無造作にポケットへ放り込む。

 ジンの課題はどうにでもなるのでさておき、今はとにかくここから街へ移動する手段をはっきりさせたい。フロントといえば一階入り口の真正面だが、大変残念なことに私には方向感覚もなければ野生の勘もないので、すんなりたどり着けるかは運次第である。

 よそ見をしながらとろとろ歩いていると、ちょうど廊下の交差するところでおなかに鈍い衝撃を受けた。人の気配がないからといって油断しすぎてしまったようだ。でもこんなところに随分大きな障害物があるんだな、と視線を下ろすと、そこにあったのはふわふわした銀髪の、子猫のような少年の頭だった。

「わっ、ごめんね!?」

 慌てて謝って、彼の目の高さまで身を屈める。6歳くらいだろうか。小さな少年は驚いた様子で私をじっと見つめていたが、私が顔を近づけると警戒心をあらわにして、猫のような目を鋭くしながらこちらを睨みつけた。

「あんた、ナニモノ?」
「死にモノ……じゃなかった、です」

 なんかこんなこと前にもやったことある気がする。たぶんものすごく昔の話だが。

 気配を消すクセがあることは早い段階から指摘されていたし、「そうやって変な登場のしかたして無駄に警戒されて困るのはお前だぞ」とジンに口酸っぱく言われているので、隠れる必要がなければ人のいるところではちゃんと人並みに気配を出すようにしているし、隠れるときはちゃんと避けるか、すり抜けられるようにしている。
 でもこの少年がいることに、私は気が付かなかった。足音がしなかったからだ。

「……で、なんなの?」

 聞き直された。

「えーと」

 私はとりあえずにっこりと笑って、一生懸命考えた。――たぶんカタギじゃないこの子を、どうにかして煙に巻く方法を。