4.花の重さはいちもんめ
遠くから声が聞こえた。
誰の声か判別できるほど普通の音ではない。叫び声だ。俺はすぐにの身に何かが起きたのだと理解する。
あいつはあらゆる意味で鈍感だ。前に魔獣に出くわした時でさえ「わぁ」くらいの反応しかなかった。そいつが叫ぶということは、相当な異常事態だということだ。
小屋の外に出て、迷わず目の前の小川を川上へ辿って行く。声の方向からはやや外れていたが、性格は至って素直だからはじめは確かにあの大岩を目指したはずだ。ただでさえ気配の無い奴を、一瞬の叫び声だけを頼りに探すのは無理がある。まずは痕跡を探さなければならないだろう。そして状況を把握する。
目印の大岩が視界に入った瞬間、俺は異変に気付いた。草を踏み躙ったような青臭さと土の匂いに混じって、血の臭いがする。まさかと思って小川を見ると、淵に堆積した砂がわずかに赤い。さらに近づけば、岩の天辺から側面にかけて、大きな爪痕と真新しい血飛沫が残されているのが見えた。俺は最悪の事態を想定しつつ、岩の周辺を確認する。
岩の真下の水底がひどく荒れて、肉食の小魚が集っているところがある。屈んで手を入れると、繊維質のものが沈んでいた。掬い上げるまでも無い、の髪だ。
恐らくは、前に俺が見つけたときと同じようにこの上に座っていたところを、後ろから何かに襲われて、ここに落とされたのだろう。頭から落ちて尖った岩の破片にぶつかり、頭皮と毛髪の一部が削げ落ちた。それで骨と中身が無事とは思えないが、ここから叫んだわけではないのだから、致命傷ではないらしい。
横を見ると、あちこちの落ち葉や木の幹にべったりと血痕が残っていた。追いかけて進んでみたが、どうしたことか痕跡は三メートルほど進んだところで既に途絶えている。
――消した様子はないのだが。
周囲を見回して、俺はふと足元の落ち葉に目を落とした。べっとりと血に塗れた一帯から一歩半ほど離れたところに、縁取りが尖った血痕が残っている。
俺は体を低くして、似たような血痕のある落ち葉を注意深く観察する。そして遥か高くに木漏れ日の光る頭上を見上げ、舌打ちをした。
「……面倒な奴が出てきやがったな」
* * *
目を開けると、冷たい風が頬を撫でた。しかしすぐに意識が遠くなって、言うことを聞かない自動のシャッターみたいにじりじりとまぶたが落ちていく。それでも意地でなんとか視線を動かすと、下に緑の絨毯が見えた。
あれ、おかしい。そう思ったときにはもう目の前は暗くなっていた。いまさら血を流しすぎたからといって死ぬことはないはずだが、それでもそれが私の体を動かすのに必要なものであることに変わりはないらしい。
それにしても、私は今どうなっているのだろう。感覚はぼんやりとしていてあまり役に立たないけれど、右のわき腹を引っ張られていて、頭と足が横向きのままだらんと下に垂れ下がったような姿勢になっているのはわかる。でも目が開かないし、においも感じない。音は砂嵐のようにしか聞こえない。
回転の鈍い頭でしばらく考えて、私はようやくひとつの仮説にたどり着いた。
――もしかして私は、飛んでいるのでは。
それから落ちたように真っ暗な沈黙があって、私ははっと目を開けた。じわじわしていた頭のてっぺんの痛みが取れている。指先も動く。腕も脚も動く。首をちょっと曲げて脇腹を見ると、そこには大きな鋭い鉤爪がこれでもかと食い込んでいた。岩肌のような脚を視線で上へたどっていくと、グレーの羽毛が風にさらさらと揺れている。
鳥だ。怪鳥と言ったほうがいいくらいの、大きな鳥。
やはり私は飛んでいるらしい。だとすると、もしかしてずいぶん遠くへ連れてこられてしまったのでは。少し焦ったが、どうやら鳥は同じ場所を大きく旋回し続けているようだ。
それでも地上の緑の一体どこが私の居た場所なのか、全くわからない。それ以前にこの状況からどうやって脱すればいいのかもわからない。
「困ったなぁ」
そう呟いたのと、嫌な浮遊感がしたのは同時だった。
目の前に広がるのが緑から青に変わる。右脇腹が解放されたのだと気づくまでには少し時間がかかった。
大きな鳥がすごい勢いで小さくなっていったような気もしたし、ずっと一枚の写真を見ているような感覚でもあった。耳元で風が轟いて何も聞こえない。でも胸は嫌に静かだった。
さすがにこの高さから落ちたら、人のかたちをしていられないかもしれない。
そうなったら、私はどうなるのだろう。お腹が切れても、頭が割れても、血が流れても、関係ない。私はもう既に死んでいて、かろうじて人のかたちのままでいるだけだ。それが、人のかたちですらなくなったら?
思考が躓く。また感覚が鈍りだしていた。もうすぐ意識が途切れるのだろう。
私がまぶたを閉じる前に、風が一瞬だけ止んだような気がした。それでも惑う余地もなく意識が暗く落ちていく。
その最後の一瞬に滑り込むように、「大丈夫だ」と宥める声が聞こえたような気がした。
