3.指折り数える



 木の根に食われるみたいに小屋が潰れるのを十回は見たし、「お前料理微妙過ぎる」という文句は五十回くらい言われたし、ぼーっと外に座っていたら頭に鳥がとまるようになってきたけれど、ジンの調査とやらはまだ終わらないらしかった。

「百二十時間経過」

 含みのない台詞が聞こえて、立てた膝にとまっていた赤い鳥が慌てたように羽ばたいていく。
 なんのことだろうか。私は首を傾げ、隣に腰を下ろしたジンにちらりと視線を向ける。彼は呆れた風にあぐらをかいた膝に頬杖をついて、お前なあ、と息を吐いた。

「飲まず食わずの不眠不休で大丈夫なのはわかったけど、五日間も座りっぱなしで微動だにしねーのは流石にこえーぞ」
「でも私が動いてなくても森の方が動くから、おもしろいよ?」
「言ってろ、あともう五日で森の一部になれるぜ」

 ジンが顎で私の足元を示す。膝を抱えていたので爪先までは見えなかったが、動かそうとして納得した。どうやら木の根が絡んでしまったらしい。

「相変わらずものすごい生命力だね」
「その代わり競争も激しくて、新種が次々生まれて次々絶滅してくんだけどな。そんだけ適応力の居る環境ってことだ」

 ジンが調査をする理由、として何度か似たようなことを聞いていた。私は苦心して木の根を緩めて裸足を引き抜くと、よたよたと立ち上がる。

 一人でいた頃は焦りもあってなかなか落ち着いていられなかったけれど、今はそのうちジンがどうにかしてくれるという気持ちがあるからか、無闇にあちこち歩き回ることはなくなった。小屋に帰っても板の上に枯れ草と布を敷いて寝るだけだし、二人横になるには少し狭いから、ジンがそばにいる限りはここで風に当たっていたほうが快適なのだ。
 だからといって、五日も座りっぱなしはやっぱりやりすぎたかもしれない。身体をぱきぱき言わせながら軽い体操をして、何か書きものを始めたジンの手元を覗き込むように屈んで顔を出す。

「ジン、調査ってまだなの?」
「ん?そろそろ終わるぜ。いい加減引き継ぎも来るだろ」
「ひきつぎ?」
「言ってなかったか?俺は代理。前にここらの記録の担当だった奴、俺のちょっとしたダチなんだが、密猟者に殺られたらしくてな。代理やりつつ何があったのか探ろうとしたんだが、ヒトっぽいのはついぞお前しか見かけなかった」
「ジン、さすがの私もそれは何を言いたいのかわかる!」

 つまり人っぽいけどヒトじゃなかった的なアレだろう!と指差して言ってみたら、ものすごくがっかりしたような、めんどくさそうな顔で思いっきり溜息を吐かれてしまった。

「合ってるけどお前、バカだな」

 指差し返されたので負けじともう片方の手でさらに指差して「そういうジンも実はバカだって私気がついたし!」と鼻で笑ってやると、耐えきれなかった風に口元でちょっと笑ったのが見えた。してやったりだ。でもバカにされていることはひしひし伝わってきているのでいつか仕返しをしようと心に決めた。背中にバカって書いた張り紙でもしてやろう。私にかかればバカもアホも貼り放題剥がし放題なのだから。

「また何かしょうもないこと考えてるだろ」
「ジンほどしょうもなくないよ?」
「俺のどこがしょうもないんだよ!」
「えっ、だってけっこうバカだよね?」
「お前に言われるとめちゃくちゃ腹立つな……」

 口角を下げてじと目でこちらを見るジンに思いっきり緩んだ笑みを返しつつ、否定はしなかったね、と心の中で頷く。

 それはもちろん、ジンは森のことには詳しかった。食べられる木の実とそうでない木の実、水のある場所の探しかた、動物の探しかた、捕まえかた、食べかた――教わったことは両手でも数え切れないほどある。でも、何かが決定的にズレている。
 拠点にしたって、板と棒を打ち付けただけの掘っ立て小屋なのだから、壊れる前に解体して場所を変えればいいのに、そのことにまったく気付いていなかった。それどころか、いまだに「寝れればいいだろ」の一点張りだ。でもそれはジンがうっかりしていたからではない。彼は本当に小屋のことをなんとも思っていないのだ。
 あんなものはあってもなくても同じで、あれば便利に使うけれど、なければないでそのまま平然と暮らしていける。そういう、野生に生きているというか、ふつうの暮らしを平気な顔でひっくり返して、それが一番正しいみたいな顔をしているところが、どうしようもなく「バカ」なのだ。

「暇なら散歩でもしてこいよ。五日も座ってたお陰で、そこらの景色も大分変わったぜ」
「ほんと?迷子になるかな」
「すぐそこの川、登ってったらお前が最初に座り込んでた大岩があるから、アレ目印にしとけばなんとかなるだろ」
「岩……そっか岩は動かないか」
「お前ほどじゃねーけどな」
「なんかそれも悪口のような気がする……」
「気のせいだろ」

 ジンはわざとらしくそっぽを向いて、それきり黙り込んだ。この態度、明らかにバカにしている。間違いない。

 今夜ヤツの額にバカと書く。私はそう心に決め、すっくと立ち上がった。まずは――そうだ。色のつけられそうな木の実でも探してこよう。

    * * *

 小屋に背を向ける方向へ小川に沿って歩きながら、私はふとジンとクロロ君のことを交互に考えてみた。

 ジンは私を特別扱いしない。死人だと言っても気にする様子がないし、当たり前な顔で普通にどついてくるし、冗談にも付き合ってくれる。常識外れはいつもお互い様。対等に言い合える、いい友達だと思う。
 クロロ君にとって、私はただの研究対象だった。別にそれ自体が嫌だと思ったことはないし、逃げられるとわかってすぐ逃げた理由はただ「自由に遊びたかったから」だけれど、彼とはきっと友達にはなれないだろう。まず会話が成立しない。

 そこまで考えて、私は立ち止まる。目の前には周囲の森の猛々しい緑から取り残されたように、不自然なほど静かに座り込む大きな岩がいくつかあった。私がジンと最初に出会った場所だ。

 私は岩の裏側に回ると、岩どうしぶつかって砕けたところを踏み台に天辺までよじ登る。なんとなく踏み心地が違ったので不思議に思って足元を見ると、私が見たときにはなかった苔が一面に生していた。よく見れば岩の上も緑色になっている。あの時と同じように座ってみると、思った通り苔がふかふかして居心地が良かった。
――これなら十日はじっとしてられる。
 にやっと笑って、それからぶるぶる首を振る。ぼうっとしているのは、近くに人がいるとわかっているから気楽に楽しめただけだ。一人ぼっちでぼうっとしていても楽しくはない。座り心地いいけど。ああ、それに今日はお日さまもぽかぽかしていて気持ちがいい。いや、ここでまた岩にひっついて何日も過ごしてしまったらジンに笑われるかも――。

 どうでもいいようなことを考えているうちに、また意識が遠くへ向かいだしていた。
 私の身体はもう睡眠を必要としないらしいから、これはただ体が動かなくなる合図だ。実感はほとんどないけれど、疲れていたり、お腹がすいていたり、水が足りないとかで、身体の調子が狂うとこうなる。気付いたのは私じゃなく、ジンだった。

――まだ死んでないのかもしれない。

 期待するわけでもなく、ただそう考えて、お腹のあたりをゆっくりとさする。縫い痕は少し見ない間に消えて、もうどこがどうなっていたかもうまく思い出せない。
 目を閉じると、頭の奥でちらちらと最期の記憶が映し出される。――ぶれる風景、赤紫の私の手とグレーの地面と緑色のトラック。黒くすすけた複雑な形と、固いものや詰まった液体がはちきれる音。ゴムが焦げたにおいと鉄くさい何か、悲鳴と怒号とクラクション。

 確か痛かったと思うのに、その記憶は虫食いのように抜け落ちていた。それだけじゃない。色々なことが思い出せなくなっている。多分学校から帰る途中で、友達が何人か一緒に歩いていたはずなのに、その名前も、顔も。

――やっぱり死んでるのかもしれない。

 私は考え直して、目を開けて立ち上がろうとした。すると耳の後ろでなにかが鳴って、背中を思いきり押される。私はそのまま大岩から転げ落ちて、小川の底の砂利の中に頭から突っ込んだ。
 あ、いまちょっと痛い。いやけっこう痛いのかもしれない、と鈍い感覚の奥の方でそう感じながら、ぐらぐらしだした視界と生温かい何かをぼんやりと自覚する。

 何が起きているのかは、よくわからなかった。

 それでも、私なりに頭を精一杯回転させて考えたのだろう。気が付いたらありったけの大声で叫んでいて、そのあとすぐにぐらりと気を失った。

 死にはしないだろうと思った。頭の形がどうなっていても、どろどろ流れている赤い液体も、私にはあまり関係がないらしいから。