1.迷子とキャッチボール



「いっぺん死んでこい!」

誰かにそう言われたことがあるような気がする。

 クロロ君に指摘されるまでもなく、私は頭の出来があまりよくない。たぶん授業はほとんど寝ていたし、赤点も追試もこわくないくらい当たり前だった。知らないことやわからないことがたくさんあって、でもそんなのは些細なことだと思っていた。
 そんなふうだから、きっと私を心配してくれる優しい人さえ呆れさせてしまっていたのだろう。

「バカは死んでも治らないっていうじゃん。諦めなさい」

 ほんとうにね。そんなの冗談だと思ってた。だからって死んだら治ると思ってたわけでもないんだけど。

 これは誰に言われたんだっけ。もう何十回も同じ台詞を思い返しているのに、まるで思い出せない。

 そんなことよりも考えなくてはならない問題が目の前にあるのだが、そちらはもう数百回唸った末に頭の悪さを痛感して泣く泣く諦めただけなので、神様も仏様もみんな許してくれるはずだ。

 おそろしいほどに鬱蒼と緑の生い茂る山の中で、私は自分の見事な迷子っぷりに半ば感動すら覚えていた。

    * * *

「こんなとこで人に会うとはなぁ」

 それだけ言って、ひとしきり感動し終わってちょっと落ち込みはじめていた私の前に立ったのは、もう何週間も人里に降りていなさそうな風貌の青年だった。
 お迎えにしてはよれよれの天使様だ。夢だろうか。大きな岩の上で膝を抱えてぼうっと座ったままぼんやり眺めていると、彼は私の目の前にしゃがみ込んだ。そしてほとんどゼロ距離からまじまじとこちらを観察してくる。

「どうしてこんなとこに居るんだ?」
「おそらく迷子です。でもついこないだまでは流星街にいたはず」
「へえ、変な奴だな」
「のような気がしてきますね、あげくの果てに死人ですもんね」
「何だそれスゲェな」

 雑な感想を聞きながら、私は首を傾げる。この間までそれが理由で囚われの身になっていたのだが、この青年にとってはどうでもいいことなのかもしれない。それか信じていないか、どちらかだろう。

 でも、それにしては彼の視線がやけに刺さる。クロロ君ほどではないにせよ、彼も何かしら面倒なタイプの人かもしれない。もしそうだったら捕まる前に逃げよう。

「おい」

 呼ばれて顔を上げると、急に目の前に人差し指を突き付けられた。少しびっくりして瞬きをしながら、彼の顔と指先を交互に眺めて首を傾げていると、彼はにやりと笑う。

「何か見えるか?」
「え?」
「指んとこ」
「えーっと?」

 何のことかと思いながら彼の指が差す方や指先をきょろきょろ探す。すると、ふと目の前に違和感を覚えた。
 彼の人差し指の真上。ほんの直径五センチくらいの丸い形をとって、夏の午後のアスファルトの上のように景色が揺れている。このことを言っているのだろうか。
 とりあえず「もやっとしてる」とだけ答えると、彼は頷きながら少し離れていった。一体何に納得したのか、そもそもその不思議なワザはなんなのか、疑問はあったけれど、ひとまず視線が外れたことに安堵して息をつく。

「お前、行くあては?」
「無い?というか、森からぜんぜん出られなくて……けっこうがんばったけど、ほら」

 歩きすぎてぼろぼろになった靴が辛うじて引っかかっている両足を指し、やれやれと大袈裟な身ぶりで溜息を吐くと、彼はぷっと吹き出した。そして私の肩をバシバシ叩いて、気にすんな気にすんなと笑って言う。

「この山は普通に歩いても出られない。ここの植物はただじゃ死なない上成長が恐ろしく早いからな。一週間もあれば人が作った道なんてもとの森に戻っちまう。斜面もなだらかでデコボコしてるし、コンパスも利かない。その格好じゃ迷って当然だ」
「? とりあえず私のせいじゃないのはわかりました」
「お前頭悪いなー」
「えへへー」

 どうでもよさそうに言う彼の様子に、私は思わず満面の笑みを見せてしまった。訂正するように「褒めてねーぞ」と言われたけれど、それがわからなかったからじゃない。
 きっと彼は私を捕まえたりしない。大雑把だけれど、たぶんいい人だ。

「ところで、あなたのお名前は?」
「ジン=フリークス。お前は?」

 そう訊き返されて、私はどう答えようか少し迷った。クロロ君は本名を聞いたくせに呼ばなかったなあ、とか、ジンはどっちが呼びやすいかなあ、とゆっくり時間をかけて考え、結局「です!」と元気よく名乗る。ジンはまた笑った。

「偽名考えてましたと言わんばかりの間だな」
「失礼な、由緒正しいあだ名です。でもいいですよ」
「由緒あるのか?」

 ジンは呆れたようにそれだけ言うと、すぐにふつうの顔に戻った。私はにんまり笑んだままそれを眺める。

「じゃあ行くか」
「どこに?」
「基地……いや、拠点? ……なんかそんなとこだよ」

 細かいことはどうでもいいだろ、とジンはこちらを見ないままさっと立ち上がった。自分で誘ったわりにふわっとしているのが気にならないでもないが、まあ、行ったらわかることだ。ぶっきらぼうに差し出された手を掴むと、私の身体は宙に浮いた。
 驚いて声を上げるより早く、耳元で風がごうっと吹いて、お腹のあたりが苦しくなる。思わず「ぐえっ」と嗚咽を漏らしながらお腹を押さえようとしたものの、ジンの腕でがっちりと抱え込まれてしまって自分ではもうどうしようもない。

「あのジンさん、これ苦し」

 抗議の声を上げてみたが、ジンはそのまま構わずすたすたと大股で歩き始めてしまう。慌てて周囲を見回すと、さっきまで座り込んでいた大岩がどんどん遠くなっていくのが見えた。二階建ての建物のベランダくらいの高さはあったのに、こともあろうにこの人は、私を抱えてそこから飛び降りたようだ。そして今も平然としている。

「まあ、一時間も歩けば着くって」
「言葉のキャッチボールしましょう!」
「どうせ行くあてないんだろ?」

 豪速球が頭の上を通過していったような錯覚を見た。

 この人、やっぱり雑だ。いい意味でも、悪い意味でも。