12-奇縁 II





随分長い間目を塞いでいたような気がする。次に私が見たのはまた知らない部屋の壁と天井で、今度はきちんとした照明が点いていた。

「まだ起きなくてもよかったのに。」

シャルさんの声が聞こえたので起きあがると、彼の姿を見るより先にブランケットで目隠しをされた。――血の匂いがする。誰かひどい怪我をした人か、そうでなくても、もっとたくさん血を浴びた人がいるのだろう。

黙って考えていると、誰かの手が背中を叩いた。生きてるか、とでも言いたそうな調子だったので「生きてますよ」と答えて、暖簾をくぐるようにブランケットを剥ぐ。ベッドが二つある広い部屋だが手入れは行き届いておらず、毛足の短い絨毯は泥か埃か食べこぼしか、ただ汚かった。調度品もどこか不調和だ。閉め切られたカーテンは地味な色の大きな花柄だが、壁際の机は妙に鮮やかな色をしている。家具の内容や間取りを見ればホテルのようにも思えるが、そうではないのかもしれない。

部屋の隅の方に置かれたベッドの上からまずはそれだけ見て、簀巻きで床に転がされた幹部の男を視界の端から徐々に正面に捕える。――血の匂いは彼ではない。黒装束は確かに千切れたり乱れたりしていたが、口から黒い血を流している以外に怪我を負っている様子はない。そこから更に視線を動かして、私は隣に目をやった。そしてすぐに伏せ、血の付いたブランケットの端を握り締める。

「もしかして血が駄目?」
「・・・」

駄目、なはずはない。あの血の海だって、思い出せないことはないのだ。嫌悪感は忘れても忘れても湧いてくるけれど、その度に消してしまえばいい。

私がずっと黙っていたからか、シャルさんは静かに離れて行った。入れ換わりにパクノダさんが来て、確かめるように頬を撫でる。大丈夫?という小声の問いには、小さく相槌を打って返した。

「・・・まだ思い出せてないことがあるのかもしれないです。」
「あなたの記憶は複雑みたいだから、無理もないわね。気にしないで、ゆっくり考えて。」

――複雑。まだ私のわからないところで、何か絡まっているというのだろうか。目を細めて頭の奥を探るように意識を巡らせてみたけれど、それとわかるような違和感はない。何かの拍子に思い出すのを期待するしかないのだろう。

「俺、シャワー浴びてくる。」

シャルさんはそう言って部屋の死角へ消えた。彼が去ってしばらくしてから私はようやくまともに顔を上げ、パクノダさんに時間を訊ねる。どうやらもう日付は変わったらしい。「皆さんはお休みにならないんですか」と訊くと、クロロさんが曖昧に頷いた。

「さっきまで他の客が来ていた。ここももう安全じゃない。・・・が、かといって不用意に動くこともできないからな。」

溜息交じりの台詞を聞きながら、ふと視線を横にずらす。隣のベッドには四番さんが倒れ込んだように眠っていた。体調でも崩したのか、ひどく顔色が悪く、呼吸も荒い。

「あの、彼は・・・?」
「働き過ぎだ。」

クロロさんはぶっきらぼうに答え、私の足元に腰掛ける。そしてこちらをじっと見つめた。

「世界教のことは思い出せるのか?」

一瞬誰に言ったのかわからなかった。けれどすぐにはっとして、肯くとも否むともつかない相槌を打つ。

「・・・完全に消してることもあるかもしれません。仮に記憶があっても、事実かどうかは・・・」
「それでいい。何があったか話してくれないか?」

黒い目を見返すと、彼は促すように首を傾げて目を細める。私はゆっくりと視線を落として、まだ纏まらない記憶の束を崩さないよう、慎重に口を開いた。










――――私は、ただの学生だ。平和な国の平均的な学生。勉強が特に出来るというわけでもなく、運動もそこそこ。可もなく不可もない、ただの子供。


それでも普通と呼べなかったのは、ただ記憶に欠陥があるから、というだけだった。それ以外には本当に何もない。性格も珍しいものではない。精神的にも何ら問題はない。時折される特別扱いの意図が掴めず、それがかえって苦痛なくらいだった。


あの日も、確か何かを言われていた。誰に言われたのか、何を言われたのかは思い出せない。ただ、感情を消すだけでは治まらない程度のことだったのは確かだ。
忘れようとしながら通学路を歩いて、何かを追って大通りを渡った。そのまま、何も考えずに走って行った。地面に不自然な白い穴が開いていることに気付いたのは、落ちたあとだった。




痛みで気を失って、目を覚ました時にはほとんどのことを忘れていた。なぜか恭しく手当てをされ、いやに厳かな、それでも数年内に建てられたものとわかる、白黒の妙な建物の中のひときわ白い部屋に、半ば隔離されたまま数日――いや、十日近くを過ごした。事情が飲み込めないながらに危機を感じて何度も逃げようとしたのだが、私の治療や寝起きの世話をしていた幹部の男に捕まって、そのたび部屋に戻された。窓もない、全て白で統一された部屋に。

そのうち、私は「救世主」と呼ばれるようになった。かなり長い時間をかけて神が云々教えが云々とわけのわからない話を聞かされ、最終的には、要約すれば“お前は神の意思を伝える預言者だ”という意味の言葉を突き付けられ、ただただ困惑した。――私が思い出したことは、何の変哲もない日常だけ。神の意志なんてわかるはずがないし、救世主なんてもってのほかだ。私は私しか助けられない。そういう能力しか持っていない。かといって、嘘を吐いて急場を凌ぐのも、親切にして貰った以上気が引ける。

ならば、「人違いです」と素直に言ってしまおう。どう詰られようが、それはあとでどうとでもなるのだから、ここで変に気を回すよりは放り出して貰った方が幸せだ。きっと私が何も知らないとわかったら、この人達だって解放してくれるに違いない。――そう信じて、自分のことを、当たり障りない言葉で説明した。そうしたつもりだった。



―――結果は、血の海と赤い塊の山。それでも、私は逃げることができた。








「・・・“ワームホール”は、教祖の能力なんだと思います。穴の周りに描いてある模様と、教祖の刺青が同じだったから。」
「刺青か・・・どんな模様だ?」
「幾何学模様、っていうか・・・見ようによれば文字みたいな・・・」

思い出しながら説明するとクロロさんは俄に立ち上がり、部屋に備えてあったらしいボールペンでメモ用紙に何か書いてこちらへ見せた。

「これと似てないか?」
「・・・あ、はい。そんな感じでした。・・・やっぱり何かの文字なんですか?」
「神字だ。」

それが何かは知らないが、語感から察するに仏教で言うところの梵字のようなものだろう。適当に当たりを付け、また足元に座ったクロロさんの横顔を眺める。彼は何か考え込んでいるようだったが、相変わらず表情からは何も読み取れない。ただ視線を組んだ足の上に落として、顎に当てた右手を僅かに動かしているだけだ。諦めて目を逸らすと、彼は僅かにだが語調を明るくして、「よし」と頷いた。

「少し人数を増やすか。」