夕立の名残が滴る冷たい森を抜けても、空気はしんと静まり返ったままだった。朽ちた庭には何の音も気配もない。鳥も鼠も死んだように息を潜めている。ずんぐり構える『別荘』も、何か巨大な生き物の死骸のように見えた。
――もしかしたら彼女も中で死んでいるのかもしれない。
俺はいつもそんな想像をしながら門をくぐる。そしていつも一人で頷く。死んでいてもおかしくない。元気に庭木の世話をしている姿のほうがよっぽど現実離れしているくらいだ。今日もたぶん、半ば死んだようにベッドかソファか本の中に埋もれているのだろう。

分厚い玄関扉に手をかけ、錆びた蝶番がねじ切れたりしないようにそっと体を滑り込ませる。
骨が軋むような音を背後に、俺は玄関ホールに立った。冷えた緑のにおいが湿った木と埃のにおいに変わる。そもそも古い建物なので中もあちこち痛んでいるが、それでも生活の気配は感じられた。
どうやらまだ生きてるみたいだ。ふっと短く息を吐きながら、慎重に樫の階段を上る。仕事部屋は電気が点いているようだったが、家主が起きているかどうかはわからない。暗闇が怖いとかいう歳でもないだろうに、彼女が明かりを消すのを俺は見たことがなかった。

ノックを二回。軋むドアノブを目一杯回してドアを開け、わざと音を立てて部屋に入る。すると彼女は毛布の下から顔だけ出して焦点の合わない目でこちらを見、そして数秒の間を置いて「ああイルミかあ」と呟くと、ぐったりと重い寝返りを打った。

「いらっしゃい・・・わるいけど今日は寝かして」

と力なく空を撫でるインクだらけの手を眺めながら、適当に頷いてカウチに腰を下ろした。足の短いテーブルの上には付箋だらけの書類と辞書、そして大量の栄養ドリンクの空き瓶が無造作に置かれている。
手持ち無沙汰に手近な書類を一枚繰ってみると、見たことのない文字の羅列の上に彼女の字でいくつも走り書きがされていた。暗号のような二種類の文字を読むでもなく眺めながら、目の端で彼女の様子を伺う。

「終わったの?これ」

そう尋ねると、彼女はよく沈むソファのなかでもぞもぞ動きながら吐息混じりに肯いた。

「さっき提出したところ・・・イルミっていつも変なタイミングで来るよね」
こそ、いつ来ても仕事に追われてるよね」
「いつもじゃないよ・・・先週はずっとひまだったのに」

また毛布の間から顔がのぞいて不満げにこちらを睨む。顔色が悪いし目もほとんど開いていない。近寄ってまぶたをなぞってやると彼女は嫌そうに首を振った。

「労わってあげようか?」
「イルミのいたわり方は好きくないです」
「そう、残念」

そう言うと彼女は殊更嫌そうにじたばたと身をよじる。仕方ないので放してやると、俺が引っ張った瞼に変な癖がついていつもと違う顔になっていた。

「寝かせてってばあ」
「寝てていいよ、俺は勝手に暇つぶししてるから」
「つぶされるう・・・暴力反対・・・」

抵抗のつもりなのか、彼女は苦悶の表情で両手を前に構えて何か言っている。ちょうど突き出された手のひらを掴んで指先で擦ると、模様のようにはりついたブルーブラックのインクが俺の手に移った。また万年筆にインクを差すのに失敗したのだろう。不器用なんだから大人しくボールペンでも使っていればいいのに、と爪の間にまで入り込んだインクを眺めていると、彼女は薄目を開けたり眉を寄せたりしながらまた身じろぎした。

「イルミ髪の毛くすぐったいし」
「し?」
「口に入る」
「食べないでよ」
「食べられないよお」

彼女の口もとにかかっていた髪を耳にかけて、ソファに片膝を乗せる。彼女はくすぐったそうに手の甲で頬を擦って、それからはっと何かに気付いたような顔をした。

「イルミ、どいて」
「どかなくても寝れるだろ」
「そうじゃない、これはまずいパターンのやつだ」
「ふーん、どのパターン?」

ソファが軋む。彼女はまだ虚ろな目をしている。言うほど危機感はないのか、それとも俺が思っているよりずっと疲れているのか、とにかくただ不満そうに眉を寄せるだけだった。顔の周りでくしゃくしゃになっている髪を指で梳いてやると、じと目気味にこちらを見ていた視線がぐらりと揺れる。

「イルミはすごく、タイミングが悪い」
「俺も忙しいんだよね」
「リズムがあわないのは相性がよくないってことなんだと思うの」

半分寝ぼけているとは思えないほど、その台詞だけきっぱりとしていた。俺は少し面食らって手を止める。しかしそれでスイッチが切れたのか、彼女は意味不明なことを口走りながら、もう邪魔をするなと言わんばかりに毛布を鼻の上まで引き上げた。本人はこれでやり過ごしたつもりなのだろうが、足元のほうが足りなくなって両脚が膝の上まで出てしまっている。俺は密かに溜息をついた。

「ダメならダメって言えばいいだろ」

そう吐き捨てるように言ってみても、もはや返ってくる言葉はない。すやすやと寝息を立て始めた彼女を見て、俺は静かにソファを降りた。

――征服するだけなら簡単なのに。暢気に曝け出された白い膝を見ていると、梃子摺らされている自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。――いい加減刺してしまおうか。でもそれじゃあ面白くない。
力が抜けてソファからずり落ちた脚を持ち上げてやりながら、苦し紛れに内腿の柔らかいところに唇を寄せる。彼女は一瞬眉を引き攣らせると、寝言も言わずに体を丸めて毛布の中へ消えていった。
夜の森