トラブル誘引体質とかいうものにちょっと憧れていたころ、私はとてもとても幸せに暮らしていた。頭が毎日春の陽気だった。べつになにも悩む必要は無かったし、なんとなくそれなりにこなしているような空気を纏っておけばこの不真面目が別段問題視されることもなかった。授業中に眠り込んでいようが、急に当てられておかしなことを口走ろうが、はじめからその程度の評価しか期待していないので、何も不満なことはない。夢も希望もない代わり、悩みもわだかまりもなかった。適当に長いものに巻かれていればなんとかなると思っていたし、事実なんとかなっていたから、これからもずっとなんとかなるだろうと私は考えていたのだ。
しかしその考えは大いに間違っていたことがつい今しがた判明した。我が国の憲法ではどうやら「自由とは不断の努力によって維持されるべき」という風に言われているらしい。ようするにたとえば、豊かでありたければあくせくと働き続けなければならず、平和な日々を享受するためには平和を脅かすであろう要素をあくせくと排除しなければならない。ないしはその努力をしなければならない。もし仮に努力をしなかったならば、私たちは自由を失っても富を失っても平和を失っても文句は言えない。というような考えである。
そういうようなことがそもそも国から言われているのだから、私は今この状況にあっても文句は言えないのだな、と瞬時に諦めた。長いものに巻かれ、使える便利なものにはできる最大の依存をしてこれまでを過ごしてきた私の目の前には今、一人の凶悪な人間――いや、これは最早天災と呼んだっていい。ともかくも、決して私の幸せな毎日を脅かさずに過ぎて行ってくれるタイプではない人が、見るからに地獄絵図的な背景を背負って立っていた。私は彼の名前を知っている。クロロ=ルシルフルというのだ。
「・・・・・」
とりあえずあいさつでもしておくのが大人の礼儀かと思ってこの場面に合いそうな口上を引っ張り出そうとしたのだが、どうやら頭の引き出しがつかえて開かなくなってしまったらしい。私は壁際で両手を挙げた降参のポーズのままずーるずーると背中を滑らせ、最後に床にへたり込んで、さっきから一ミリたりとも表情が変わっていないルシルフルの、相変わらず意味のわからない気合いの入ったロングコートとファーと額の刺青を順に見上げていった。そしてそのまま大袈裟なシャンデリアがぶら下がったやたら古い城の広間の天井を眺める。最早抵抗する気にもならなかった。――もうなんでもいいからとりあえずさっさとどこか行くか、最悪私を殺すかしてさっさと、とにかくさっさとどこか行け。
頭の中でさっささっさと唱え、シャンデリアを睨んだままルシルフルの出方を見ていると、彼はようやく私のことを思い出したらしかった。それでも何か自信がないような雰囲気でこちらに数歩近寄り、私の視界のシャンデリアがあった場所にその顔が来るくらいの位置に立った。そして更に一分ほど、ようするにものすごくしっかり記憶を洗い直したあとで、ルシルフルの目に朦朧としていない真っ直ぐな光が宿る。
「ああ、ハンター試験の。」
「(遅っせえええええええええ)お久しぶりですその節は本当にありがとうございました。あと試験のあとも三回くらいちらっとお会いしてるのでさすがにその記憶の辿り方はショックです。」
「それはあんたがすぐいなくなるからじゃないか?」
いやむしろルシルフル、お前の記憶における私の比重の軽さの問題なのではないだろうか。そんなことを言うか言うまいかで私も一分くらい迷っていたが、その間に彼は私に背を向けて、広間で派手なレッドカーペットを展開しているセレブなお方たちだったもののうち、器用に全く傷つけないでおいた一人を軽々と引きずり出すと、楽しそうに交渉を始めた。私はやれやれとその様子を眺めながら立ち上がって、非常事態のためなのかなんなのか知らないが頑丈そうな鉄格子が降りてしまったあらゆる出入り口を一回り眺めた後、私の頭上三メートルほどのところにある小さな窓に目を付けて、鹿の剥製や金色の燭台を取っ掛かりにそこまでよじ登った。剥製は私が体重をかけたせいで落ちてしまったが、私の方は登頂に成功したので問題ない。
「帰るのか」
そんな声が背後から聞こえたが、声色からするとべつに逃がしてくれないわけではないらしいので、適当に手を振って窓を蹴り開け、外に飛び降りた。ああ良い空気。
「(・・・・びっくりしたああああああああ)」
まさか、まさかあんな天然ものの意味分かんない天災野郎に人生で五度目の出会いを果たすことになろうなんて誰が予想するだろう。するはずがない。いや、二回目と三回目は目撃した時点で逃げたが(あっちも気づいてたので会ったにカウントしておく)四回目なんてついこないだじゃないか。特に何があったわけでもないあの時でさえびびったのに、なんでこう、人が珍しく真面目に給仕とかしてる時に限って本職を見せつけてくるんだ。盗品で溺れて脱臼でもすればいい。
しかしこうなると私もそろそろ平和を保持するための努力とやらをしなければならないような気がしてくる。まだまだなんとかなっている状況だが、これは確実にトラブル誘引体質への一歩を歩み出しているのではなかろうか。
私はひとしきり思考を巡らせたあと、めんどくさいからいいやという結論に落ち着いた。こうして自由は崩落していくのである。